いつか、経るときに
今年の正月は実家に帰らないと言った六花の言葉を受けて、僕もこの街で年を越すことにした。両親には卒論を仕上げたいからと言い訳し、残り少なくなった学生生活の最後の冬だ。この街の新年の顔を見るのは、最初で最後になる。僕の就職先は、県外に決まっていた。そして六花もまた、ここを出る。だからきっと、二度とここに住むことはないのだ。
僕らは変わっていく。喜ばしい変化も喜ばしくない変化も含めて、変わっていく。自分以外の人間との距離だって、常に一定とは限らない。中学生の頃の親友と、年に一度しか会わなくなったみたいに。
六花と僕も例外じゃない。今は会いたくなればいつでも会える場所にいて、励まし合ったり相談したり、愚痴をこぼし合ったりできたのに。
物理的な距離は、僕たちをどう変えていくだろう。そして社会的な変化に、自分はどう変わっていくのだろう。
コンビニエンスストアの店先で、アルバイトを終える六花を待っていた。
「お待たせ。店の中で待ってれば良かったのに」
帰り仕度を整えた六花が、前に立つ。
「いや、なんとなく照れくさいっていうか」
「もう全員が渉の顔知ってるっつーの。忠犬とか言われてるのに」
ニットキャップからこぼれた髪が、風に舞う。寒いと僕の腕にしがみついた六花は、少しだけ化粧をしている。素顔の六花を覚えてから、どれくらい経っただろうか。寒さに顰めた顔ですら大切になったのは、いつからだったろう。
やだな、別れるみたいじゃないか。違う違う、今よりも少し距離が離れるだけだ。移動時間二十分が移動時間二時間になるだけ。それくらいの時間なら、ちょっと実家の遠い同窓生が大学まで通ってきていた。アパートを借りるよりも安価いからなんて言って。そんなに大した距離じゃないはずだ。
六花のワンルームは僕のアパートよりも少々狭いし、部屋の半分をベッドが占領している。僕の部屋はコタツが占領しているのだから、大差ないと言えばないんだけど。
エアコンのスイッチを入れた六花は、それだけでは足りないとばかりに小さな温風ヒーターをつけてその前に座り込む。
「コーヒーよりポタージュスープがいいな。とろみがあると、あったまりそうな気がする」
カラフルな電気ケトルが湯を沸かし、僕はインスタントのポタージュスープの粉末を二つのカップに入れた。六花の赤いマグ、僕の青いマグ。このカップは、六花が持って引っ越すんだろうか。僕の部屋の六花のカップは? うん、僕は持っていくよ。新聞紙に綺麗に包んで、次に六花が使うときのために。
「大晦日は、渉の部屋にしよう?」
「こっちの方が寒くないと思うけど」
「渉のとこの方が、広いし」
六花は言葉を切った。
「神社も近いから、寒い時間が少しでも短いでしょ。それにね、私はちゃんと大掃除するし」
「何? 掃除が終わってから部屋を汚したくないからってこと?」
お互いに笑いあって、手を繋いで眠る。就職の目途がつき、卒論提出まであと少し。今年はひどく忙しくて、こんな僕でもときどきはイライラする日もあった。六花の励ましと、仲間たちとの情報交換と。少し落ち着いた時間から見れば、とても重要で大切なものだったように思う。
いや、まだ重要なものが残ってるけど。卒論ね卒論、はいはい。
この国の年度は桜の時期に変わるのに、数える年は残り数日しかない不思議。そして華やかに祝いの声を上げる新しい年の初めに、前日とまるで変わらない生活の不思議。それなのに、一日として同じ日はないという。同じように過ごす日はいつしか緩やかに変化していき、僕たちそのものを変えるのだ。
六花と離れる日が近くなってくる。安穏とした学生生活を終える日が近くなってくる。六花の言うところの実生活に向いていない性格は、次に適応できるんだろうか。
暗くした部屋で、古い映画を繰り返して観る。温泉療養地の名の付いたモノクロームの映画は主軸と時間軸が複雑に入れ替えられ、注意深く観ていないと意味の通じない仕掛けになっている。けれどゆったりとしたテンポは僕を宥め、とりとめのない空想を誘う。
「渉はまたトリップしちゃってんのね」
六花がふいに僕の顔の前に手を翳した。彼女はこんな時、呆れた口調とは裏腹な優しい顔をする。
「忘れないでね、渉以外の人がここにいるんだから」
六花は僕に構って欲しくてそんなことを言うんじゃない。僕は六花以外と一緒のときにも同じことをしていて、侮られがちなことを知っているのだ。もう少し周りを見たほうが良いと、何度言われたことか。
大丈夫だよ、六花。僕もずいぶん他人に合わせることを覚えたつもりだ。大学生活だって、数多くはないけど大切な友人は何人かできたんだし、社会人になれば尚のこと他人にかまけている時間は減っていくに違いない。
残り少ない日を惜しんで愛おしむ日々は、不安の裏返しかも知れない。そのくらい今までの生活が充実してたってことじゃないか。しっかりしろよと自分に言い聞かせ、六花の心配に感謝する。日常的に会えなくなれば余計に六花は僕の心配をするだろうし、それが単なる予測でないことを僕はもう知っている。
だからこそ少しでも六花が安心できるように、僕を心配せずに新生活を円滑にするためだけに心を砕けるように。六花はきっと、難なく新しい生活に溶け込めるだろうけど。
大晦日の晩、早い時間にアルバイトを終えた六花を迎えに行った。暗くなった道を歩けば、西には白鳥座が頭から逆さまに落ちている。まるで大きな十字架みたいなそれは、宗教を持たない僕にも輝いて見える。
「家じゃない場所で年越しするのって、不思議」
「帰りたかった?」
「ちょっとね。お母さんのごはん、食べたかったな」
そう言いいながらも六花は、繋いだ手に力を入れる。
「でもね、今年は渉といる方が優先だと思ったの。たくさん渉を充電して、来るべき明日の活力にしなくちゃ」
赤面したことのわからない暗い道は、普段よりも人通りが少ない。
「星、いつもよりも綺麗に見えるね」
「うん。どこの商店も灯りが落ちはじめてるから、街が暗いんだよ」
蕎麦屋の店先で蕎麦と天麩羅を買い、片手に提げて歩く。いつもの年なら母の揚げた天麩羅を、横でつまみ食いするのが常だ。
こんな年も、少しずつ増えていくのかも知れない。両親の住む場所から離れて暮らす僕は、外の人になりつつある。経済的な独立を果たしてしまえば、戸籍と遺伝子と、あとは何? 家族であるっていう情なのか。そうしたら僕と六花との繋がりは、もっと淡いものなんだろうか。
僕の狭いアパートで、六花が蕎麦を茹でる。二人で大晦日の特別番組を見ながら、炬燵の中で足を絡ませた。
「そろそろ出ようか」
マフラーに顔を埋め頭を帽子で覆っても、隙間から入ってくる北風に凍える。あっという間に冷える手足で神社までの道を急ぐ。
その時、路地の間を縫って伝わってきた震動があった。
「あ、今年の終わる音だ」
はっきりとした音はしないのに、余韻だけが長く響く。どこの寺で打たれているものだか、低く響く音に名前は書いてない。
「煩悩を取り払う音なんだろ?」
僕が言うと、六花は首を横に振った。
「一年って意味よ。十二月、二十四節気、七十二候」
今晩でそれが閉じる音なのか。
神社で参拝を待っていると、僕のデジタル時計が小さく日付の変更を告げた。顔を見合わせ、笑いながら新年の挨拶を交わす。そこに見知らぬ人が加わり、挨拶の輪は小さな声で少しずつ広がって行った。
「渉」
六花が僕の名を呼ぶ。そして背伸びして、僕の耳の近くで囁いた。
「これからどんな風に渉との距離が離れても、私が今、渉を好きだってことは忘れないで」
ああ、六花はこんな言葉がすんなり出てくる女の子だった。きちんと言葉を返せない自分を情けなく思いながら、今年も幕が開ける。
僕はきっと、今だけじゃなくてずっと六花が好きだ。それは不幸にこの関係が終わったとしても、変わらずにいるだろう。
でも願わくば、距離や時間に惑わされずに変わらないでいられますようにと。
年のはじめの寒い空の下、僕は六花の手を強く握った。一日も同じ日はなく、一秒として同じ時間はない。そしてまた、緩やかに変化しながら新しい時間に続いていく。
fin.