十三幕 神授と云う美酒
猪貌が口角をにぃっと吊り上げる。
しかし歩みを再開したところで、オークは口から大量の血を吐いた。
奴が見下ろす胸からは、剣の切っ先が生えている。
「エス」
「ガアアアッ」
豚人が瞋恚に満ちた瞳で振り返った。
「カースラ」
エルベルン王国南端にある公国との国境都市ウシュトラから始まるエウンセイロ街道は、北から西へカーブを描くオズトア河川と南から東へ歪曲するムートリクノ連峰に囲われるラスタシア平原の南西角に栄えた港町ベイクストを跨ぎ、材木の街グロッセルからハスピロット丘陵草原を経由して山脈を越えると、ペルペ野に入る。
街道を囲むレモーフェ花海とその東西に広く分布するラフテ砂漠を包括した高原地帯だ。
そこからさらに北へ進むと、メウセーズまでの間にはラクルー樹海と呼ばれる針葉樹林帯が広がっていた。
すらりと伸びた木々は枝葉が人の上背よりずっと高い位置に伸びている為、私の故郷である東方や王国中部のグロッセル近郊にあった森と比べてもかなり見晴らしが利いて歩き易い。
「街道を外れてもう三日経つけど、本当に方角はあってるの?」
「お前も見ただろう。主要街道にはジルフット様の手勢が張っている。多少の遠回りは仕方ない」
金髪をおかっぱに切り揃えた青年は黒づくめの裾を揺らし、颯爽と前を歩いていく。
「気に入らないな」
紺髪の青年がぽつりとつぶやき、金髪青年が歩きつつ横顔だけ振り向かせる。
「あんた組合の人間なんだろ?仲間に隠し事をする理由はなんだ」
「確かに俺はジルフット組合に所属する騎士階級だが、メウセーズの生まれって訳じゃない。本国はラシンハ王朝って所で、昔は宰相旗下の諜報員をしていた」
「おいフィオ、これは一体何の話だ?」
金髪君の隣を行く私は、歩調を緩めて紺髪君に並んだ。
「アズライハとはムートリクノ連峰の南側麓にあるバーヒンクっていう集落で会ったの」
「胸と右腕に傷が増えた」
そう言って襟首を引っ張るアズライハだが、その逞しい胸元には古傷が幾つも刻まれていてどれが私に付けられたものか判然としない。
「突っ掛かってきたのはあなたでしょ。いいシーダ?この森を抜けた先にある城塞都市メウセーズは、今二つの勢力に分けられてる。十傑議会と組合だね。組合代表のジルフットはラシンハ帝と繋がってるらしくて、王国側にとって東部戦線の要衝であるメウセーズを陥落させる為に、南部領で冒険者達を引き入れようと画策していた」
「十傑議会も負けちゃいない。南のロドニエ公国大公陛下をパトロンとするメウセーズ最強の傭兵団、シャルロッテ・ディーゼルベルン王女殿下率いるロドニエ越境旅団に“牡鹿の髑髏”ジルフット南征軍の抑止、場合によっては殲滅を要請した」
後を引き継ぐ騎士の言葉に、リベルが髭に覆われた顔を顰める。
「グロッセルは俺の生まれ故郷だ。ラスタシア平原中部にある材木の街。まさか内乱に巻き込まれているのか?」
私はゆるゆると頭を振った。
「私、オズトア河川東のリヒトロの丘にあるテレンツェっていう街から来たんだけど」
「あの、グライダーや飛空艇の造船業で有名な?」
頤に指を当てて首を捻るユイカに頷きを返した。
「そう。私がグロッセルに着いた時には、もう組合は南に撤退した後で、私はシャルロッテ殿下の誘いで商会に入った」
厳密にはロドニエ商会に潜入していたラシンハ帝工作員と思われるレデニウスの誘いだが、その辺りは伏せておく。
「俺は気付かなかったがな。流れの冒険者が人殺しに手を染めてっから、堅気が迂闊にこっち側に入ってこないように灸を据えてやるつもりで近付いただけだ」
「えっ……」
「は?」
後ろから二人の娘が疑問を呈した。
横目にすると、白髪を二つ結びにした吊り目の少女が、敵愾心を露わに私を見ていた。
「嘘……ですよね?フィオがまさか……」
ニコが恐々と確認してくるから、私はにっこり微笑んでみせた。
「ほんとよ」
「っ……」
金髪を尻尾にした娘がその場に呆然と立ち止まる。
ユイカが踵を返して彼女に駆け寄った。
「大丈夫だから、きっと何か事情があるのよ」
「殺しは殺しだろ、胸糞悪い」
シーダが吐き捨てるように言ってアズライハを追い越す。
「あっと、先行かないで」
「いいじゃないか別に。さっきから真っ直ぐ歩いてるだけだろ」
つっけんどんに言い返す魔術師に、騎士が静かに鼻を鳴らしながら肩を竦めた。
「……あの足手纏い」
キャサリンが低く呟いた。
他の皆は気付かなかったのか無視していたが、私にははっきり聴こえたから相槌を打つ。
「うん」
「モーリスとか言ったかしら。あいつどうしたの?」
「エイダと同じだよ」
彼女は後ろで大きな音を立てて枝葉を踏み割った。
エイダはオークに顔を殴られたようで、脳髄が著しく欠けていた。
きっと苦しむ間も無かったろう。
ペルペ野はカルロダンジョンを除けば魔物や猛獣が殆ど出ない為、タムトートには外壁も無かった。
その為にスタンピードであっけなく壊滅の危機に瀕した訳だが、土地が開けているせいで人口に比べてやたら立派な墓所があり、埋める場所には事欠かなかった。
私が敢えてエイダの名前を持ち出したのは何も挑発の為ではない。
“吸血鬼”とは、正確には“グエトロマグナ”と呼ばれる先天的な精霊病患者の俗称だ。
生まれつき血中の霊子濃度が薄く、飢えた精霊が他者の血液を求めて犬歯を発達させていき、十歳前後で吸血を覚える。
その衝動は当人の感覚としては性欲に近似しているらしく、誰に教わるでもなく自然と年齢が近く血液成分の近い異性に惹かれて吸血を行うと言われている。
摂取しなければ死ぬというものではないらしいが、長く血を飲んでいないと身体能力が衰えるとか。
尤も下等な魔物の忌み名を与えられる辺りは、グエトロマグナ罹患者に対する単純な差別思想に依るものだと思われる。
モーリスが吸血鬼である事は、なんとなくあの場にいた他の討伐隊メンバーには話したくなかった。
理由は自分でもよく分かっていないが。
「フィオ、そういえば連れがいたろ。組合の奴らから聞いた。そいつらロドニエ越境旅団のメンバーだった筈だ。今どこにいる?」
「私にシャルロッテへの伝言を残して先にメウセーズへ向かった」
ソンファとクレンズは竜の餌になって死んだ事も伏せておいた。
「じゃあなんでレモーフェ花海でこいつらと一緒に居たんだ?ラフテ砂漠の迷宮でうん十年振りのスタンピードがあったってのは聞いたし、その時組んだ冒険者でパーティを組むってのもまあ分かる。けど、それならバーヒンクに引き返してきても良かっただろ」
「私が託されたのは、ロドニエ商会戦力が南に引き付けられている間に、組合がメウセーズを押さえてラシンハ帝の侵攻を促すって相手側の計画を、シャルロッテに伝える事。そんなの、彼女は知ったうえで私達を北上させたに決まってる。仲間はそこまで考え至らなかったみたいだけど」
「つまり?」
「シャルロッテ・ディーゼルベルンは」
私は薄暗い曇り空を仰いで朱瞳を瞬かせた。
「多分、王権を復古をさせようとしてる」
断っておくが、私が六人をラクルー樹海越えに誘った訳ではない。
彼らは元々西のセーマ同盟から旅をしてきたらしく、タムトートでひと稼ぎしたら街道を北上してメウセーズを目指すつもりだったらしい。
王国のあるオズトア大陸と王朝が版図を広げるグランシア大陸とは北のみ国境を接しており、その南にはカルミア半島を中心としたバンデリット自治領と呼ばれる魔境が広がっている。
冒険者ギルドの統括本部が自治を行う領土だ。
竜や魔物が大量に棲み付き開拓に適さないうえ、ギルドは世界中に根を張り、教会ともタメで張り合える国家間組織であるので、領土拡大に積極的なラシンハ帝も手が出ないという。
アズライハは街道を北上している途中、樹海に程近い場所で野営をしている時に訪ねてきた。
「王朝も一枚岩ではない。今は軍部が主導する皇帝派と貴族院を中心とした宰相派に大きく二分されている。皇帝派は王権の失墜した王国領を我が物とするべく画策している。実際エルベルン王国は北方領こそ屈強な傭兵揃いだが、後は平和ボケした冒険者程度しか戦力に数えられない。一方王朝は三つの騎士団を擁していて、全面戦争になればまず勝つのはラシンハ帝だ」
「じゃあ、なんで奴らは攻め入らない?」
グラントが背嚢から引っ張り出したマントを羽織りながら問い掛ける。
同じく各々外套を被って暖を取る私達を尻目に、そのままの恰好でアズライハが続けた。
「戦いに勝っても統治できるかは別の話だ。王朝は軍事力を背景に領土を拡大してきた国で、反乱の機会を虎視眈々と窺う異民族が群雄割拠している。王国領を抑えておくのに派兵すれば、それだけ内政は不安定になるだろう。一度ラシンハ帝が討ち取られ、革命が成ってしまえば後に残るのは血みどろの戦乱だけだ。国の内情を知り尽くしている宰相閣下は先を憂い、現状維持を望む保守的な貴族を纏め上げて騎士団を抑えている」
アズライハは拳を音が鳴る程握りしめる。
「閣下が国民の命と生活を第一に身を粉にされてきたからこそ、今日まで王朝は繁栄してきた。なのに宮廷仕えの武官共ときたら、自分の武名を高らしめる事しか考えていない!先代が病で急逝したせいで今代のラシンハ帝は未だ年若く、文官や地方貴族に舐められまいとして、武勲を立てる事に躍起になってる。軍部は小細工を弄し、宰相閣下の目を盗んで王国を掌中に収めるべく動き出した」
彼は皇帝派の工作を阻止する為に派遣された密偵のひとりだという。
皆規模の大きい話に気持ちが追いつかないのか、声を発するのを躊躇うように俯いて黙りこくっていた。
ラシンハ帝が十傑議会のラーズ卿と繋がっていて、組合もそれを支持しているのなら、メウセーズは遠からず陥落するだろう。
そうなれば睨み合いが続いているらしい東部戦線の均衡も崩れ、ラシンハ帝旗下の三騎士団が王国領に雪崩れ込んでくる事になる。
王家がギルドに自治権を明け渡したこの国に統制された兵力など無く、エルベルン王国の名は早晩地図から姿を消す。
──シャルロッテがいなければ。
進むにつれ森が段々と雪化粧していき、ブーツを踏み出す度にざくざくと音が鳴った。
「見えてきたな」
リベルが白い息を吐きながら呟く。
ユイカがニコの背に手を当てた。