03(終)
あなたが私を見ることがないから、私は安心してあなたを見ていられるの。
だから、もしかしてあなたよりもあなたのことを知っているかもしれないわ、なんてね。
こんなにずっと見ているのに、私の視線に気づかないなんて、あなた、相当鈍感なのではなくて?
それとも、あの方に夢中になり過ぎていて気づかないのかしら。そうね、きっとそちらが正しいのだわ。
とても素敵な方ですもの、私だって男性だったらきっと夢中になっていたに違いないと思うもの。
だから、――仕方ないわ。
きっと、あなたにとっては信じられないほどの不運だったに違いなくても。
父から、あなたとの結婚を命じられたことは、私にとって夢にまで見た幸運だったの。
だから一も二もなく飛びついてしまった。
――あなたの気持ちを考えもせずに。
とても、申し訳ないことをしたと、思っているの。
本当に、本当に、ごめんなさい。
だけど、この結婚を断る、なんてことは、私にとってはあり得ないことだったのよ。
だって、私、あなたのことを、ずっと見ていたわ。
声もかけられなかったけれど、初めて会った時から、ずっと。
ずっと、好きだった。
きっと、あなたは覚えていないでしょうけれど、それでも、お礼を言わせてね?
あの時、一緒に踊ってくれてありがとう。
とても嬉しかった。
初めてのパーティで夢のような時間をくれたあなたに、私は恋をしました。
それからずっとあなたを見てました。
だから、あなたの妻になれて、それが、例え名前だけのものだとしても。
私は今、本当に幸せです――。
■
初めてのパーティ。
そのフレーズに記憶が刺激され、幼い少女がはにかむ姿がフラッシュバックのように脳裏に浮かんだ。
まるで子供と言ってしまえるような、そんなあどけなさを残した少女が浮かべた、輝くような笑顔。
その面影が、当然のように妻だった女性のものと重なって、彼は瞠目した。
どうして、なぜ、という疑問符ばかりが頭の中を埋め尽くし。
ああ、彼女は自分よりも年下だった、と、今更のように思った。
彼よりもずっと若くて、肩にも届かない背丈で。
あの日、彼の差し出した手に、躊躇いがちに載せられた細い手を思い出す。
蝶が止まるように、ほとんど重さを感じなかった、小さな手。
踊りませんか、と声をかけたのは彼の方だ。
信じられないほど綺麗な子なのに、いかにも物慣れていない様子は、初めてこういう場に来たのだろう、と容易に知らしめるものだった。
だから、ほんの少し手助けして、背中を押してやるつもりで声をかけたのだ。
――踊りませんか。
――ええ、喜んで。
余程心細かったのだろう、声をかけた彼に、彼女は。
まるで、大輪の花が咲きほころぶような、見る者の心を奪いかねないような。
綺麗な、綺麗な笑顔を見せてくれたのだ。
そうだ。
あの時の彼女は――笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに、声を上げて、小鳥が囀るように、いたずらな春風が小さなつむじ風を吹かせるように。
そして、自分が何を告げても眉ひとつ動かすことなく、人形のように作りものめいた表情しか見せなかった妻の姿を思い出す。
それは、自分のせいだったのか。
彼が――彼女の、あの笑顔を奪ってしまっていたと、いうのだろうか。
耳の奥で谺する、彼女の最期の言葉。
私は、あなたを、愛しています――
□
「奥様、」
耳元で侍女頭の声がする。
「奥様、旦那様がお見えになられましたよ」
嘘よ。
彼が来るわけないわ。
だってあの方は今が大事な時なのよ、お心を騒がせるものではないわ。
彼の子供が流れてしまうようなことは、何としても絶対に、避けなければならないのよ。
だから、彼が私のところへ来るなんて、あり得ない。
それが死の床だとしても、決してあってはならないの。
どんなに傍にいて欲しいと思っても、私は願ってはいけないの。
「奥様、」
なおも続く呼び声に、重たい瞼を無理矢理こじ開けるようにして持ち上げれば、確かにそこには夫の姿があった。
ずっと見つめて、目に焼き付けてきた姿。
今でも、とても素敵。初めて会った時からずっと変わらずに、私の胸を焦がす。
会うたびに、私は何度でも彼に恋をする。
――決して叶うことのない、報われない想いだけれど。
「…ゆめ?」
「夢ではございません、奥様」
掠れ声て聞き取りづらいはずの声を拾い上げた侍女頭が丁寧に答えを返してくれたけれど。
「…夢で、いいわ。夢が、いいの」
私はそう言っていた。
だって夢なら、何を言っても許されるでしょう?
私の考えを見通したのか、侍女頭が痛ましげな顔をする。
彼女をはじめ、この屋敷で働く人々はいつだって私の味方でいてくれた。
本当は、夫の家に仕えるのだから、私のことなど冷遇しようとすれば幾らでも出来たのに、彼女たちはそうしなかった。
憐れまれていたのかも、しれない。
夫に顧みられない哀れな妻、それは自分が望んだものだったけれど、想像以上に辛くて、悲しくて。
それでも、毎日を穏やかに、笑顔を忘れずにいられたのは彼女たちのおかげ。
何気ない暖かさや、気遣いが、とてもとても嬉しかった。
本当にささやかなことで、きっと彼女たちは気づきもしていない、毎日の積み重ね。
この屋敷は結婚した息子のために、夫のご両親が用意した。だけど、夫は恋人のために自分で屋敷を購入していた。
彼にとっては、そちらの方が自分の家だと実感できるはずの家。
だから、私がいなくなれば、この家はきっと処分される。
そう考えた私は、きっと、ではなく、それを確実にするために彼のご両親へ願い出ていた。
私がいなくなったら、この屋敷は処分してください、と。
そして、使用人たちを彼の実家の本宅で使っていただけませんか、と。
彼のご両親も、私たちの仲のことは気づいてらして、そうすることを約束してくれた。
ありがとうございます、と頭を下げた私に、お義母さまのほうが辛そうな顔をしてらしたっけ。
優しい優しい、お義父さまとお義母さま。
もともと、この屋敷の使用人の半分ほどは本宅から引き抜かれてこちらに来たと聞いている。
彼のご両親が、彼のために、彼が毎日を暮らしやすいように、時間をかけて選んだ立派な使用人たち。
なのに、その恩恵を彼が受けることはなく、私が独り占めにした。
彼らは、ご両親が彼のために選んだだけあって、どの分野でも一流の使用人で、私は毎日綺麗な屋敷で美味しいご飯を食べ、心穏やかに暮らすことができた。
だから、私は彼らにせめてもの恩返しをしたかった。本宅に戻ることは、彼女たちにとって一種の栄転だ。
だから、きっと喜んでもらえるはず。
だけど、最期にひとつだけ。
――我侭を、叶えようと思った。
夫がそこにいるのなら。
かすむ目を凝らして、必死にその顔を目に映して。
今だけ。今だけだから。
我侭を、許して?
「私は、あなたを、愛しています――」
告げて、凍りついたような夫の顔を見て、ああやっぱり、と自嘲した。
なんて愚かな私。この結果は当たり前。
言わなければ良かったとは思わない。だけど、謝って冗談にした方がいいと思った。
だから、言葉を継ぐために口を開こうとしたけれど。
抗いがたい眠りの淵に引きずり込まれるように、意識が遠のく。
だけど、この眠りは永遠の眠りだ。
自分はきっと、もう二度と意識を取り戻すことはないだろう、だとしたら。
――なんて見事な云い逃げかしら。
そう考えれば、思わず笑みが浮かんだ。
云い逃げなんて、きっと卑怯ね。
――でも今、ちょっと気分がいいの、って言ったら、あなたは怒るかしら?