四幕 生命の値切り方
それでもその名は広く、市井の隅々まで浸透している。
数多くの伝承が、奴らの脅威を物語っているからだ。
巨岩を粉砕する拳。
大河を跳び越える剛脚。
悪魔の如しその巨体は、曰く、傲慢な猪漢のようであったと。
“獅”。
オークだ。
そういえば、彼らと出会った時も、雨が降っていた。
森の中では、幾重にも茂った木の葉が庇となって、無数の雫を受け止めてくれたが、周辺の野原は吹きさらしで、何秒もしないうちに髪が濡れそぼってしまう。
東からやってきた私は、街よりも先にナイリール森林へ入った。
グロッセルから開拓地に向かうのはこれが初めてだったが、整備されていない草地を五キロも歩けば、上衣の肩に水が滲みていくのは避けられない。
とはいえ、私の全身を濡らしている液体が、奇妙に生温かいのは気になった。
瞼を開けると、樹に凭れ掛かっていた事に、ようやく気付く。
「づッ……」
不意に手が痛んで、瞳を下ろした。
愛剣の柄に絡み付いた指が、血の気が失せるほど固く握り込まれている。
視界の端が、朱い。
服が真っ赤に染まっていた。
空いた左手でこめかみを拭うと、肌にべったりと血糊がこびりつく。
怪我を負った感覚はなく、不思議に思って少し遠くを見た。
──首を失った巨体が倒れている。
乳白色の薄い毛に覆われていて、異様に隆起した筋肉を際立たせていた。
陽溜まりに伏しているせいで、飾られた剥製のようにも見える。
そういえば、ここに至るまでに何度となく、木漏れ日に目を細めた事を思い出した。
「──皆は!?」
両の踵を支点に、くの字に折った体を前に傾けて立ち上がり、腰を屈めた姿勢で走る。
でも、オークのものと思われる、遺骸の傍まで近付くにつれ、次第に足が止まっていった。
私が立っているのは、こいつの左手側。
右手側に、頭が落ちていた。
予想通りの豚面だった。
予想もしていなかったのは、いや、考えたくなかっただけか。
ともかく、周りに転がっていた者達には、見覚えがある。
鮮やかな炎のようだった髪を赤く染め、若い男が光を失った双眸を地に落としている。
木の根に乗り上げるようにして寝そべった青年は、葡萄酒樽の栓を抜いたように、口からだらだらと血を流し続けていた。
長身の娘と小柄な少女は、互いに手を重ね合いながら横たわり、生気を失った青い顔で、瞼を下ろしている。
元の色が分からない程、衣も命の水に浸らせた少年は、跪いた姿勢で微動だにしない。
己の胸倉を握り締める。
たった二日の付き合いだ。
思うところなどないだろう。
そう自分に問いかけてみても、答えはなかった。
──右肩に刃を担ぐ。
というより、背中に剣身を立てた。
後ろから、袈裟懸けに振り切られた長刀が、得物と擦れ合い火花を散らす。
──右に振り返るように回る。
相手方の剣威に巻き取られるようにして衝撃を受け流し、切っ先が離れた途端にしゃがんで銀閃を掲げた。
──逆袈裟。
「がッ」
長剣が握った手指諸共に飛んでいく。
二の腕の断面を押さえ、脂汗を浮かべた男が膝を着いた。
その喉元にぴたりと刃を当てながら、私は終始、驚きに見開かれていた瞳を向ける。
「……なんで」
肩まで伸ばした紺の髪を縒れさせて、レデニウスは痛みに耐えながら、口端を無理やり吊った。
「はっ……殺さないのか?」
剣腹で顎を持ち上げてやると、彼は息を詰めながらも、目元に笑みを残したまま。
「どうして、か。当然、話すつもりはない。告発するなら好きにしろ。貴君が街で何を言おうとも、昨日今日やってきたばかりの小娘が口にした与太話を、一体誰が真に受けようものか。ここにあるのは、オークと年若い冒険者達の亡骸だけだ。無謀にも獅との戦いに挑み、致命傷を負いながらも死力を尽くした結果、刺し違えるに至ったのだと、グロッセルの住民は愚かにも称えるだろう。悪魔を打ち滅ぼしたのがまさか、仲間を失い心を病んだあげく妄言を吹聴している、哀れな生き残りの少女とは夢にも思うまい」
断面を押さえた指の隙間から、絶えず多量の血が流れ落ている。
すぐ止血しなければ命も危ういというのに、男は回りくどい講釈を垂れ続けた。
生き急いでいるのか、それとも死にたがりなのか。
ゆるゆると首を振る。
「そうじゃない。……私を襲ったのは、なんで?」
「いや、だから」
レデニウスは物分かりの悪い子供を見るように、億劫そうな目を向けてきた。
「ロドニエ越境旅団の話は嘘じゃない。信じられないなら、ギルドに行けばいい。確認ぐらい取れるだろう。辺境の萎びた街で、そんな名ばかりのゴロツキ共が幅を利かせていると」
そう言いながら、喉を浅く裂かれても素知らぬ顔で、傭兵が迷いもせず立ち上がる。
かといって逃走を図るでもなく、淡々とこちらを見下ろしてくるレデニウスに、私は変わらず瞠った眼差しを注ぎながら。
「分からない」
「はぁ……。あのな」
溜息を吐いて、苛立ちに眉を顰めた男が、こちらに体を向けた。
しかし、苦渋を滲ませて続けた言葉に、その動きはぴたりと止まる。
「死んでしまうのに……」
ごく単純な脈絡だったが、彼は理解するのに十秒を要した。
それから傭兵は、感情の削げ落ちた面で。
「貴君に挑んだ者の末路は、決まっている?」
私は思わず目を伏せて、躊躇いがちに、震え声で応える。
「……そうでしょう?」
刃の擦れる音がした。俯いた視界で、腰裏の鞘から抜き放たれたナイフが紅く閃く。
「やってみろッ!」
振り返るみたいに反転した男は、逆手に構えた刃を細い喉笛に突き下ろした。
──後ろに倒れる。
傾いでいく体で、右肩を落として寝返りを打つ。
再び天を仰いだ瞬間、利き腕を横一文字に振り抜く。
宙を舞う赤い雫に鼻梁を染めながら、半身になったところで大きく開脚する。
レデニウスの左腕は、落葉に血の痕を残しながら足下を転がって、人と豚を混ぜ合わせたような胴体にぶつかった。
今度は呻き声一つ漏らさない。
──つま先を弾く。
跳躍しながら旋回する。
最初は下半身から。
再び彼を正面に捉えてからは、上半身を先に捩じる。
踊る死の竜巻を目の前にして、両腕を失った兵は微かに口を綻ばせた。
「殿下、証が見つかりました」
──袈裟。
腰が追いつく。
右足を前に出した半身で着地した。
体は左へ、頭は右へ、それぞれに崩れ落ちるレデニウス。
血を払って剣を納め、私は皆の下へと歩き出す。
「……待ってて」
途中にあったオークの貌を踏み砕き、ブーツを真っ赤に浸して進む。
いつしか雨は止み、まるで祝福を受けるように微かな木漏れ日を浴びる五人へ、冷たく投げかけた。
「君達が何に巻き込まれたのかは、ちゃんと突き止めるから」
ブリード、テル、ヘルキオ、ルーシュ、セルス。
君達を弔うには、それじゃ不足だろうけれど。
遠目には黒く見えたのだが、近づいてみると限りなく濃い緑だと気付かされる。
茶色く染まった材木の街グロッセルに於いて、南の外れにあるその洋館は異質な空気を纏っていた。
かつては銛の付いた立派な格子門が据え付けられていたに違いない。
今となっては取り外され、代わりに生垣のアーチが石塀の半ばで不自然に存在を主張している。
随分と暗い印象の建物だったが、連なる軒先の灯りにぼうっと照らし出され、夜が更けても輪郭を見失う事は避けられた。
「商会関係者以外お通しできません。お引き取りを」
門番と言うには、立ち位置が露骨過ぎる女だ。
まるで通せんぼするように入り口に佇み、道を塞いでいた。
緑の長髪を靡かせたその女は、心持ち顎を反らしながら、品定めするように私を見下している。
彼女が手に持った槍の穂先に、街灯りと血のこびりついた私の顔を映しながら、鞘に収まった剣を掲げた。
「形見です」
「……どこで、それを」
「東の森で」
「……っ」
息を呑んだ門番は、忌まわしい物を見る目に変わり。
「あなた……!」
「通して」
レデニウスの長剣を投げ渡すと、視線を私に固定したまま危なげなく受け取る。
逡巡するように少し俯き、それから踵を返して歩き始めた。
硬くゆっくりとした足音が、やがて二つに重なっていく。
甚くがらんとした部屋だ。
間取りは恐ろしく広いが、奥の執務机と、脇の壁に据え付けられている書棚の他に、およそ家具と呼べる類の物が見当たらない。
良く管理された館内を先導していた門衛は、私が入ると外から扉を閉めてしまった。
「頭が高いこと」
対面に座る娘から視線を逸らさず進み出ると、出し抜けに高い声が掛けられる。
僅かに上目遣った眼差しを受け、金髪を二つ結びにした少女が鼻を鳴らした。
「今にも斬り掛かってきそうな面構えね」
朱色の羽織りを肩に掛けた彼女は、脚と腕も組んだまま、吊り目がちな双眸を細める。
「殺した?」
「ええ」
「なんで?」
「殺そうとしてきた」
「あんたは私をどうしたいワケ?」
無言で得物を抜き放ち、鞘を打ち捨てた。
軽い音が響くと共に、瞳を窄める。
「構えろ」
勢いを付けて立ち上がった女は、背後の窓辺に立て掛けてあった剣を取りながら、私から目を離さず続けた。
「仲間はいるの」
「さっき死んだ」
「……レデニウスが?」
「オークが」
娘はきょとんとした顔になる。
やがて意味を咀嚼すると、吹き出す。
「あっはっはっ……。はぁ、お腹痛い」
その間も足を進めていた私が、執務机を挟んで目の前に止まった。
腹部を押さえて体をくの字に折った彼女の頬に、切っ先を合わせる。
「殺れるの?」
急に凝然と目を見開いた娘は、先程までの笑い姿が嘘のような冷たい声音で、そう訊いた。
剣を持つ手が僅かに、震える。
それを見たブロンドの君が、にぃっと酷薄に微笑んだ。
「できないのね?」
その通りだった。
得物を納め、尋ねる。
「あんたが、レデニウスに命令したの?」
「そうよ」
シャルロッテは自らの房髪を肩で払うと、高慢な目で愉悦たっぷりに言い放った。
「南はウシュトラから北のメウセーズに渡り、遍くエルベルン王国土を治めし名高き王家の血筋、シャルロッテ・ディーゼルベルン。これでも私、歴とした王女なんだから」
大きな窓の奥に広がる夜闇を背負いながら、その立ち姿は呆れるほどに華やかだった。
三人共、実に胡乱な眼差しを向けてくるものだ。
「黄色はミリーネ、緑がソンファ、銀髪のクレンズね。じゃあソンファ、後よろしくー」
シャルロッテが如何にも適当な紹介をして、さっさと広間を出ていく。
残された私達は、睨み合ったまま動かない。
「だあああ!にらめっこしててもしゃあない!」