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11:「・・・・・・泣いて、くれるの?」(じゃあ僕は、幸せだね)
彼女の流す涙を目にしたとき、ふつりと何かが切れる音がした。
まるで縺れて絡まって、どうしようもなくなった糸の塊が、ふわりと解けて綺麗な縒り目を取り戻したかのような。
それは、彼の抱えていたしがらみ、だったのかもしれない。
自分が思いついた言葉に笑って、笑ったことでさらに血を吐いて、彼は痛みに呻いた。
情けないし、格好悪い。
あれほど自分が厭って蔑んできた、みっともない姿なのに。
なぜか、気分は晴れやかだった。
この薄暗い路地でも、見上げれば頭上には蒼穹が広がるように。
少し、目を向けるだけで、そこにはいつだって、答えがあったのだ。
足掻いてもがいて、あれほど渇望して、手に入らないことに絶望して。
もうどうでもいいと、すべてを投げ出して、打ち捨てた途端、辿り着いた。
なんて皮肉だろう。それとも、運命?
可笑しくて、可笑しくて、考えれば考えるほど笑わずにはいられなかった。
だから、彼はやっぱり笑ってしまった。
そして、やっぱり少し血を吐いて、痛みに呻く羽目になった。
それさえも、彼には可笑しくてたまらなかった。
気分がいい。ああ、――最高だ。
■■ 路地裏のアリアドネ ■■
黒髪黒目に、黒服を好んで身に着ける喧嘩の強いゴロツキといえば、この辺りでは彼のことだった。
ちょっとした有名人。ただし、あまりよろしくない方向での。
自分から好んで喧嘩を売るわけじゃない。けれど、売られた喧嘩を買うことに躊躇いはなかったし、やられた以上にやり返すことを楽しんでもいた。
それは憂さ晴らし、だ。
理由の分からないむしゃくしゃした気分を、すっきりさせる、そのための。
理由なんてない。
終わりのない焦燥感、閉塞感、――出口の見えない絶望感。
なぜ、と理由を問うことさえ、心の奥に軋むような不快感を与える。
生まれも育ちも平凡すぎるほど平凡だったのに、彼は陽の当たる道を歩き続けることが出来なかった。
ほんの少し、何かが足りなかっただけ。
けれど、その“ほんの少し”が何なのか、彼には皆目見当がつかなくて。
結局、それがまた、彼の苛立ちを掻き立てて。
だから、考えない。考えれば考えるほど息が詰まるような苦しさを感じるだけだから。
そして、考えることを強制されたとき、苛立ちが最高潮に達したとき、彼はその憂さを晴らすための圧倒的な力を望んだ。
その力に溺れていれば、胸の内を焦がすような苛立ちを忘れることが出来た。それが、ほんの短い時間に過ぎないとしても。
考えることを放棄して、その事実からも目を逸らした。――だって、その方がずっとずっと楽、だったから。
その少女が絡まれているところに割って入ったのは、ほんの気まぐれだった。
助けに入るのも、見て見ぬ振りをするのも、可能性は五分と五分。
割って入ったのは、単純な人助けとか義侠心とか、そんなものは欠片もなくて、ただ、いつもの“憂さ晴らし”がしたくなっただけだった。
そのための相手を探すのも面倒で、ただただ億劫だとうんざりしていたとき、丁度そこにいて、見るからに堅気の人畜無害そうな少女に難癖つけている男たちが目に留まった。
だから、割って入った。“憂さ晴らし”の相手が欲しかったから。
彼にとってはそれだけの話だった。
だから、素手の彼に敵わないと感じたのだろう相手が、刃物を持ち出して来ても卑怯だとは思わなかった。
こんな喧嘩でナイフが出てくることなんてしょっちゅうだし、多少の武器が加わったところで彼が負けることは滅多になかった。
だから、いつものように、弱い奴ほど武器に頼りたがる、それで勝てるとも限らないくせに、と思うだけだった。
憂さ晴らしにもならない、つまらない喧嘩を売ってしまった、そんな風に思っていた。
――その銀色の、鋭利な刃先が彼の腹部に突き立つまでは。
いろんな要素が重なり合った結果だろうが、ナイフの刃先は深々と彼の体の中に入り込んでいて。
喉奥から込み上げるものを吐き出して、鮮やかな真紅に染まった自分の手のひらを見下ろしたとき。
――ああ、これは駄目だな、と悟った。
それでも相手を全員叩きのめし、捨て台詞と共に立ち去らせたのは単なる意地だった、のかもしれない。
糸玉は、迷宮を抜け出す道標。
その糸を手繰れば、必ず外へと導かれる。
糸玉を手渡したのは、彼の帰還を誰より望んだプリンセス。
子供の頃、何気なく読み流したことのある昔話。
彼もまた、迷宮の奥底で道に迷って、ただ闇雲に前へと進もうとして、結局同じところをぐるぐると回っているだけだった。それを教えてくれたのは、彼女だ。
彼が気まぐれで手を差し伸べた、名前も知らないような、そんな少女が、彼にとってのアリアドネ。
薄暗い路地裏の、彼には似合いの“王女さま”。
だからこそ、彼だけの救い手だ。
「……泣いてくれるの?」
じゃあ僕は、幸せだね。
きっと、誰もが彼は死んで当然だと、日頃の行いの報いを受けたのだと、満足げに笑って祝杯を上げるに違いない。
それが紛れもない現実で、それを彼も認めていて、それをどうとも思っていないはずだったのに。
彼女が流す涙が、ずっとずっと欲しかったものなのだと、そんな気がした。
血に濡れた彼の手を、大事な宝物のように両手で握りしめて、自分の頬に押し当てて。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、唇をかみしめて嗚咽をこらえる少女を。
――愛しい、と、思った。
そう、彼はずっとずっと、それが欲しかった。
怖れも迷いも見せず、ただただ真っ直ぐに彼へと向けられる気持ち、彼だけのために傾けられる感情と。
それを厭わずに応えられる、自分の感情、が。
――欲しかったんだ。
ぎこちなく指先を動かして、少女の頬をたどって、目尻を拭ったのに。
彼がそうしたことで、涙は余計に量を増したように見えた。
路地裏の薄暗がりに射し込む、淡い光を受けてきらきら光る滴の筋は、綺麗に輝く糸に似ていた。
それは、彼を救った、綺麗な糸玉。
――ああ。
さよなら、僕のアリアドネ。
僕を救ってくれてありがとう。