02
「――何だ、これは」
自分の目にしているものが信じられず、何度も同じ文章の上を目がたどる。
悪戯な笑顔を浮かべた表情が、目に見えるような文面だった。流麗な筆致で綴られた、鮮やかな感情。
これを、彼女が書いたのか。――本当に?
整った顔に冷たい表情しか載せなかった、あの人形じみた妻が、まるで恋文のような、この手紙を?
■
あなたの気持ちがあの方の元にあるということは、よく知っているけれど。
伝えるだけなら構わないでしょう?
ずっとずっと言いたかったの。
あなたが嘘でもお義理でも、私に優しくしてくれたから、夢を見てしまったのよ。
笑っていいわよ? 可笑しいわよね? 私だって笑いたくなるもの。
何を夢見ているのよ? って。――叶うわけ、ないでしょう? って、ね。
――でもね?
あなたが優しくて、私はあなたの妻で――それが建前だって知っていたはずなのに。
人間って、どんどん欲が出るのね。
最初はあなたの妻の座。それが手に入ったら、その次が欲しくなった。
その次は――あなたの心。
呆れるでしょう?
でも、あなたに知ってもらいたくなったの。
あなたが知ってくれれば、もしかしたら、この関係も変わるかもしれない、なんて、夢みたいなことを考えたのよ。
笑っちゃうわよね?
本当はずっと言わずにおこうと思っていたの。あなたを困らせて嫌われるのが怖かったから。
でも、もうその心配は無用でしょう? だから、あなたに伝えるわ。
――本当は私、あなたのことがずっとずっと好きだった、って。
■
いつから、と声にならない声で呟く。いつから。
――いつから、君は。
この手紙は彼女が死ぬ前に書いたもので。
だけど自分たちは十年前に結婚してからずっと疎遠なままで。
言葉を交わす機会なんて、年に数度程度しかなかったはずで。
それなのに。
優しくしたって? ――誰が、誰に?
彼に、そんな記憶はなかった。
時折、夫人同伴を断りきれなかった時、彼女を連れて行ったのはただの義務だった。
ただ、与えられた仕事をこなすようにしか接していなかった。
酷い時は、顔さえも見ていなかったかもしれない。
会えば、綺麗だ、くらいは言ったかもしれないが、どんな格好だったかなんて覚えてもいない。
恋人――妻がいたのだから、愛人か――が身に纏っていたドレスは、どれも鮮明に覚えているのに。
――上辺の優しささえ、なかっただろう。
なのに、なぜ。
■
覚えているかしら?
あなた、結婚式の宣誓のすぐ後で私に言ったわ。
自分たちは政略結婚、互いに好きでもない相手なのだから、互いに不干渉でいよう、って。
その方がいい夫婦でいられるから、って。
私、本当は、そんなの嫌よ、って言いたかったわ。絶対に嫌、って。
だけど、あなたの言葉を否定して、嫌われるのが怖かったの。面倒だって思われて、離縁されるのが怖かった。
だから私は何でもない振りをして、そうね、って答えたわ。そうね、そうしましょう、って。
それが一番お互いのためね、って。
どんな形でもいいから、あなたとの関係を失いたくなかった。
どんなに惨めでもいいから、あなたの妻という肩書きにしがみついていたかった。
だから、遊び慣れた振りをして、お互い結婚相手より恋人を優先しましょう、って言ったわ。
あなたの妻でいられるなら、それでもいいと思ったから。
無関係な他人になって、あなたに忘れ去られるよりはずっといい、って。
でも。
でもね。
本当は、すごくすごく辛かった。悲しかった。
すごくすごく、苦しかったの。
――本当、笑っちゃうわよね?
■
「そんな――」
力の抜けた手からひらり、と白い紙が落ちる。
広げていた紙に遮られていた視界に、小さな手紙の束が映る。
手紙の束。
彼女が書きためていた、気持ちの束。
――けれど、決して送られてくることはなかった、言葉の束。
古いものが下になっているのだろう、順に積まれていったと思しき小さな山は上のものほど白く、下のものは見るからに古く黄味を帯びていた。
上に積まれていたものを丁寧に脇によけ、一番下になっていたものを手に取る。
日に焼けて、傷んだ白い紙を広げると、そこには少し幼い彼女の文字が並んでいた。
指先で何気なくその字をなぞり、末尾に書かれた日付に息が詰まる。
十年前の、結婚式当日、その日付。
――彼は新妻を顧みることなく、宣誓のあと恋人のもとに向かい、そのまま夜を過ごしていた。
■
ねぇ、あなた(あなたに、そう呼びかけられる日が来るなんて夢のようだわ!)
私たち、本当に結婚して、夫婦になったのよ?
信じられる? 私は、まだ信じられないわ。幸せすぎて、夢なら覚めたくないくらい!
ああ、でも安心してくださいな!
あなたとあの方の、邪魔はしないわ。――本当は嫌だけれど、我慢、するわ。
だって、あなたの幸せが、私の幸せですもの。
本当よ?
あなたが私のことを好きでも嫌いでもなくて、興味もなくて。
私のことを、道端にたくさん転がってて見分けもつかないような、そんな石ころのひとつみたいにしか見てないってことも、ちゃんと、分かっているわ。
だから、きっとあなたは私の瞳が何色かも知らないのでしょうね?
一応でも妻なのだから、いくら興味がないと言っても、目の色くらい、知っておいたほうがいいとは思わない?
だから教えてあげるわね?
私の目の色は緑色。
私は知っているわよ、あなたの目の色は青色。綺麗な、空の色だわ。
そして、あの方は菫色。――合っているでしょう?
■
脳裏に焼き付いた、あの鮮烈な緑。
だが、それを見たのは、彼女が息を引き取る寸前で。
思い出せば、顔が歪んだ。それ以前に自分が覚えていたかどうか、なんて。
――覚えていなかったに決まっている。
だって、自分は彼女に興味なんてこれっぽっちも持たなかった。
彼女が書いているように、道端の石みたいにしか見ていなかった。
それを、知られているなんて思わなかったけれど、彼女は気づいていた。
――十年前から、ずっと。
「は、はは――…」
笑うしかない、と思った。