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07:「私は、あなたを、愛しています――」(云い逃げなんて、きっと卑怯ね)



早春の、吐く息も凍るような寒い朝。

薄く靄がかかったような寝室で、彼の妻は死んだ。


彼女が病に倒れてから息を引き取るまでの時間は、呆気ないと感じるほどに短かった。

宮廷の花と謳われた美しい容貌がさして病み衰えもせず、かつてのままに見えることが、その証左。

むしろ最後の熾火のように、その美貌は輝きを増して見えていた。

息を止めてしまった今でさえ、ただ、静かに眠っているだけのようにしか見えないほどに。


瞼を固く閉ざして横たわる彼女の枕辺に立ち、彼は目を開けたまま夢を見ているような心地でいた。

まるで現実味のない、どこか遠い世界の出来事を傍観している、そんな気分。


そうして現実から乖離して、思い出すのは、彼女の最期の言葉。


重たげに持ち上げられた瞼の下から覗く緑の瞳が、真っ直ぐに彼を見つめて。

その色を、木漏れ日を透かす春の新芽のようだと思った。

だから、次に耳に入った言葉がすぐには理解できなかった。


私は、あなたを、愛しています――


飾りけも駆け引きもない、向けられた視線と同じくらい、真っ直ぐなだけの言葉、だった。

取り繕わない、取り繕うことさえ許さない、真っ直ぐに心の奥を突き刺す言葉。


彼にとってはあまりにも予想外だったから。

知らず、驚愕に目が見開かれた。

そんな彼を見て、彼女は。


――静かに、口許を歪めて自嘲した。

寂しさも苦さもすべて飲み込んで、諦めることに慣れて倦んで――疲れ切ったような、そんな顔で。


それを見て、胸をつかれた。

唐突に、自分は何をしていたのだろうと思った。何かを言わなければ、と思った。

だけど。


自分たちは夫婦とは名ばかりの、愛情も何もない他人も同然の関係で。

彼には他に愛する女性がいて、その女性は今、彼の子供を身ごもっていて。

今、目の前で死の床についている妻のことなど、気にかけたことすらなくて。


――最初から、彼女に言うべきことなど、何もなかった。


だって、彼は彼女に興味も関心もなかったのだから。

彼は、妻のことを何ひとつ知らなかった。知ろうとも思わなかった。

好きではなかったけれど、嫌いでさえもなかった。ただ、無関心だった。


だから。


彼女が何を思い、何を考え、どう日々を過ごして、――彼のことを愛していると、言うに至ったのか。

その理由なんて、分かるはずもなかった。


彼が困惑に囚われて言葉を見つけられないでいる間に、彼女の視線は白い瞼の陰に隠れ。

痛々しげな自嘲は、ゆっくりとほどけて、彼が見たこともないような、柔らかな笑みへと移ろった。


けれど、眠りに落ちるように途絶えた意識が戻ることはなく。

そのまま一度も目覚めることなく、彼女は息を引き取った。


だから、それは彼女の、最後の言葉。



私は、あなたを、愛しています――




■■ 愛と囁く ■■



永遠の眠りについた妻の寝室を後にして、物思いに沈んだまま階段を降りた彼に、侍女頭が小さな手紙の束を手渡した。

「――これは?」

「ご覧になっていただければお分かりになるかと」

彼女はそう言って綺麗な所作で一礼すると、屋敷の奥へ下がっていった。


自室まで行くのも億劫で、居間で手紙の束を改める。

自室というのもおこがましい、一度も使ったことのない“この屋敷の主”の部屋は、いつ使用されても構わないよう、綺麗に整えられていた。今は亡き、妻の指示で。

その事実が密やかに暗示するひとつの理由にあえて気づかないふりをして、整えられた“自室”からも目を逸らして、彼は手の中のものに目を落とす。

それらはすべて、未開封の手紙だった。差出人の名も宛名もなく、封蝋だけが綺麗に押されたままの。


その蝋印には、見覚えがあった。

別宅に住む彼の元に時折送られて来ていた、名ばかりの妻からの手紙に押されていたものと同じ。

文面はいつだって素っ気なく、用件だけを簡潔に伝えるものだった。

仮にも夫婦だというのに、情の欠片もなかった無機質な文章を思い出して、頭の中がすうっと冴える。


あんな言葉に混乱するなんて、彼女の死に動揺しているせいだろう。

だって、愛しているだなんて言われて、どうして信じられる?

今までそんな素振りを見せたことなど、なかったくせに。


冴えた思考と冷えた指先で無造作に封を剥がし、冷ややかな視線で文面に視線を走らせる。

どうせこれだって、事務的な用件を伝えるだけの、遺言状か何かに違いない――











――ねえ、あなた。


私はあなたに言えるかしら?

何度も思い出してみたのだけれど、一度も声に出して伝えたことがなかったわ。

多分、手紙にはあなたが飽きるほど書いたと思うの。

でも、やっぱりきちんと自分の口で伝えたいわ。


一度でいいの。

私はあなたを愛しています、って。

自分の言葉で、あなたの目を見て。


言われたあなたの顔が目に浮かぶよう。

驚いて、困って、それから、怒るかもしれないわね? ――でも、きっと最後には受け入れてくれる、って信じているの。

だって、あなたは優しい人だから。


でも、伝えられなかったら困るから、こうして手紙も書いておくわ。

そうすれば安心でしょう?


酷い我侭かしら。だけど、ずっと我侭を我慢してきたのだもの、最後にひとつくらいいいでしょう――?






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