前編
さっきから降り出した雨は一向にやむ気配を見せない。でも、誰もそんなこと気にしてなかった。
バックネット裏の屋根の下。
さっきまで自分の応援しているチームに野次を飛ばしていた父兄たちも今はひっそりと息をひそめてる。
九回の裏、すでに2アウト。
スコアは1-0のまま動いていない。
あと一人。
あと一人アウトにすれば勝負は決まる。
マウンドに立っているのはエースナンバーの萩原くんではなく、背番号11の見知らぬ人だ。
そして、静寂は破られた。
その見知らぬ11番がラストバッターを打ち取り、結局四回に一点を取った海南商業がその一点を守り抜いて優勝を決めた。
これで海南商業は昨年と続けて甲子園出場を果たしたことになる。
マウンドでは、ベンチから飛び出してきた選手たちが11番を囲んでおおはしゃぎしている。もちろんその中に萩原くんもいた。
さっきまで沈黙を守っていた海南の応援団もみんな総立ちになっている。
「帰ろっか」
海南の制服を着ていない私たちは、さすがに応援団に交じるのは気が引けて、少し離れたところに座っていた。
「いいの?閉会式、見なくていいの」
無理やりひっぱってきた薫が私を見てそう言う。
「いいの。雨もやみそうにないし。帰れなくなったら困るから」
「萩原くんに会わなくてもいいの」
「いいの。もう、いいの」
雨足はだんだん激しくなってきた。今朝は晴れていたので傘なんて持ってきてない。
球場ではエールの交換が行われているのかとても賑やかだ。
私は立ち止まり、球場を振り返った。
優勝おめでとう。
私から離れてく一歩を、踏み出してしまったね。
萩原くんは同じ中学の二つ上の先輩だった人だ。
中学一年生にとって三年生なんていうのは果てしなく大人に見えた。
訳もなく背伸びしたがるお年頃であった私たちはみんながみんな、競うようにして自分の好きなのは三年生の〜〜、と言い合った。
中学生になりたての私は、野球なんてまるで興味がなかった。
ただ小学校が一緒で同じクラスになった涼子ちゃんに誘われて入ったテニス部のコートのすぐ横で野球部が練習していたので、何気なく眺めることは多分にあった。
一年生で、そのうえ初心者でド下手だった私たちは当然コートになんて入れてもらえなくて、筋トレと称してはグランドを走らされてばかりだった。
なので野球部の練習は嫌でも目に入ってきた。
先輩のホームランしたボールをもらいに走らされるのも一年生。
テニス部には美人で有名な路子先輩がいて、野球部の中にも先輩のファンが大勢いた。
おかげで野球部の人はテニス部の女子にはやたらと優しかった。
萩原くんは、野球部だった。
一人で黙々とピッチャーのメニューをこなしている人だった。
ほかの人たちみたいに私たちをむやみにちやほやしてはくれなかった。
子どもで、精一杯大人ぶりたい私にとって萩原くんは「恋愛」の対象として申し分なかった。
こんなもの。
恋をするって、こんなもの。
萩原瑛大、海南商業高校三年生。
私より、二つとしうえ。
教室はまるでサウナのようだった。
クーラーはもちろん扇風機ですらなくて、クラスで作ったおそろいのオレンジのうちわを時折ぱたぱたさえているだけの、からだにまとわりつくような空気の中でみんなは虚ろな目をしていた。
妖しげなその景色になじめそうになくて、教室の外で薫と二人突っ立っていた。
すると白い布に針を刺していた由夏子が私たちに気づいてたちあがり、周りの空気をもったりと揺らした。
「昨日、さぼったな」
由夏子の三白眼は鋭く光り冷気が漂う。
各々の作業をしていたクラスメートが私たちのほうを振り返る。
「昨日、決勝戦だったんだ」
すると由夏子は大仰に溜息をついて見せた。
「昨日が県大会の決勝戦だったってことは私もよーく知ってる。でもね。私たちは昨日も大忙しだったのよっ」
由夏子のもっていた針がキラリと光ったのにびびる。
「今日からもう八月なのよ。学祭まであとたったの一か月!わかってんの!真夏!!!」
「だから、ほら、それは、ごめんなさいって。ば。でも、薫も一緒だったんだからね」
隣の薫を差し出すと、由夏子はふんと鼻で笑った。
「薫は小道具係でしょ。あんたは衣装。衣装なんてまだ全然だっていうのにそんなにほいほい遊んでていい場合じゃないの!」
遊んでたわけじゃないやい。
昨日は海南が、萩原くんが甲子園に行けるかどうかの大切な試合の日だったんだからね。
ってもちろん言えないけど。
そもそも由夏子は萩原くんのことなんて知らないはず。
「まぁまぁ、そんなに怒んなって。大丈夫、ちゃんと間に合うよ」
「倉吉くんてば、また真夏を甘やかす。この子すぐさぼるんだもん。びしっと言っとかなきゃ」
「ちゃんとやってんだろ、篠原」
「うんうん、やってるやってる、ちゃんとやってる」
倉吉くん、多謝。
薫の彼氏でもある倉吉くんは、薫を通して萩原くんのことも知ってるんだろう。
たぶん。
それゆえのフォローなんだろうな。
うちのクラスの大黒柱は、本当に頼れる人だ。
だいたいうちの学祭が九月に入ってすぐにあるもんだから、七月の終り頃から夏休み返上してどのクラスも準備に追われることになる。
夏休みは学祭一色。
部活やってたりするともう一日学校にいることになるし、夏休みなのに毎日制服着ちゃってるよ。
うちのクラスは一年生らしくステージ発表ということで劇をやることになってる。タイトルもずばり「白雪姫」ときたもんだ。
おとついまでは布の買い出しもまだ、という状況だった。
でも本番は九月なんだしのんびりやればいいじゃない、と考えてるのは私だけのようでスタッフの集まりを一日でもさぼってしまうとこんな風に叱られてしまう。
その罰として私は校門から徒歩二分のところにあるコンビニに使いっぱしりを命じられてしまった。
「明日は十時から。今日ノルマ果たせなかった人は絶対うちでやってくること」
衣装の責任者である由夏子さんの有無を言わさぬ声。
私の担当は七人の小人のうちの三人分で、赤と黄色と緑の衣装だ。
ヒロインである白雪姫の衣装は三人がかりで取り組んでてなかなか凄いらしい。まだ裁断しただけ、って言ってたけど。
八月も、もう一週間を過ぎた。
学祭まで一か月を切った。
窓から見える中庭では三年生のどこかのクラスがステージを作るために机を並べている。
ほかのクラスの進み具合の情報もばんばん入ってきてどんどん切羽詰った雰囲気になっている。
明日も明後日も、毎日毎日頑張って、完成させなくちゃならないのだ。
でも、明日は。
「真夏、明日」
「十時からでしょ。わかってるって」
「来れるの」
「え」
「明日っからじゃないの」
「なにが」
「何がって」
由夏子は少し苛立ったように眉を寄せた。
「甲子園の開会式、明日じゃないの」
びっくりした。
由夏子の口から甲子園の話が出るなんて思いもしなかった。
「行かないの」
「明日は小人のズボンを仕上げなくちゃいけないんだ。だから、がんばる」
訝しげに私を見る由夏子にガッツポーズをしてみせた。
そう、と由夏子は少しやさしい目で私を見た。
なんだ。
知ってるんだ。
由夏子の優しさが、目にしみた。
「帰ろう、薫」
「アイス食べよう。薫さんがおごってあげるよん」
ここにも優しい人が、ひとり。
キオスクで苺のアイスを買ってもらってホームの陰に隠れた。
「明日っからだね」
「由夏子とおんなじこと言ってる」
「行かないの」
「どうせ開会式だもん、行ったってつまんないよ、きっと」
私はこっそり定期入れをポケットから取り出して中の写真を眺めた。
隣の薫は知らんふりをしてくれる。
二年前の3月15日。
卒業式の日に萩原くんの隣で嬉しそうに笑ってる私がいる。
恋人同士じゃなかった。
好きです、も言えなくて隣に並んで写真を撮っただけの女の子。
それが私だ。
萩原くんは中学時代から野球の才能を認められていたらしく、数多の高校から勧誘があったらしい。
萩原くんがその中から選んだ海南商業は過去に何度も甲子園に出場を果たしているいわゆる地方での強豪校ってやつだ。
甲子園を目指す萩原くんとしては当然の選択だった。
その春休みに、思いがけず萩原くんから電話があって、そして私たちは始まった。
恋人として、始まった。
とても突然な始まりに私はびっくりして、そしてとっても不思議だった。
どうしてこういうことになったんだろうって。
萩原くんはあまり言葉をくれる人ではなかったのでそれは今でも謎のままだ。
当時の私はただイエスと頷くことしかできなかったのだから。
そして私は今もおもってる。
どうしてこんなことになったんだろうって。
去年の夏以来萩原くんに会っていない。
高校受験を控えた夏休み、私は甲子園出場をかけた地方大会へと通った。
萩原くんは二年で、エースではなかったけれどマウンドに立っていた。
そして甲子園出場を決めたのはエースではなく二年生の萩原くんだった。
その萩原くんに試合前に頑張ってねを言っただけで、おめでとうの言葉は電話だった。
ひとりで甲子園まで行く元気も情熱もなかった。
それに何より私は受験生だった。
壊れかけのおんぼろ扇風機をそばでぶんぶん唸らせながらテレビを見ていただけだった。
一回戦、名ばかりの三年生エースはついに一回も投げることはなく、萩原くんが完投勝利をはたした。
そのあとの二回戦でその夏優勝した学校と対戦して負けてしまったけれど、彼は地元ではヒーローだった。
誰もが来年も、と期待をかけた。
萩原くんは相当のプレッシャーを背負っていたに違いないのに、それを分けてもらえるはずの存在であった私は彼の悩みを聞くこともできなかった。
だから、私は逃げることにしたのだ。
今年、甲子園に行けないのは私のせいじゃないんだ、って。
学祭の準備が忙しくて抜けられないから、って。
「海南の試合っていつ」
「12日の火曜日」
「うわぁ、その日って初めて劇の通し稽古やる日じゃない」
ほらね。
口実になってしまう。
それを言い訳にしてしまう。
行かないのは私のせいじゃないんだって、そう思いたいんだ。
「いいの、テレビで見るから」
強がりじゃない。
萩原くんのことは忘れてしまわなければならないかもしれない。
今の状態で、誰が私のことを彼の彼女だって認めてくれるんだろう。
甲子園まで行ってしまえば、忘れられなくなる。
忘れなくちゃいけない。
忘れなくちゃ、いけない。
そうでないと一生次の恋にすすめなくなってしまう。
でも、今、心の中は萩原くんでいっぱいだ。
たぶん夏という季節が余計にそう思わせるんだろう。
夏は、萩原くんの季節だから。
忘れなくちゃいけない、ってわかってる。
わかってるんだけど。
この矛盾にとても苛々する。
そして12日。
十時から海南の試合が予定されていたこの日は、気づくと一日が終わってしまっていた。
翌日の新聞で初戦突破できたことを知った。
だんだん遠くなっていくね。
私の手の届かないくらい遠くなっていくね。
好きにならなきゃよかった。
萩原くんなんて、出会わなければよかった。
「落したよ」
今日は舞台稽古の二日目で、私はひとりで衣装一式抱えて体育館へ向かう途中だった。
知らない声に振り返ると、いかにも野球部といった坊主頭の人が人懐っこい笑顔で立っていた。
手には緑の小人のズボン。
「3組、白雪姫なんだって。がんばってな」
笑顔のまんまその人は自分だけ喋っていってしまった。
誰だあの人。
がんばるもなにも、私の担当である小人の衣装はすでに完成してしまっている。
そういえば自分の学校の野球部とか、全然知らないんだっけ。
あれ、今年の夏の成績は??
ははは。
愛校心のかけらもないことがばれてしまう。
「あ」
体育館の片隅で思わず声を出した。
「なに」
由夏子がめんどくさそうに振り返る。
先ほどのあの野球部員(と思われる人)がいたのだ。
大きな体格で、遠目からも頭ひとつ飛び出しているのがわかる。
「あの人、誰」
「え?ああ。あのでっかいハゲ。5組の橘くんでしょ」
「ふうん」
「なに、あれがどうかしたの」
「ううん、べつに」
似てる。
萩原くんに、似てる。
顔がっていうんじゃなくて、でも似てる。
萩原くんも悠に180cmをこえるくらいに長身の人だ。
体格的には、絶対似てる。
橘くんの5組は誰かの書いたオリジナル劇をやるそうで、彼は野球部の鬼コーチという役だった。
どうやらスポ根ものらしい。
大きな声を出して怒鳴り散らす姿がほほえましくて、私はひとりでくすくすと笑った。
それ以来、大きな橘くんは何かと目につくようになった。
萩原くんににてたから、私の心に現れた。
それは単なるきっかけ。
橘くんが心に現れたきっかけ。
なんだか言い訳してるみたいだけど、でも言い訳をしなくちゃいけない理由がどこにあるんだろう。
「えーっと、明日は午前中が劇のリハで、午後からはグランドで応援の練習やります」
倉吉くんの言葉にブーイングの嵐。
劇の方がなんとかなってきたと思ったら、次は体育祭のメインである応援合戦の練習が始まった。
うちの学祭は文化祭と体育祭が続けてあるのでほんとうに大変。
私たち3組はクラスの大黒柱である倉吉くんを団長に据えた。
噂によると、5組の団長は橘くんらしいよ。
「倉吉くん、明後日も練習あるよね」
明日は別に平気だけど、明後日は海南の大切な二回戦の試合があるのだ。
「んー、午前中だけの予定だけど」
「はぁー」
ほらね、私って萩原くんの試合を見に行けない運命なんだ。
サボるわけには
「薫、明後日あいてる」
「明後日?あいてるわけないでしょ。倉吉にずっとやらせてるんだから。・・・もしかして明後日って17日?あ、ごめん、私、ダメだから」
いかないだろうなぁ。
8月17日の海南の二回戦。
対する松島学園は今年で26回目の甲子園出場を誇るチームで、優勝候補の筆頭に挙げられている。
対松島学園が決まったとき、誰もがため息をついて奇跡を願っただろう。
勝てないに決まってるとみんな言うけど、でも私だけは奇跡を信じようと思う。
たかが二回戦。
こんなところで萩原くんの夏を終わらせるわけにはいかないのだ。