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02



「――何だ、これは」


自分の目にしているものが信じられず、何度も同じ文章の上を目がたどる。

悪戯な笑顔を浮かべた表情が、目に見えるような文面だった。流麗な筆致で綴られた、鮮やかな感情。

これを、彼女が書いたのか。――本当に?

整った顔に冷たい表情しか載せなかった、あの人形じみた妻が、まるで恋文のような、この手紙を?











あなたの気持ちがあの方の元にあるということは、よく知っているけれど。

伝えるだけなら構わないでしょう?


ずっとずっと言いたかったの。

あなたが嘘でもお義理でも、私に優しくしてくれたから、夢を見てしまったのよ。


笑っていいわよ? 可笑しいわよね? 私だって笑いたくなるもの。

何を夢見ているのよ? って。――叶うわけ、ないでしょう? って、ね。

――でもね?


あなたが優しくて、私はあなたの妻で――それが建前だって知っていたはずなのに。

人間って、どんどん欲が出るのね。

最初はあなたの妻の座。それが手に入ったら、その次が欲しくなった。

その次は――あなたの心。

呆れるでしょう?


でも、あなたに知ってもらいたくなったの。

あなたが知ってくれれば、もしかしたら、この関係も変わるかもしれない、なんて、夢みたいなことを考えたのよ。

笑っちゃうわよね?


本当はずっと言わずにおこうと思っていたの。あなたを困らせて嫌われるのが怖かったから。

でも、もうその心配は無用でしょう? だから、あなたに伝えるわ。


――本当は私、あなたのことがずっとずっと好きだった、って。











いつから、と声にならない声で呟く。いつから。

――いつから、君は。


この手紙は彼女が死ぬ前に書いたもので。

だけど自分たちは十年前に結婚してからずっと疎遠なままで。

言葉を交わす機会なんて、年に数度程度しかなかったはずで。


それなのに。


優しくしたって? ――誰が、誰に?


彼に、そんな記憶はなかった。

時折、夫人同伴を断りきれなかった時、彼女を連れて行ったのはただの義務だった。

ただ、与えられた仕事をこなすようにしか接していなかった。

酷い時は、顔さえも見ていなかったかもしれない。

会えば、綺麗だ、くらいは言ったかもしれないが、どんな格好だったかなんて覚えてもいない。

恋人――妻がいたのだから、愛人か――が身に纏っていたドレスは、どれも鮮明に覚えているのに。


――上辺の優しささえ、なかっただろう。

なのに、なぜ。











覚えているかしら?

あなた、結婚式の宣誓のすぐ後で私に言ったわ。

自分たちは政略結婚、互いに好きでもない相手なのだから、互いに不干渉でいよう、って。

その方がいい夫婦でいられるから、って。


私、本当は、そんなの嫌よ、って言いたかったわ。絶対に嫌、って。

だけど、あなたの言葉を否定して、嫌われるのが怖かったの。面倒だって思われて、離縁されるのが怖かった。

だから私は何でもない振りをして、そうね、って答えたわ。そうね、そうしましょう、って。

それが一番お互いのためね、って。


どんな形でもいいから、あなたとの関係を失いたくなかった。

どんなに惨めでもいいから、あなたの妻という肩書きにしがみついていたかった。

だから、遊び慣れた振りをして、お互い結婚相手より恋人を優先しましょう、って言ったわ。

あなたの妻でいられるなら、それでもいいと思ったから。

無関係な他人になって、あなたに忘れ去られるよりはずっといい、って。


でも。

でもね。


本当は、すごくすごく辛かった。悲しかった。

すごくすごく、苦しかったの。


――本当、笑っちゃうわよね?











「そんな――」


力の抜けた手からひらり、と白い紙が落ちる。

広げていた紙に遮られていた視界に、小さな手紙の束が映る。

手紙の束。

彼女が書きためていた、気持ちの束。

――けれど、決して送られてくることはなかった、言葉の束。


古いものが下になっているのだろう、順に積まれていったと思しき小さな山は上のものほど白く、下のものは見るからに古く黄味を帯びていた。

上に積まれていたものを丁寧に脇によけ、一番下になっていたものを手に取る。


日に焼けて、傷んだ白い紙を広げると、そこには少し幼い彼女の文字が並んでいた。

指先で何気なくその字をなぞり、末尾に書かれた日付に息が詰まる。


十年前の、結婚式当日、その日付。


――彼は新妻を顧みることなく、宣誓のあと恋人のもとに向かい、そのまま夜を過ごしていた。











ねぇ、あなた(あなたに、そう呼びかけられる日が来るなんて夢のようだわ!)


私たち、本当に結婚して、夫婦になったのよ?

信じられる? 私は、まだ信じられないわ。幸せすぎて、夢なら覚めたくないくらい!


ああ、でも安心してくださいな!

あなたとあの方の、邪魔はしないわ。――本当は嫌だけれど、我慢、するわ。


だって、あなたの幸せが、私の幸せですもの。

本当よ?



あなたが私のことを好きでも嫌いでもなくて、興味もなくて。

私のことを、道端にたくさん転がってて見分けもつかないような、そんな石ころのひとつみたいにしか見てないってことも、ちゃんと、分かっているわ。


だから、きっとあなたは私の瞳が何色かも知らないのでしょうね?


一応でも妻なのだから、いくら興味がないと言っても、目の色くらい、知っておいたほうがいいとは思わない?

だから教えてあげるわね?


私の目の色は緑色。

私は知っているわよ、あなたの目の色は青色。綺麗な、空の色だわ。


そして、あの方は菫色。――合っているでしょう?











脳裏に焼き付いた、あの鮮烈な緑。

だが、それを見たのは、彼女が息を引き取る寸前で。

思い出せば、顔が歪んだ。それ以前に自分が覚えていたかどうか、なんて。


――覚えていなかったに決まっている。


だって、自分は彼女に興味なんてこれっぽっちも持たなかった。

彼女が書いているように、道端の石みたいにしか見ていなかった。

それを、知られているなんて思わなかったけれど、彼女は気づいていた。


――十年前から、ずっと。


「は、はは――…」

笑うしかない、と思った。






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