第49話 荒廃都市
ソラは目の前の夢の世界――いや、ただのオタク部屋を開ける。
――ガチャ。
と、ドアノブの音が響いたとき、夕方の太陽の光がソラの瞳を淡く照らす。
「こっ、これは……!」
異世界に転移する前と同じ風景。
棚の上には美少女のフィギュアが一斉に並んでいる。
机には三台のデスクトップパソコン。
本棚には溜めに溜めたライトノベルの数々。
――燃え上がりたい。
――舞い上がって興奮したい。
だが、異世界転移前のソラのアニメオタクに対する心は弱くなっていた。
そう、異世界の方がよっぽどいい。魔導師になって英雄になって――みんなから崇められて。そして、期待されて。
異世界に――戻りたい。
その時、ソラの視界は徐々にぼやける。
ソラは目を中指でこすると、指には冷たい液体が付着していた。
(あれ――。なにこれ――。おっかしいな……)
無意識に流れ出した涙。
「イリス……」
無意識こぼれだす恋人の名前。
「お兄ちゃん……?」
突然背後から聞こえる声。
ソラは驚き肩を一瞬上げたが、冷静さを取り戻した。
「なんだ……。楓花か。驚かせるなよ……」
「あっはは、ごめんごめん! お姉ちゃんがご飯できたからって呼んでるよ?」
「わかったよ。後で行くから」
「はーい」
こんな情けねえ泣き面――見せれるわけないだろうが。
ソラは考える。
自分が本当に居るべき世界はどちらなのかと。
――元居た世界で妹や姉たちと平和に暮らす日常か。
――異世界で魔王を倒すために恋人の美少女と共に英雄活動を行うのか。
それでも俺は、異世界にいたい。
何も取り柄のない俺を変えた世界なのだからな。
それに、イリスと――恋人に会えなくなるのは嫌だ。
*
神薙家リビング――。
異世界に戻る方法は後にするとして、今は姉妹たちとの団欒の時間を尊重することにする。
ソラの両親は訳あって不在である。そのためか、今はソラ、楓花、紗雪の三人。つまりは、男女比一対二の状況下におかれているわけだ。ソラも今思えば、女性に慣れたのも異世界のおかげだと自覚している。
テーブルの上には紗雪特製のイタリアン料理が並べられている。紗雪の料理の腕前は奥が深い。
日本人特有の『いただきます』の挨拶を後に、ソラは紗雪特性ビーフロールを口に運び頬張る。良く噛んでからそれを飲み込む。
「どう? 半年ぶりのお姉ちゃんの料理は」
「美味しいよ……。すごく……」
紗雪の料理は格別だった。その美味は落ちることはなく、上がる一方だ。映像系の専門学校なんて行かずに料理の道を歩めばいいとソラはいつも思う。
食に関しては、異世界よりこっちの世界の方が美味しい。
と、紗雪の料理をまだ三口しか頬張っていない楓花がテーブルに弱々しくもたれかかる。
「全く、お兄ちゃんはいなくなっちゃった理由は話してくれないし最近の世の中は理不尽だよねえ……?」
「何を言っているの楓花。空気を乱すような発言は……」
「でもさぁ。だってさぁ」
「楓花……」
ソラは申し訳なさそうにゆっくり息を吐きだす。
一つ咳払いして、
「いいだろうなら教えてやるよ!」
「えっ!? ホント!?」
「ああ、本当だぜ」
言われるまでもない――このまま疑問を残していけば後が引けなくなる。
「俺はな。楽園のような魔法の世界に行って英雄になってきたんだ」
「――――――」
「――――――」
ソラの英雄伝を聞いた楓花と紗雪は肩をすくめた。期待したのが馬鹿だった。そう痛感する一方だ。
しかし、ソラの遠回しな言い方にも誤りはなかった。そんな子供騙し、通用しまい。ああ、困る。こんなときばかりいい言い訳がない。ソラは己の人生経験の少なさを自負できずにいた。
「そう……。どうしても言う気にはなれないのかぁー。お兄ちゃんってばそういうとこしぶといし、いつまでも子供扱いしてくるからなぁ」
「まあ、ソラにも言いたくないことだってある。そう言いたいんでしょ?」
「んあ、ああ……」
とりあえず、頷くしかない。
肯定するべきだったのだろうか。本当は理解してくれていないもどかしさがソラの心にブレーキをかける。
夕食の時間はいつもより早かった。真夏日という面から見て午後七時だというのにまだ空は朱色がかっていて夕焼けの日輪の光が食器を輝かせるようにして反射する。中庭の観葉植物に囲まれ、外の様子は少し見にくい。
ソラは先程からこの世界に満ちる魔力を探知しているが、異世界に比べると無いに等しかった。異世界に対する少しの手掛かりもなければ、異世界に戻る方法も見当がつかなくなる。ソラにとって、魔力だけが唯一の手掛かりだった。
「ねえソラ……」
「姉貴?」
突然、紗雪がソラを呼ぶ。
「あんた、どうやってここに返ってきたの?」
「いや、それはだな――普通に歩いて……ああ、いや風呂のことか?」
焦燥感に煽られ、答えを整理できずにいたソラを挑発するような質問だ。自分の都合に悪いような問いかけを臨機応変に対応することはどんなに大変なことか。――そんなものソラ限定である。
「あれだよ。サキュバスだとかいう奴等が男性を襲う事件知らないのか? よく外から堂々と帰ってこれたよね」
「――は?」
サキュバス? 男性を襲う?
聞きなれないことが飛び交い、ソラの脳内を混乱で錯乱させる。
「女性は一切襲わずに、男性だけを襲うコスプレ女集団とか怖いよねー。変な羽根つけて何か色気だしちゃって? おまけに町は荒れ果てたし……不気味よね」
「待ってくれよ姉貴! 話が飲み込めないって!」
「ソラ……? 何をそんなに焦って」
「そんなこと知らな――」
知らない。そう言いかけるところだったが、再びブレーキをかける。ここは話を合わせた方が逆に面倒なことにならなくて済む。
「知ってるよ。サキュバスだろ? ――ちょっと、外出るよ……」
息を殺すように肯定するソラ。
ソラが急に椅子から立ち上がった時、リビングの電球の光でできた顔の影がソラの心中を反映していた。
リビングから立ち去ると心憂い思いで玄関の扉をゆっくり開いた。
――そこに待っていたのは荒廃した街だった。
その街の家は白い灰が被さり、所々廃化している。
排水溝を渡る鼠は死に倒れ、飛んでいるはずだった鳥は地に墜落死していた。
そして何よりも気になることは、
――人の気配がしないことだ。
この時間帯は部活帰りの学生が普段は歩いている――が、その姿は一つも見えない。
夕方の光に照らされる光景は戦後の世界の絶望的な空間だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
と、ソラの胸は急激に苦しくなり、呼吸が速くなっていく。
波打つ鼓動はソラの精神を貫き、膝をつかせる。
息をすること自体辛くなり、喉に唾が通らない。
――どうなっているんだよ。
――俺のせいなのか。
この背景は幾度となく異世界で見てきた。そして、今いるソラの街はまさにそれである。
「お兄ちゃん!?」
「ソラ……!?」
――次の瞬間、ソラは、その重みに耐えきれず、気を失った。




