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01:「後悔なんてしていないよ」(君を守れたなら、それで十分に満たされるもの)
「後悔なんてしてないよ」
この選択を後悔なんてしない。
――するはずがない。
それが例え、自分の命と引き換えだとしても。
■■ 最良の選択 ■■
聞く人が聞けば、何てお約束な展開だと温い笑いを浮かべるだろう。
僕らの旅は、つまるところ、そういった類のものだった。
世界は〈夜〉に蝕まれていて。
〈夜〉は〈夜蟲〉という怪物を生み出していて。
そんな世界の危機を救うためには別の世界から喚ばれた英雄が必要で。
〈喚ばれた英雄〉は〈夜〉を生み出すと言われる、海の果ての島にあるとされる〈穴〉を塞がなくてはならなくて。
僕らは、その島を目指して長い長い旅をしなくてはならなかった。
〈喚ばれた英雄〉を守って、〈喚ばれた英雄〉とともに。
僕は、忌まれた子供だった。〈夜〉を恐れるこの世界において、闇、という〈夜〉につながる属性を持っている――闇の属性持ちの魔術師だったから。
ただの魔術の素養持ち、闇以外の属性持ちだったなら、ここまで忌まれることはなかった。僕が疎まれ、憎まれた理由はただ一つ。持って生まれた属性が闇だったから。
ただ、それだけの話だ。
勿論、属性持ちはただの属性持ちで、闇の魔術しか使えない、なんて馬鹿な話はない。
事実、僕の持つ属性は多岐にわたっていて、闇はその中のひとつでしかない。
だけど、それは多くの人々にとって大して重要なことじゃなかった。
特に魔術の素養もない人々は、ただ闇、というだけでその属性持ちを疎んじた。
だけど、あいつは。
すげぇじゃん、と顔を輝かせて言ってくれたのだ。
全属性持ちとか、何それ、超かっこいい、と。
あいつ――〈喚ばれた英雄〉。異世界から無理矢理に連れて来られた、彼こそ、ある意味一番の被害者なのに。
あいつは、すごく――いい奴で。
戦いが身近ではない世界から来て、戦い方も知らなくて、剣を手にしたことすらなくて。
頼りないとか、甘ちゃんだとか、思うことは色々あったとしても、嫌いになれるはずはなかった。
――君の気持ちに気づいていながら、応えるつもりがないのだとしても。
あいつの考えも、分からないわけじゃないんだ。
この世界にとって、あいつは結局のところ異分子で。
〈夜〉の〈穴〉を塞ぐ、という用が済めば、元の世界へと送り返される存在で。
あいつは、元の世界に帰るための手段を、いわば人質に取られて、無理矢理に言うことを聞かされている状態で。
そんな状態で、この世界の人間と慣れあおうなんて、思ってもないし、思えもしないだろう。
――それが、個人的にはどんなに好ましい人間であったとしても。
あいつは、すごく――いい奴で。
君が、あいつに厳しくしたのは全部全部あいつのためだって、言わなくてもちゃんと理解していた。
世界を救う〈喚ばれた英雄〉だなんて持ち上げられたところで、世界中の国々が一枚岩になんてなれるわけもなく。
保身と利己心に塗れた貴族や権力者の思惑でいいように動かされるのは仕方がないとしても、彼らの都合で命までは奪われたりなんてしないように。
〈夜蟲〉の襲撃に混じって、人間の刺客がいることにも気がついて。
――あいつの、何よりの願いが帰ることだと、知っていたからこそ。
あいつを生かすために、あいつを守るために。
君は、自分をあいつの盾にも剣にもした。あいつはそれを知っていた。
知っていて、守られていることを是とした、それを知られていることも知っていた。
――それが自分のすべきことだと、あいつが最優先すべきは何よりもまず自分だと、理解していたから。
あいつは、すごく――いい奴で。
僕が、あいつの旅の成功になんて、これっぽちの興味もないことを気づいていても、何も言わなかった。
そのくせ、顔中をくしゃくしゃにして、一緒に来てくれてありがとう、なんて言えるのは。
いい奴、だから。
嫌いになれるはずもない。
だけど。
――僕があいつを、好きになれる、はずもないんだ。
君を、守りたいと思っていた。
いつだって強く、強く、そう思っていた。
君があいつのために戦うことを選んだとしても、そのせいで傷つく姿を見るたびに、思わずにはいられなかった。
だけど、君は強くて。
僕の手助けなんて必要ないって、言い切れるほどに君は強くて。
君を守るより、あいつを守ることを優先させなければならないほどには、君は強くて、あいつは頼りなかったから。
僕は、君の望む通り、あいつを守った。
君の代わりに、君の望む通りに。
――どうして。
僕じゃ駄目だったんだろう、なんて。
どうしようもない疑問について思い悩むことが、まるでなかったわけじゃない。
だけど、結局。
――諦めるしか、なかったんだ。
君は強くて。
剣の腕だけじゃなくて、気持ちも意思も、とても強くて。
僕は君の、そんなところにも惹かれたのだけれど、僕の言葉なんかでは、君には届かないのだと、思い知らされもして。
――君を守りたかった。
例え、君がそんなことを望んでいないのだとしても、僕は、君を守りたかった。
だから。
海の果ての島の〈穴〉の中。
示されたのは二択だった。
単純明快な選択。
自分を守るか、君を――君を含む、世界を守るか。
迷うような選択じゃなかったから、即断した。
答えなんて分かり切ってる。今更だ。迷うことなんて何もない。
「そんなの、決まってる」
後悔なら今までに散々してきた。君を守りたいと思うばかりで、君が傷つくたびに後悔した。
だから。
この選択を後悔なんてしない。
――するはずがない。
頭にそんな考えがよぎった瞬間、世界が白く塗り潰された。
それでも、心の中は凪いでいた。
「後悔なんてしてないよ」
君を守れたなら、それで十分に満たされるもの――
彼は、静かな人だ。
いつも森閑とした静謐さを湛えて佇んでいる。
一種天真爛漫とも言える〈神女〉は、彼は存在感が薄いなどと言うが、彼女がそんな風に思ったことはない。
それを言うなら、むしろ逆だろう、とさえ思ってしまう。
確かに、いる時はその存在を気にすることはない。だけど、いないととにかく落ち着かない。
彼は、いてくれなければ駄目なのだ。
自分たちの――自分の、傍に。
彼は、常日頃から魔術師のお仕着せとも言える、灰色のローブを頭からすっぽりと被っている。
そのせいで、顔を見えなければ、体型すらもよく分からない。彼の顔、と言われて思い出すのも、目深に被ったフードから僅かに覗いて見える口元だけ、という有り様だ。
だが、その唇が紡ぐ、あまり感情を露わにすることのない、落ち着いて穏やかに響く、柔らかな声が。
冷静で、でも冷たい印象はなくて。
大柄な男性のように低く太い、というわけでもないのに、深みのある、不思議な声音が。
――彼女は、とても好きだった。
いつだったか話の流れで、彼に対して、お前の声が好きだ、と言ったことがある。
常日頃から思っていることだったから、その言葉は、簡単なきっかけで口から飛び出た。
それを聞いた彼は、唯一人目に触れる生身の部分である口を、呆気にとられたようにぽかんと半開きにさせ。
数瞬、動きを止めた。
その、あまりの動揺ぶりが可愛くて。
思わず声を上げて笑い出してしまった。
そのせいで我に返ったのだろう、彼が、笑わないでよ、と拗ねたように言うのがまた可笑しくて。
あんなに声を上げて笑ったのは随分と久し振りだったし、あれからもそんな記憶はない。
――魔術師は呪文を唱えるでしょ? だから、声と、音律はいつだってすごく気にしてる。それを褒められるってことが、魔術師にとってどんなに嬉しいことなのか、騎士の君には分かんないんだよ。
照れて、ややぶっきらぼうな口調になりながら、彼はそう言って。
思いついたように少し悪戯めいた笑みを浮かべ。
――お礼に今度、君の好きな歌、歌ってあげようか。
君、歌うの好きなわりに音痴だもんねぇ、と笑う彼の表情は、フードで大半隠れているとはいえ、とても明るいものだった。
その時。
女にしては長身の部類に入る彼女よりも、少しだけ高い位置にある頭を覆うフードがふわりと風に煽られたのは、偶然だった。
不意に吹き抜けた風が起こした気まぐれ。
気づいて、焦ったように持ち上げられた彼の手は間に合わず。
灰色のフードがぱさりと軽い音を立てて薄い肩に落ちて。
互いに目を見開いて見つめ合う自分たちは、さぞかし滑稽だったろうと思う。
少し長めの黒髪。
目元を覆うように伸びた前髪さえも風に吹き払われて、露わになった金色の双眸。
驚愕は一瞬だった。
彼は、すぐに、仕方がないな、とでも言うように穏やかに苦笑した。
眇められながらも、日差しを受けて本物の黄金のように煌めく瞳は、けれど、本物では決して持ちえない温もりを湛えて。
――柔らかく、彼女を見つめていた。
彼女を見つめる彼の視線は、いつだって心地よく、安心感を与えてくれた。
その目元が見えなくても、彼女の中には、いつもあの黄金色があった。
それは常にあるべきもので、あって当然だと、決して失われることはないと、信じていた。
――何の根拠もなく信じられていたほど、自分がその視線の主を信じていたと気づいたのは。
それが失われた後のことだった。