十二幕 救済と鬼の誹り
「放して!」
「落ち着けユイカ。オークと一戦交えて死者無しなんて奇跡そう何度も起きるか?俺はパーティリーダーとしてお前らの安全を守る責任が」
「何言ってるのリベル?信じられない。ひとり死んだじゃないっ」
「ユイカ、こいつは俺達の仲間じゃない!」
「なんですって!?」
私が欠伸していると、シーダが唖然としてこちらを凝視する。
「……見たとこ、暴れ回ってるのは獅だけじゃ無さそうだね」
手で庇を作ってタムトートの方を見やりながら呟くと、リベルが渋い顔をした。
「撤退する?西へ何日か歩けばラフテ砂漠は越えられるだろうけど」
「部外者は黙ってな。あんただってパーティメンバーじゃないだろう。しれっと僕らの方針に口出しするな」
紺髪の青年が顰め面で言い放った後、ユイカの背を叩いて頷く。
「僕も行く。タムトートには飲み仲間もいるんだ。流石に見過ごせない」
私が肩を竦めて鼻を鳴らすと、彼はいよいよ腹を立てた様子でずんずんこっちに歩み寄ってきた。
それをリベルが制して声を張った。
「分かった。だがフィオはこれ以上巻き込む訳にはいかない。フィオ、モーリスを預かってくれないか。こいつは俺達の為によく戦ってくれた。この上戦場に連れていきたくない」
「いいよ。任されてあげる」
「感謝する」
角顔の男から背負っていた簀巻きの遺体をぞんざいに受け取る。
リベルが走り出し、三人も後に続く。
その頃にはエイダ達の姿はもうタムトートに到着していた。
彼らとの距離が十分開くまで立ち惚けしてから、布に包まれた少年を砂地にゆっくり横たえる。
毛布が解けないよう上から縛っていた縄を解き、彼の姿を開帳する。
額から顎に掛けて薄っすら赤く乾いており、血を拭き取った痕が見られた。
青白い頬をぺちぺちと叩き、声を掛ける。
「もういいんじゃない。あの人達は行ったよ」
死体は当然応えない。
ため息が漏れた。
「……下手な演技は止めて。じゃないとこのナイフ、土に埋めるわよ」
「なんで素直に持って行かないかな」
モーリスは瞼を薄っすらと上げ、翠色の瞳で恨めし気に睨んでくる。
「吸血鬼の贈り刀は獲物の選定に使われる。死人から遺品を盗むような欲深なら襲ったところで心は痛まないし、何より血が旨いから」
「よく知ってるね」
「東じゃ有名な伝承だからね。テレンツェでは吸血鬼避けの護符だとか、土産物として多かったし」
「リヒトロの丘にある拡翼の街か。確かに夜族の発祥は遠い東の諸民族帯らしいから、そういう事もあるのかもしれないが……」
言いながらすっくと立ち上がる少年に、私は腰に差していたナイフを返した。
受け取りつつ、モーリスは縦に割れた瞳孔を窄めてこっちを見る。
「それはそうと、フィオと言ったか。あんた、俺に貞操を寄越さないか?」
高い声と不釣り合いに尊大な口調に、私はまじまじと少年を仰いだ。
「どうして呑むと思ったの。私にメリットある?」
「見たところ、お前は今二つの精霊を飼っている。霊力の流れが濃くて、きっと味わい深いだろうな。だから血を吸わせてくれたら」
そう言って彼は煙を立ち昇らせる集落を指差した。
「向こうにいるオークとコボルドの群れを殲滅してきてやる。どうだ?」
「……もうひと声」
「ハッ」
モーリスは顔は笑っていないのに笑い声を上げるという器用な真似をした。
「いいだろう。なら俺が持ってる精霊も一つおまけでくれてやる。何気にするな。俺は長い人生で数多くの同胞を送り、その精霊を魂の代わりと思って腹に納めてきた」
「だったら今更私なんて」
「自分の血を飲むヴァンパイアがいるか?そら首を反らせ」
半眼で鼻からひとつ息を吐き、黒い外套の前を緩める。
襟を降ろして首の付け根を晒すと、モーリスがこっちの双肩を掴んで鋭い犬歯を肌に突き立てた。
吸血鬼の食事は相手に多幸感を齎すというが、大嘘も甚だしい。
割と痛かったので、彼の胴に腕を回して背中にしがみつきながら耐えた。
「……っ。ふむ、悪くない」
緑髪の少年が最後に滴った血をペロリと舐め取り、体を離すと私に額を合わせてきた。
「良い味だったから取って置きをやろう。ハイ・ネルムス」
「……はっ」
体が凍えて自らを抱きしめる。
肌や服に霜が張って、私の周囲を冷気が取り巻いている。
「私がかつて食おうとして食いそびれた愛しい剣士の真名だ。人には決して聞かせるな?優秀だが気紛れなお姫様だから」
彼はそれっきり身を翻し、紅玉石の嵌ったナイフを抜き身で振って、歩き去っていく。
脅しの類いではなく、厄祓い作法だ。
当の厄本人がするものではないが。
私も形式に則って胸に十字を切る。
立ち上がって彼とは逆方向、北に歩き出した。
向かう先には煙を上げる石造りの街が、荒れ地の只中に蜃気楼の如く揺れている。
建物の陰から顔を覗かせた紺髪の青年が、人差し指を突き出して何事か唱えた。
広場の上空に穴のようなものが渦を巻き、中心に佇んでいた白銀の豚人へと落ちていく。
オークは逸早く察知して、膝をたわめた。
地面が捲れ上がる。
逃げ遅れたコボルド達が腕や脇腹、頭部を抉られていく中、ブラックホールはやがて収束し、その姿を消す。
だがシーダの顔に浮かんだのは勝利の喜悦ではなく驚愕だった。
その眼前に突如として現れた巨体の猪が、石を削り出して造った無骨な肉包丁を振り上げていた。
その切っ先がブレた瞬間、オークの体が家屋の外壁に突っ込み、土埃に埋もれる。
背後から如意棒を振り抜いた茶髪の偉丈夫が、痺れた手を振って青年に差し伸べた。
「僕に構うな。オークに集中しろ」
シーダは自力で立ち上がり、グラントの肩を叩いてからその場を離れていく。
はっとしたグラントが得物を構えると、間一髪幅広の銀閃が逆袈裟に走り、彼の大きな体が砲弾のように弾かれた。
途端、四つ足で獣のように群がるコボルド達。
あわや食い殺されるという所で、青紺の煌華が広場に波打つ。
首を刎ね飛ばされた狼貌が広場を転がり、日に焼けた荒れ地に赤黒い染みができる。
灰髪の少女は短剣を腰裏の鞘に納め、すぐ男の容態を確かめて唇を浅く噛んだ。
グラントは呻き声一つ漏らさなかったが、右の上腕が半ばであらぬ方向に垂れ下がっている。
肩を貸して歩き出す二人に向けて、砂埃の中から白毛に覆われたつま先が踏み出した。
「まあちょっと待ってくれよ。こっちの決着がまだだろう?」
額から血を滴らせた黒髪角顔の男が、凶悪な笑みを浮かべて立ち塞がる。
その両手には片手用の細剣がそれぞれ握られていたが、肩が震えている。
黄濁した眼球の中、開き切った瞳孔からは感情というものが覗えない。
「ああああああああああッッッ!!」
己を鼓舞するように吠え猛りながら突貫するリベル。
オークはゆったり歩きながら、右腕を巨躯に巻き付けるように振り被った。
──逆袈裟。
白い毛並みがバツの字に裂け、赤飛沫が弾け上がる。
オークも、それを為した当人もまた目を見開く。
猪漢の懐で大包丁を跳ね上げた少女の黒髪が衝撃に舞う。
その薄い唇が高速で瞬いた。
くすんだ銀の毛皮が刹那の間に樹木状の霜で覆われ、醜い豚人が仰け反ったまま呻き声を零す。
その氷面に左掌を当て、肌が凍り付いていくのも構わず呟く。
「──スラっ」
巨躯の背中から赤液の帯に巻かれた白煌が噴いた。
胸に風穴を空けて仰向けに倒れ伏すオークに見向きもせず、私はしゃがみ込んで俯きながら問う。
「残りは?」
「……三匹だ。エイダ達が陽動役を引き受けてくれたが、さっきから戦闘音が聞こえてこない」
ユイカがはっとした様子で左右に視線をやった。
「獅三つ相手ならほぼ確実に死んでるね」
「他二人はともかくエイダがそう簡単に負けるもんか」
口を挟んだシーダを私は不思議そうに見やる。
「パーティ外の人間を随分高く買ってるようだけど、情を挟んで判断を歪められる程楽観できる余裕ないよ」
「うるさいな、大体あんたモーリスとかいう奴どうしたんだよ!まさか放ってきたのか?それともご丁寧に埋葬でもしたか?今生きててもうすぐ死にそうになってる奴がいるかもしれないってのに、随分とお早いご到着だったじゃないか。大事な時にいなかった癖して、重役出勤で良い所取りして全部自分の手柄だって言いたいのか?出しゃばるのも大概にしろよ、このっ」
「止せシーダ」
口汚く罵ろうとする青年が悪詈を吐く前に、駆け寄った角顔の男が駆け寄って収めに掛かる。
「彼女達が今いる場所は?」
「最後に音を聴いたのはあっちからだったと思うっ」
「案内して」
ユイカの案内で、私達はタムトートの北東へ向かった。
石造りの建物は堅牢だ。
崩れている家屋は無かった。
だが戸が外れ、窓は割られ、中から火の手が上がっている所も少なくない。
三度に渡るオークとの戦闘経験からすれば、獅が十把一絡げの市民を襲うというのは想像しづらい。
恐らくオークに率いられた、もしくは巣穴から追い立てられたコボルド達が、新たな縄張りを築くべく殺戮に走ったのだろう。
あまり見ないようにしていたが、通りを適当に走っただけで七人倒れていた。
損傷具合からして死んでいるのは確実だ。
途中ユイカが耐え切れず嘔吐して、付き添いにリベルが残った。
「お前らは先に行け」
現在位置は殆ど集落の外縁。
ここまで来ると、僅かだが剣戟が耳に入る。
「近いな。……言っとくけど僕は」
「前に出ないんでしょ。魔法使いなら大体そうだ」
「あのな」
「別に貶したつもりないよ」
並走する彼は表情を見るにまだまだ含むところがありそうだけれど、今は言ってられない。
垂れ下がった左腕を真っ赤に濡らすキャサリンが、細身の剣を構えて歩み来るオークに後退っている。
地に手を着く。
──ハイ・ネルムス。
猪漢が咄嗟に飛び退った足跡を、一人と一匹の境界を引くように霜の柱が駆け抜けた。
「……ウィアッ」
言葉尻を荒げつつ、シーダが詠唱を終えて木杖を差し向ける。
砂金のような光の礫がごく薄い放物線を描きつつ、目測七十メートル先のオークに飛来するのが見えた。
「ガアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!」
ひと際巨大な乳白色の獅子人が、大音声と共に拳を地面に叩き付ける。
土柱が噴き出す。
そこに金閃が入り込み、爆風が弾けた。
衝撃音にキャサリンの悲鳴も微かに混ざる。
暗黒の空間穴が静かに閉じていくと、砂埃が吹き払われ、健在の猪漢が姿を見せた。
尻もちを着いていたキャサリンが、震える切っ先を掲げ直した。
豚貌がゆっくり振り返る。
「……ぃっ」
恐怖のあまり失禁する彼女の後ろには、顔の半分を失ったエイダに庇われた姿勢で、目を開けたまま放心するニコがいた。