八幕 死を招く旗の印
アズライハは長剣を引き戻し、私の背に突き出した。
私は左足も前に出して、後方に宙返りする。
間一髪で彼の刺突を躱した後、宙に逆立ちした。
横捻りを一つ加え、愛剣を右に払いながら着地する。
剣を払うと、赤い斑が地面に弧を描いた。
音を高らかに再び剣身を鞘に納める。
「殺さないって、難しいね」
青年に背を向けて、呟く。
歩き出す私に後ろから叫び声が掛かった。
「ふざけるなっ……!」
ちらと背後を見れば、アズライハが蹲ったまま、こちらを睨み付けている。
脂汗を浮かべ、右腕を押さえる手指から、溢れた血が滴り落ちていた。
やがて目当ての所まで来ると、三人の男が立ち塞がる。
先程、彼を抑えていた者達だった。
私は彼らの肩越しに、革着の老躯と目を合わせる。
最も若い紫毛の青年が、堪えかねたように叫んだ。
「クオックスさん、もういいだろう!取っ捕まえて竜の巣に放り込んでやる!」
拳を鳴らして進み出る彼の肩を、茶髪の年嵩が掴む。
「待てよお前、こんな若い娘相手に、乱暴は……」
「いいや、俺も賛成だ。さっきの動き見ただろう。こいつは黒だ、野放しにはできねぇ」
消極的な姿勢を見せる男を脇に、暗い色合い赤毛を伸ばした太っ腹が、腰裏から短剣を抜いて構えた。
私は彼らに目もくれず、クオックスを見つめたまま訊いた。
「明日でいい?」
そんな私の質問は無視して、三人が突進してくる。
私は青年の拳を躱しざま鳩尾を殴り、足払いで体当たりしてくる年嵩を転がし、投擲された短剣は空中で掴んで小太りの首を打った。
三人共倒れ伏した事で、視界が開ける。
「……致し方あるまい。どうあれ、主を止める術など、儂らは持ち合わせておらんのだから」
村長の判断を聞いて、アズライハは悔し気ながら俯いた。
私は踵を返し、未だに静まり返っている人垣を割ってその場を後にする。
「賭けた以上は奢るけど、銅貨五枚までだからね」
ミリーネの前を通り過ぎる時に呟いた。
「……レデニウスが負ける訳だ」
少女はため息交じりにぼやいて、私の後に続いた。
まだ日は高く、眩しい。
風に黒髪がたなびく。
路地裏の影に入ると、妙に落ち着く気がした。
苔生した土をブーツで踏みしめると、靴痕が残った。
草いきれを吸い込み、木々の合間を縫って進む。
幾重にも生い茂る葉々に遮られ、日差しを失った森の中は涼やかだ。
ふと泥音がして、見れば青年が転んでいた。
「……だから山越えなんてしたくなかったのに」
「文句言わない。余計疲れるでしょ」
汗を拭って振り返りもせず先を急ぐミリーネに、つま先を木の根に絡め取られたクレンズが頬を地べたに落とす。
ソンファが槍で網状の根っこを刈り払い、クレンズの襟首を掴んで引っ張り起こした。
「敵影は?」
「ない」
私は枝に膝を掛けてぶら下がり、額を露わにしながら答えた。
「鏑矢なら余ってるぞ。いっそこっちから誘き寄せる選択肢も」
ソンファが首を振ると、長い緑色の髪が左右に揺れる。
「坂を越えるまでは潜伏します。足場の不確かな地形で、万一にも翼竜との交戦は避けたい」
腹筋に力を入れて体を起こす。
態勢を直して傍の枝へまた跳び移り、目に入った黄髪の真上まで行った。
「……何よ?」
落ちてきた葉っぱを払い、胡乱な目を向けてくる少女。
「さっきの連中、私なら狩れたのに」
ミリーネは足を止め、ジト目でこちらを見つめてきた。
「私達の仕事を、冒険者稼業と一緒にしないで」
それだけ口にすると、さっさと行軍を再開してしまう。
「……殿下の判断です。あなたが気に病む必要はありません」
「シャルロッテはなんて?」
「不敬ですよ。『角を折るな』と」
「ふぅん……」
私は空を振り仰いで、掠れた息を零した。
「……ミリーネ、前に跳んでっ。クレンズは弓を構えて!」
「は?いきなり何──」
高方で破裂音が轟く。
大きな黒塊が枝葉の群れを爆砕し、信じられない速さで地面に到達する。
「きゃあッ」
一帯の腐葉土が弾き飛ばされ、少女が悲鳴を上げながら噴煙に呑まれた。
「クレンズっ!」
弓弦が嘶く。
次の瞬間、咆哮が波濤となって、森を支配した。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!」
駆けながら槍を突き出そうとしていたソンファが思わず動きを止める。
砂塵を吹き散らして舞い上がった巨体。
その黄濁した眼が、四者を見下ろす。
水牛を思わせる捻じれた双角。
前肢の代わりに発達した膜翼。
岩のような甲殻に継ぎ接ぎされた鞭尾。
生態系の頂点たる竜族、その覇者。
「バハムート……ッ!」
瞋恚に頬を歪めたミリーネが、戦斧を手に駆け出した。
鏃が森景を過り、木漏れ日に閃く。
「ちぃっ、これじゃ埒が明かない!」
竜が翼を羽ばたかせた時の風圧だけで矢を散らされ、クレンズが叫びながら鉈を抜いた。
前後に分かれ、じりじりと周回するミリーネとクレンズ。
太い枝まで登り、影から隙を窺うソンファ。
翼竜の死角に入った瞬間、走り出そうとしたソンファの襟首を掴まえる。
「ぐっ、なんですか!?」
「今は駄目」
直後、バハムートが大きく翼を漕いで、弾かれたように飛躍した。
進行方向にあった枝葉が粉々に打ち砕かれ、樹肌に幾つもの亀裂を残す。
彼女の胸に腕を回したまま木陰に隠れ、じっと天を見つめた。
「……また来る」
「っ、ミリーネ、クレンズ、散りなさいッ!」
先程と同じ響き。
深緑の屋根を穿ち、闇色の鱗が大地を砕く。
しかし、次が違った。
「アアアアアアアアアアアアアッッッッッッ!!」
黒竜は啼き猛り、土煙の中にその姿が見え隠れする。
湿った濁音と、啜るような音も聞こえた。
「離してくださいっ!」
私の手を強引に振り解いて、槍娘が枝から身を躍らせた。
「ぜえええええええええいッッッ!!」
バハムートの背を目掛け、長い髪を泳がせたソンファが落ちていく。
横合いから岩のような尾が薙ぎ払われ、彼女の姿が掻き消えた。
近場にあった樹の幹が真っ赤に塗りたくられる。
バハムートは背後の血に濡れた藪の方へ威嚇するように吼えてから、食事に戻った。
離れた位置に降り立ち、竜の後ろに回り込む。
いた。
「放し、て……っ」
額から血を垂らし、よろめきながらも抵抗するミリーネの手首を掴んで、何かを貪り続ける竜に背を向けて。
「っ」
駆けた。
雨空の下にあるムートリクノは、青い暗闇に閉ざされていた。
背に負ぶさった少女は深い眠りに落ちて、息遣いさえ聞こえない。
土が乾いている平地をようやく見つけ、ミリーネを木に凭れ掛けさせる。
適当に枝を折って積み重ね、一本は短剣でおが屑を削り出し、下に据えた。
繰り返し石を打ち合わせて、ようやく火花が燃え移る。
息を吐き、徐に腰巾着から干し葡萄を取り出すと、口に放り込んだ。
無数の雨雫が頭上の葉を打って、死地を脱した私達を拍手喝采する。
ふと、呻り声が聞こえた。
小柄な黄髪娘は微かに眉を寄せて、長い睫毛を震わせている。
彼女のマントを前から被せて、薄く開いた唇にも萎れた黒い果実を押し込んだ。
「……ッ、がは、げほっ」
咳込みながらも、やがて細い喉がこくりと鳴る。
立って、そろそろと歩いた。
苔生した太い根を踏み越え、灯りの届かない薄暗がりまで。
そして、得物を抜く。
──右斜め前に跳ぶ。
横一文字の銀閃に飛び込んできた影は二つに分かれ、鈍い音で背後に転がった。
正眼に切っ先を掲げる。
離れた木陰から顔を出していた複数の小鬼が、茂みを揺らしながら遠のいていった。
息を吐き、踵を返す。
胴から下を失ったゴブリンの頭を茂みの中に蹴り転がして、元来た道を戻った。
「……だらしないわね」
橙の光に入ってすぐ、尖った声に迎えられる。
ミリーネに所作で指摘された頬の血を拭う。
荷物から干し肉を差し出すと、ミリーネは眉を顰めた。
「……いらない」
「食べる気力も残ってないなら、口移ししてあげようか」
そう言うと渋面を作りながらも、ひったくるように受け取った。
私も自分のを齧る。
噛み切るのに難儀する硬さだ。
髪を額に張り付け、見るからに憔悴した様子のミリーネは、しばらく咀嚼する事しか考えられないだろう。
しばし、薪の爆ぜる音だけが響いていた。
「……クレンズは、助からなかったのね」
不意の呟きに、私は顔も上げず、もうひと口。
「馬鹿だね。バハムートは私を狙ってたんだ。小さいし、一番弱そうだから」
「すばしっこくて、厄介だと判断したのかも」
彼女は乾いた声で、少し笑った。
「……どっちでもいいよ、そんなの。クレンズとはね、グロッセルに来てから知り合ったの。越境旅団は、全員集合して動くなんて滅多にないから。殿下直々に率いる一隊のメンバーだった私やソンファと違って、あの街から組合を追い落とす為に派遣された三隊所属のクレンズは、あんたが来なくたって、すぐ北に帰る筈だったの」
「でも、館にそれらしい人なんていなかった」
というより、もぬけの殻だった。
「撤収したのよ、組合を追いかけて。ジルフットはメウセーズの管理権を欲しがってる。帰属意識の高い北の傭兵は早々に諦めて、南の冒険者と手を組もうとしたみたい。そして殿下も列席する十傑議会は、角の勢力拡大を見過ごせなかった。排除命令を受けて、ロドニエ商会は王国中部、連峰と大河に囲われるラスタシア平原に派兵した。殺し合いにこそならなかったけど、向こうが身を引くまで、三か月間は臨戦態勢が指示され続けた」
『セルス、ここはグロッセルの街とは違う』
ブリードはそう言って、私を受け容れてくれたのだったか。
「連中、表向きは冒険者を装っていたの、小賢しくも。それで住民の目からは、私達の方が異分子として映ったようだけど」
「そう……ところで、ベルエストの証って何?」
少女は一瞬怪訝な顔をした後、瞳を金に閃かせて納得の色を浮かべる。
「レデニウスめ、こっちじゃ伝わんないってあれ程言ったのに」
「……?」
「隠語。昔北では、ベーリュストンって街が栄えていたらしくてね。ちょうど、東部戦線の辺りかな?ある男が酒場でたらふく飲み食いして、さあお勘定という段になって癇癪を起した。やれ、俺の先祖はこの街が起興するきっかけになった英雄なんだぞ、とか。要は無一文だったわけね。そいつは結局、戦働きに駆り出されて討ち死にするんだけど」
どこかで聞いたような話だなと、思わず眉を困らせる。
「故事ってやつよ。調べてみたら、そいつの言っていた事自体は本当だったらしくて。その後すぐにラシンハ帝の侵攻で地図からベーリュストンの名前が消えたものだから、以来都旗に使われていた印は避けられるようになったってお話」
最後のひと欠片を口に放り込み、塩辛い味を噛み締めた。
ミリーネは手慰みに枝を取って、火にくべた。
「分からない」
黙ったままの彼女に、問いを重ねる。
「なんで連中……組合は街道を塞いでいたんだろう」