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後編

太陽がとても高い。

熱い陽射しの照り返すグランドでは多くのクラスが応援合戦の練習に励んでいた。

私たちのクラスカラーはオレンジで、女子はみんなオレンジのぽんぽんを手に、まとめ役になってしまった薫の指示を聞いている。

薫の声はちゃんと耳に届いているのに、頭が理解してくれない。

地面が、こんにゃくのように揺れいてる。

グレープフルーツゼリーのような空気に押しつぶされるように、だんだんと息苦しくなっていく。

私はゼリーに飲み込まれるように宙を漂った。

誰かの叫ぶ声が遠くで聞こえた。


そして、後に残るものは、闇



「日射病ね。何時から外にいたの。え、11時からずっと?あのね、10時から2時までの間がいちばん日光の強い時間帯なの。何もそれを選んで外に出ることないでしょう。あ、体育祭の練習ね。あなた責任者?外に出るときは十分に気をつけて。水分補給もこまめに。ほかのクラスの子たちにも言っておいてあげてね」

保健の九堂先生の声がする。

それに応えているのは倉吉くん?

薫?

九堂先生の言った日射病なんて言葉は聞いてなんてなかった。

ただ、どうしようという思いが広がっていく。

どうしよう、ものすごい病気だったら。

どうしよう、このまま死んじゃったら。

死んじゃうのなら、その前にもう一回萩原くんに会っておきたい。

声が聞きたい。

ちゃんと話がしたい。

このまま私が消えてしまうなんて、そんなのは絶対に嫌だ。

「あ、気がついた。真夏」

目に飛び込んできたのは薫の心配顔。

「日射病だって。倉吉が青くなってた。俺のせいで篠原が倒れたー、って。真夏、大丈夫なの」

「うん、だいじょうぶ。倉吉くんのせいじゃないって、言っといてね」

「わかった。でも真夏。ほんとは甲子園行きたかったんじゃないの」

「そんなことないよ」

自分でもしらじらしいことを言ってるのがわかる。

強気の嘘が心に痛い。

「どうしてそんなこと聞くの」

「真夏のは日射病なんかじゃなくて、萩原くんに会いたい病なんじゃないかなって、そう思っただけ」

それだけ言うと薫は立ち上がる。

「九堂先生、用事があるって出て行ったけど、真夏はまだ寝てなよ。後で迎えにくるから」

じゃあ、とドアを閉めて出て行った。

無人の保健室は妙にしんとしていて淋しさが募る。

遠くグランドのざわめきが心地いい。

「失礼しまーす」

突然のんびりした、知っている声がドアをあけた。

「あれ、九堂先生いねえのかよ。ちぇ。・・・お、こないだの3組の小人のズボンの」

声の主は橘くんだった。

「どうした」

「ちょっと日射病で。橘くんは」

「俺は足挫いた。湿布でも張ってもらおうって思ってきたのに先生いねえし」

「湿布くらいなら私がしたげるよ」

よっこらしょとベッドから降りるときに少しめまいがしたけど根性で持ち直した。

薬棚の引き出しを探っていると後ろでかきーんというバットの音と歓声が聞こえた。

驚いて振り返ると、切ないほどの夏の風景がテレビに映っていた。

「お、東、勝ってんじゃん」

「うわぁ、保健室にテレビがあるなんて知らなかった。これ、どこの試合」

「東日本短大付属と北川。実はこれ目当てでここ来たんだよね」

にーっと笑う橘くんにどきどきする。

「お、わりぃな」

どきどきのまま、橘くんの左足首の赤く腫れたところに湿布を貼る。

「高校野球、見るの」

「え、あ、うん」

自分の学校の応援に一度も行ったことがないので、なんだか気まずい。

「甲子園まで行ったりとかすんの」

「行かない」

妙にきっぱりと言い切ってしまった私を見て、橘くんはくすくす笑う。

そして意味ありげに私を見て、ふうん、と言った。


太陽が、また高くなっていく。

今日も絶好の試合日和だ。

「真夏、今日海南の試合なんでしょ。何時から」

「10時」

「そっか。勝てるといいね」

由夏子の言葉にただ笑って頷いた。

私は今山ほどの後悔に埋もれている。

どうして今私はこんなところにいるんだろう。

萩原くんはこの街にはいないのに。

萩原くんを取り巻く人たちは、みんな彼のもとにいるというのに。

どうして彼のそばで彼を見ていないんだろう。

もしかしたら今日でおしまいかもしれないというこの時に。

どうして私は彼から逃げてしまったのだろう。

今でもまだ、こんなに彼のことを思って切なくなるというのに。

「真夏、平気?顔色わるいよ」

日向に出ると、足もとが揺れた。

「ちょっと、大丈夫。保健室、行っといでよ。テレビ、あるんでしょ」

由夏子の心がうれしい。

「ありがとう」

のろのろと足を踏み出す。

「お、やっぱり来た来た」

予想していた通り、保健室のテレビの前には先客がいた。

「なんたって海南の試合だもんな」

にーっと笑いながら橘くんは私のために椅子を用意してくれた。

「九堂先生は」

「ああなんかさっき陸上部のやつが倒れたってんで飛び出して行った」

「橘くんは。野球部、練習あるんじゃないの」

「俺?俺もね、日射病」

とんでもない野球部員だ。

そこでウィーーー・・・・ンという聞きなれたサイレンの音が響いて、テレビの中の審判の右手が挙がった。

プレイボールだ。

海南は後攻で、まずマウンドに上がったのはエースの萩原くんだった。

彼を見ると切なくて、目が熱くなった。

「俺、あんたのこと知ってるんだ。篠原真夏さん」

「え」

突然フルネームで呼ばれて思わず橘くんの顔をまじまじと見てしまった。

「こいつの彼女だろ」

そう言って画面の萩原くんを指差す。

「え」

「俺の兄貴がさ、海南の野球部だったんだ。ま、こいつと違って三年になってもベンチ入りできなかったんだけど。あんた前はよく海南まで行ってたんだって?有名だって兄貴が言ってた」

そういえば、と頬がゆるむ。

何年か前には差し入れをもって練習を見に行ったこともあった。

まだ中学生だった私が高校生の中に入っていくのはすごく勇気がいったけど、みんな私を歓迎してくれたし、なにより萩原くんがとても喜んでくれた。

言葉の少なかった彼の喜ぶ顔が見たくて、試合のたびに山ほどの差し入れを抱えて行ったっけ。

「この頃は顔見せないって言ってた」

橘くんが私の顔を覗き込む。

「もうずい分前から、会ってない」

そう言うのが精いっぱい。

ふうん、と橘くんは興味のなさそうな顔をしてテレビに向きなおる。

四人目のバッターをレフトフライに仕留めて一回の表は終了した。

「自然消滅ってこういうのなんだろうね」

ブラウン管の向こうの萩原くんは緊張した面持ちで監督の言葉を聞いている。

滴る汗を、無造作に拭う彼がまぶしくて目をつぶった。

今、彼はこの瞬間を大切に生きている。

萩原くんの夏は今年が最後。

今年で最後。

遅かれ早かれ夏は終わってしまうけれど。

そして、二度とやって来ない。

甲子園にいる彼にとっての夏はそういう季節なのだ。

「夏が終わってしまうのが怖いの」

海南の攻撃は三者凡退に終わり、二回の表へ。

萩原くんの立ち上がりはいつもそんなに好調ではない。

1アウトを取った後のバッターにフォアボールを与えてしまう。

「夏が終わってしまったあとの萩原くんを見るのが怖いの」

夢は叶わないより叶ったほうがいいに決まってる。

でも、そのあとは?

幸せのままに生きていけるのだろうけ。

燃え尽きてしまったあと、それからを生きる目印に迷ったりはしないのだろうか。

今まで夢に向けてきた努力や情熱の行き場に困らないだろうか。

昔を振りかえるだけの人生になりはしないだろうか。

彼はどうするのだろう。

夢を叶えてしまって、どうやってそれからを生きていくのだろう。

目印を見つけれずに戸惑う萩原くんを、私は想い続けられるのだろうか。

「変わんねえよ、あの人。野球をやめちまうわけじゃないし」

橘くんの声に重なってバットの快音が響く。

あわててテレビに目を向けると、一塁にいたランナーが悠々とホームに帰っていた。

ライトへのスリーベースヒットだった。

「やっぱ松島学園はつえーよ」

そして、ピッチャーの交代が告げられた。

見知らぬ11番が現れ、萩原くんは彼にボールを手渡した。


萩原くんの夏が、たったいま、終わってしまった。


テレビに映し出される萩原くんの後ろ姿が悲しくて、私は涙を抑えられなかった。


私は、彼の夢と一緒に彼を好きになった。

夢を持っていない彼だったら、きっとこんなに好きにはならなかった。

輝いてる彼だったから、だから、私は彼を見つめ続けたのだ。


ピッチャーが代わっても海南の劣勢は変わらなかった。

辛うじて5回に一点を入れただけで、あとは松島学園の独壇場だった。

結果は8-1。

海南の大敗だった。

それでも私は最後まで目をそらすことなく海南のナインを見てた。

キャッチの田中くん。ファーストの木村くん。セカンドの堀田くん。サード青谷くん。ショート酒井くん。レフト松本くん。センター辻田くん。ライト村上くん。

そして時折映るベンチの中の萩原くん。

ラストバッターは酒井くんだった。

松島学園の校旗掲揚、校歌斉唱。

みんなが泣いている中、萩原くんはひとりじっと空を見上げていた。

しっかりと顔をあげて立っていた。


ああ、そうだね。

まだ終わってないんだね。


確かに甲子園の夢は終わってしまったけれど、でも次の夢は今、輝き始めたんだね。

見守っているよ。

萩原くんと、その夢を。



太陽の高度はピークに達していた。

でも陰に入ると風に涼しさが感じられるようになった。

夏は、終わってしまったのだ。

グランドの見える渡り廊下で、橘くんと並んでグランドを見ていた。

「橘くんも、やっぱり甲子園を夢みてるの」

「んー、そうだなあ」

「行けそうなの」

「ま、無理でしょ。うちの学校じゃ県大会のベスト8がせいぜいだしな」

そうだったのか。

「でも俺、別にそれでもいいと思ってる」

橘くんの目は遠くを見てる。

そして私は橘くんの目を見てる。

「夢は追いかけてくもんだからさ。叶ったあとのことなんか考えない」

ちらりと私を見て、にーっと笑う。

「そういうもんだろ」

橘くんにつられて、私も笑った。


夏は必ずやってくる。

来年も、再来年も、その次の年も。

毎年毎年、迷うことなく。

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