月、今宵も照る
月、今宵も照る
僕が 消えてしまおうとも
あなたが 消えてしまおうとも。
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終わり掛けの秋の乾いた空気が僕の首筋を撫ぜる
また、この街にも冬が来てしまうのだね
時子さん、僕は、
あなたの様に、誰かへの憎しみを自分の肉体にぶつけたりしない
けれども、
心にぽっかりと空いた、空虚と云う名の穴を
僕は、僕は、
どの様にして、埋めて行けばいいのだろうか
少なくとも、今、僕のこの脳みそには、両の手には、
それに対する、ちっぽけな、一筋の糸程の手掛かりすら、有りはしない
運命の赤い糸なんて陳腐な表現は大嫌いだ
だけど敢えて今、その表現を遣うとしたなら
固く結ばれていたのに、「愛しき人の自殺」その行為により
ある日唐突に千切れてしまい、彼の居る場所までは登れずふらふらと
浮遊していたあなたのその糸の先を、
僕は無理やりに引っ張り、自分の小指に結び付けただけなのだ。
運命なんて程遠い、
僕のエゴイズム、そのものなのだ。
ああ、哀しい
気が付けばいつも俯いているあなたが抱いていた哀しみは
十五の夏を境に感情を忘れ始めた僕の脆い傷だらけの心臓に
まるで、まるで、何度も何度も塩を塗り込まれるような、
悲鳴を上げたくなるほどのズキズキと後を引くこの哀しみ、以上のものなのだろうか。
もしそうなのだとしたなら、僕のこの頭では、
その哀しみを想像することなどまるで出来ないだろうね。
答えて欲しいよ
欠けた部分が在りすぎる僕一人では、判らないよ。
嗚呼、
関わりを持った日の朝、必ずあなたは僕の隣に居ない。
まるでその前下がりボヴの、真っ黒くしなやかな髪が、
そこにあるかのような香りだけ、いつも僕の腕の中に残して、
乱れたまま何も着ていない自分が恥ずかしくなるくらい、
もうしっかりと身形を整えて居るのだ。
「下拵えをしなくては」
そう言ってそそくさと、僕の顔すら視ずに寝室を後にする。
例えば、その日がお店の定休日だとしても、お墓を掃除するだとか、
何かしら理由を見付けては、しばらくの時間、僕を避け続けるのだ。
そんな哀しい繰り返しにそろそろ慣れても良い頃だ。
古い建物故に軋む階段の足音、その音が一段、一段、小さくなるほどに、僕は、
きっと僕の周りに漂う酸素の中に、空虚が混ざって居るのだ、と思うほど、
息を吸うほどに、自分の中が空っぽになって行く感覚を味わう。
もう此処に来るべきでは無いのだ
こんな気持ちを吸い込む位ならばいっそ、呼吸を止めてしまいたい
僕はこれ以上に無いほどに怠い身体と頭で洋服を着ると
帰る準備をし始める
するといつだってあなたは絶妙のタイミングで、階段の一段目を踏みしめ、
「ねぇ、一杯、珈琲を飲まない」、と、僕を呼ぶのである
僕は二酸化炭素として「空っぽ」の要因達が身体から吐き出されて行く感覚を覚える。
僕は何もない塊から人間、そして一人の男へと戻るのだ。
僕と時子さんの出逢いはありふれたものだった。
淀んだ日常がいきなり薔薇色に変わるはずもなく
淡々とした日常の中で僕と彼女が関わりを持った、ただそれだけだった。
11歳も年の離れた彼女は、
単なる学生で在る僕を
どう考えているかなんて
知る術も、その気も無い。
時子さんは未亡人で在った。
彼女と生涯を共にすると誓い合った人は、彼女を残して、自殺をしたのだ。
と、僕はどうしても彼女を悲劇のヒロインに仕立て上げたくなるのだが、
実際はそうではなく、二人はこの哀しい世界にいよいよ嫌気が指し、
ある日、心中を図ったそうだ。
方法も場所も、詳しく彼女は話してはくれなかったが、その時、
死に際の彼は、彼女では無い女性の名前を、最期に弱々しく、呼んだのだそうだ。
彼女の頭は朦朧としていた。
だけど、確かに、その名前だけは、はっきりと聞き取ったらしいのだ。
「春子」
「可愛らしい名前ね」
彼女は少し頬を濡らしながらそう暗闇に向かって呟いた。
僕と彼女が始めて肉体的に求め合った後の、静かすぎる夜の事である。
「私、その時、この人と死んでは行けないって思ったの、
だから、朦朧とする意識の中で、助けを呼んで、自分だけ、生き残ったのだわ
彼を、赦したくなかったの、私、一生、
愛し合ってた筈の彼を憎んで、生きていくと決めたの。」
僕は彼女の黒髪を撫ぜながら、少し涙声で語る彼女を見つめていた。
衝撃的な内容な筈なのに、気持ちが高ぶっていたのか、
何だか全てを受け入れられる気がしていた。
その夜以降、彼女はその話を一度もしていない。
また、髪の毛を撫ぜる事も、やんわりと拒否されるようになった。
僕は自分からは決して聞かないようにした。
彼女の嫌がることはしたくなかったし、
それ以上に、聞いてしまったら自分自身が辛くなる気がしたからだ。
彼女の全てを受け入れられる、という気持ちは、
あの夜のみのもので、朝になったら急速に、萎んでいってしまった。
「本当に、太宰治の『人間失格』みたいね」
彼女はあの夜、最後にそう呟いて、眠りに就いた。
僕はそれが、彼女の読んでいる文学雑誌「展望」に掲載されていた、
小説の話だろうとぼんやり、思って、そして眠りに就いたのだ。