02
その子供は、ある日突然降って湧いたように現れた。
それが、彼にとっての、彼女の印象。
近所に住む親戚が子供を引き取るのだという話は聞いていたが、それが自分に、こうも密に関係してこようとは、思ってもみなかった。
子供は、子供らしい真っ直ぐさで、周囲の大人たちの腫れ物にでも触るかのような、沈鬱な空気を読みもせずに彼に懐いた。
その、何の躊躇いも裏もない、真っ直ぐな好意が。
――とても、愛おしいものになるまでに、時間はかからなかった。
「ねえ、このウサギさん、ヒューみたいね!」
「――あァ?」
手の中にすっぽりと納まって、それでもまだ余裕が残るほどに小さな手を引いて街中をそぞろ歩いていた時に、道沿いの店先で少女がはしゃいだように指し示したのは、ガラスケースの中、椅子に座らされていた真っ白なウサギのぬいぐるみだった。
どこが、と問い返すまでもなく、何が自分を想起させたのかは察しがついて、淡い苦笑が浮かぶ。
「寝惚けたこと抜かすな、オレはこんな短足じゃねェ」
そう返しながら、ふと思う。
――これを見て、少女が自分を思い浮かべると言うのなら。
幸いにもそのぬいぐるみは、さほど大きくもなく値が張る物でもなく。
その決断を下すことに、躊躇も逡巡も必要なかった。
「ほらよ」
少女の手を引いて店に入り、店員に持ってこさせた品を少女の手の中に落とし込む。
「――いいの?」
唐突な贈り物に目を瞬かせた少女が、それでも既に離れ難いと言わんばかりに、ぎゅうっと腕の中のぬいぐるみを抱きしめ、どこか不安げに見上げてくる。
「気に入らねぇんなら返すけど?」
わざとどんな感情も込めずに相手を見下ろせば、案の定、少女は慌てた様子でぶんぶんと勢いよく首を振り、一層強く白いウサギを抱きしめる。
「ガキがいらん遠慮なんかすんじゃねぇよ。気に入ったんなら“ありがとう”って、笑って貰っとけ」
言って、乱暴にぐしゃぐしゃと暖かな茶色をした頭をかき混ぜれば、それだけで頼りなくフラフラと体を揺らした少女が、花の咲くような笑顔をはじけさせた。
「…うん! ありがとう!」
「おう」
つられるように小さく笑った彼へ、店員が微笑ましいものを見るように「リボンの色はどうなさいますか?」と声を掛けた。
「リボン?」
「ええ。おつけしますよ?」
ふぅん、と気のない答えを返し、彼は傍らの小さな所有者を呼び寄せ、決定権を委ねる。
「だとよ、リーゼ。どうする?」
「えっと、じゃあ、くろがいい、です」
色のサンプルを見るまでもなく言い切った少女に、軽く目を見張ったのは店員も彼も同じで。
「黒ォ?」
何でまた、と訝しさを露骨に顔に浮かべた彼を見上げた少女は、なぜか照れくさそうにはにかんだ。
「だって、そうすればヒューといっしょだもん」
――確かにその日、彼は黒い上着に黒いシャツ、黒いズボンと黒ずくめだったのだが。
けれど、それなりの歳になった男の服なんて、茶色か黒か、そんな選択肢が大半で。
なのに、そんなことさえも彼女の中では彼とつながるのかと、気づいてしまえば。
――満面の笑みを浮かべてウサギに頬ずりする、その柔らかな頬に触れたくなる、その衝動を、完全に抑え切ることは出来なかった。
「――気に入ったか?」
躊躇いがちに手を伸ばし、指の背で擽るように、そっとなでれば。
触れられた彼女の方こそ、まるでどこかの小動物のように、大きな若草色の瞳を細めて満足げに、くふりと笑った。
「うん!」
そして。
「ねえ、」
袖口をくいくい、と引かれて流れた視線のままに、彼女と視線を合わせるよう腰を落とすと。
肩の上にふわりと、少女の片手が載って。
「ヒュー、だいすき!」
ちゅ、と軽やかなリップ音と共に、小さな温もりが頬に押し当てられた。
――正直、その後どうやって家まで帰り、少女を送り届けたのか、記憶にない。
*
目の前に座る、少し古びたウサギの鼻をつん、とつついて、私は腕の中に顔を埋めた。
彼が気紛れに買ってくれた、彼によく似た白いウサギのぬいぐるみ。
「子供って、すごい…」
今の自分だったら、あんなこと、とてもじゃないが恥ずかしくって出来ない。そりゃあ、まだ成人とされる年齢には達していない以上、今でも子供なのかもしれないけれど。
だけど、あんな無邪気に相手に触れることは出来ない。心の底で、どんなに同じことをしたいと思っていても。
だからこそ、良かった、と思う。
当時の自分にそんな感情はなかったけれど、――いや、無意識下で、きっともう、同じ感情を抱いていたのかもしれない。
だからこそ、あんな行動に走った。
それはまるで、女の本性を剥き出しにしたような。
牽制とか。主張とか。
――彼には、悲しいほどに通じなかったが。
「ヒュー、大好き…」
あの時と同じ言葉を呟けば、つん、と鼻の奥が痛んだ。
「大好き…――」
不意打ちのように頬にキスされた彼は、一瞬驚いたように綺麗な真紅の両目を見開いたが、すぐに呆れたように小さく息を吐いた。
「――お前な。仮にも嫁入り前の娘だろうが。もう少し慎みってもんを持て」
「ええー? だってわたしのおよめさんはヒューでしょう?」
「まだ言うか…」
呻くように黒い手袋に包まれた片手で目元を覆った彼は、何かを諦めたように「せめて婿にしろ」と言い置いて立ち上がる。
「むこ?」
彼はとても背が高くて――私が幼い子供だったから、という部分を差し置いても、充分長身の部類で――立ち上がられてしまっては、もうどうしようもなかった。
「そう、婿。フツー男はヨメじゃなくてムコになんだよ」
そう言いながら無意識のように差し出された手に、自分の手を滑り込ませれば、大きな手にすっぽりと包み込まれる安心感で頬が緩んだ。
「可愛いですね。妹さんですか?」
にこやかな笑みを浮かべた店員が、時間つなぎのためにか振った話題に、彼は「いや、」と軽く肩を竦め。
「オヨメサン、らしいぜ」
そう言って、うっすらと微笑んだ。
その言葉がどんなに真っ直ぐ私の心を撃ち抜いたかなんて。
――彼はきっと、ずっと知らないままに、いなくなってしまった。




