一幕 人外も初歩は常軌
濡れた毛先が喉に触れて、雫は鎖骨を伝い、裾の中へと落ちていく。
黒髪を耳に掛けると、微かに鉄の音が聴こえた。
葉擦れが立つのも気にせず、茂みに分け入っていく。
武具を携えた五人の男女が、モンスターと相対しているようだ。
背は小さく、肌は緑で、頭頂が鱗のような硬皮に覆われている。
瞳のない、黄濁した目。
ゴブリンだろう。
「グギャアアアゥッ!」
金切り声を上げて、ダガーを持った個体が、赤毛の娘へと迫った。
「舐めんな!」
振りかざした長剣を、真一文字に切り落とす。
高い背丈から降ってくる刃は、鋭く土に突き刺さった。
飛び退った小鬼が唸る。
「テル、そのまま抑えてろ!」
小柄な体躯を機敏に回し、少年が青い髪を翻して、横合いから双刃を振るった。
剣戟。
「ちぃッ」
割って入った斧に阻まれ、何合か打ち合った後、距離を取らざるを得ない。
「エス・カースラ」
空気が白く瞬いて、様子を窺っていたゴブリンの一体が、出し抜けに弾き飛ばされる。
残りの小鬼が木槍の先を向けるのは、片手を突き出した白髪の乙女だ。
「奴が戻ってくる前に一匹片付けるぞ、ヘルキオ!」
ガタイの良い益荒男が、橙の髪を靡かせて大剣を薙ぎ払う。
「俺に命令すんじゃねぇ!」
吹き飛ばされた小鬼を追いかけ、悪態を残して疾駆する青年。
木漏れ日にブロンドを輝かせ、得物を折られた魔物に戦斧を振り抜く。
「ギャッ!?」
「グオガアアッッ!!」
同胞を逆袈裟に裁かれ、激昂したゴブリンが少年に飛び掛かる。
テルと呼ばれた娘の切り払いを前転して搔い潜り、猛然と斧を叩き付けた。
「くっ……!」
「セルス!?」
青い髪を額に張り付かせ、たちまち防戦一方になる二刀使い。
「っ、エス──」
──袈裟。
振り被る瞬間、柄を断たれた斧身が、回転して地を打った。
──屈み、回る。
足払いを掛けた小鬼がつんのめり、伸ばした左肢と一緒に振り上げた切っ先が、その喉笛を引き裂いた。
鼻梁を濡らす血が、ツンとした匂いを届けてくる。
──つま先を蹴る。
空中を逆立ちして、体を旋回させた。
両脚を前に下ろす瞬間、剣を水平に閃かせる。
ブーツの踵で土を抉る私の背後で、首を刎ねられたゴブリンが短剣を落として頽れた。
「ギャギャッ!」
たたらを踏んで呻く最後の一体が、魔法で飛ばされた位置から、そのまま逃げ出そうと身を翻す。
──腕を挙げる。
手放した得物が、縦回転しながら天に昇る。
──跳躍。
左に上体を傾けて横転。
一周したところで軸足を地に突く。
利き脚が袈裟に振り抜かれた。
足の甲が落ちてきた柄頭を捉え、銀円が木立を分け入っていく。
愛剣はそのまま、背を向ける小鬼の胸を貫いて、手近な木の幹に縫い留めた。
「……っ」
息を吐き、右肢をゆるりと前に戻す。
呆けたように立ち尽くす四人。
へたり込んでいた白髪の少女が、震える唇を動かした。
「終わ、った……?」
ナイリール森林は南北に八キロ、東西は五キロに渡る。
南東にある“岩の岬”は木がなく、ごつごつした乳白色の丘陵だった。
岩山の狭間に潜み、車座になった六人が、互いの様子を窺っている。
「取り敢えず、礼を言わせてくれ。手伝ってくれてありがとな」
オレンジ髪の男は私の対面から、首を掻いてぎこちない笑みを浮かべた。
「俺はブリード。戦士だ」
彼が顎をしゃくると、ブロンドの青年が胡乱な視線を向けてくる。
「ヘルキオ、神官」
「前に出てばっかだから、見えないよな」
「うるせぇな」
ブリードとヘルキオは、まるで兄弟みたいだ。
「テルだよ。よろしくね」
赤毛の娘が、利発そうな吊り目を和らげた。
「こっちの不愛想なのが、最年少のセルスね」
「勝手に話すな」
続けざまに紹介された少年が、不服そうに眉を顰める。
私が見ると、白い少女は俯きながら。
「ルーシュ、魔法使いです……」
「俺達は皆、ここからずっと南の山育ちなんだ」
ブリードが後ろ手を突いて、遠くを見る目で空を仰いだ。
「……剣士、フィオ。よろしく」
「おう。よろしくな」
頷いたのはリーダーだけで、残る四人の反応は芳しくない。
「つーかよ、横取りはマナー違反だろ」
ヘルキオが反感を露わに声を荒げる。
「お前が邪魔しなきゃ、俺が殺してたっつの」
「止めろ、ヘルキオ。この子がいなきゃ、セルスが怪我してたかもしんねぇだろ」
「僕はそんなヘマはしない。見損なうなよブリード」
引き合いに出された少年の苦言に、男は両手を挙げて早々に降参した。
「でも、私は助けてくれて良かったよ。フィオが割って入ってくれなかったら、動揺してる隙にあのゴブリンに刺されてたかもだし」
短めに切った赤毛を揺らし、テルが朗らかな顔をこちらに向ける。
口数の少ないルーシュも、こくこくと首を上下させていた。
「俺達、この森に入ってまだ十日なんだよ。あんたは?」
「……ついさっき」
「一日でこんな奥まで来たってのか?蛮勇も極まったな」
「いいじゃねぇか、心強い。でもそうか、情報交換しようと思ってたが、まだ来たばかりじゃな……」
取りなそうとしたブリードの声も、顎を撫でさすりながら尻すぼみになる。
「あ、ねぇねぇ。一緒に来ない?」
テルが、妙案を思いついた、という表情で、目を輝かせた。
「君がいてくれたら安心だよ~。私達だけじゃ、さっきも危なかったし」
「バカ、考えて物言えっ」
今度はセルスが反論する。
「開拓地で出くわした冒険者だぞ。野党の類とどうやって見分ける。今晩寝首を掻かれても、僕は不思議に思わないな」
「ちょっと、そんな言い方ないでしょ!」
言って、疑わしそうに流し見てくるセルスに、かっとなったテルが怒鳴った。
「まあ、落ち着け二人共」
手を下げ下げ、平静を促したブリードが、少年に向き直る。
「セルス、ここはグロッセルの街とは違う。折角会えた根無し草同志のよしみだ、たまには旅の道連れも悪かないだろ?」
しばらくその目をじっと見ていたセルスは、やがて仏頂面のままそっぽを向いた。
心無し、首が縦に振れたように見えた。
含み笑いを零した男は、柏手を打って皆の視線を集める。
「俺達は、全会一致でフィオの同行に賛成だ。とは言え、決めるのは俺達じゃない。どうする?勿論あんたが嫌なら、無理強いはしないが……」
好戦的な上目遣いは、口振りとは裏腹に、とても逃がしてくれそうに思えなかった。
息を吐いて、目を伏せる。
「……私なんかで、良ければ」
好意的なブリードやテルとは対照的に、ヘルキオは冷ややかで、セルスは警戒を隠さない。
ルーシュだけが黙ったまま、じっと明後日に目を向けていた。
広い森と言えど、獣を狩れる環境は、存外と少ない。
高低差が激しい場所では、遮蔽物を駆使して簡単に逃げられてしまうし、ぬかるみが多い地面は、普段から足を浸からせている生息者の方が、圧倒的に馴れているからだ。
モンスターについても同様で、故に冒険者が効率的に稼ぐには、起伏や水気のないポイントを事前に覚えておく必要がある。
ナイリール森林に於いて狩場となるのは、“九段鉱”と呼ばれるクレーター状の大穴だった。
「石切り場、ってやつだろうな。西側は、草原を抜けたらグロッセルだから、伐採跡地とか坑道とか、割と残ってるみたいだぜ」
縁に膝を立てて眼下を覗くヘルキオが、誰にともなく、まあ恐らくは私に向けてそう言った。
「ゴブリンはすばしっこくて苦手だけど、こいつらは体がおっきいからなぁ……」
手で庇を作って底を見下ろすテルが、嫌そうに口をへの字に曲げる。
その隣で眉を顰めながら、爛々と光る瞳を俯かせるルーシュを横目に見て、それから私もついっとその視線を辿って言った。
「……コボルド」
灰色の分厚い体皮を纏う、豪脚の巨人。
その貌は毛を刈り落とした狼のそれで、しかし耳は子鼠のように細くて小さい。
蜥蜴のような長い尻尾を持つが、鱗ではなく短い毛並みに覆われている。
見える限り、数は三匹。
各々が槍、斧、剣を両手で持って、何をするともなく背中合わせで固まっていた。
黄濁した眼は既に私達を捉えている筈だが、唸りながらも仕掛けてくる様子はない。
「ふうん。図体はあるが、取り囲めば殺れそうだな」
「ダメだ。この地形じゃ追手を撒けない。圧し潰されるぞ」
「おいおいセルスよ、そいつは逃げ腰が過ぎるぜ。見ろ、あいつらビビッて動かねぇ。俺がまとめてどっしり防いでやるから、お前らは一匹ずつ仕留めてくれりゃあ──」
背に掛けた大剣の柄を握るブリードが、思わず言葉に詰まった。
立方体ごとに少しずつ採掘していった事が窺える角の多い壁、そこに空いた洞窟から新たなコボルドが二匹這い出してきたからだ。
セルスは表情を変えないまま。
「狼と同じだ。コボルドは群れで動く。奴らは斥候。唸り声を聞きつけて、他の兵隊も集まってきてる」
「じゃあどうするよ、このまま尻尾巻いてトンズラしろってんじゃねぇよな?」
「お前ひとりが突貫してる隙に、僕達で一網打尽にするのはどうだ?危なくなったら置いて逃げれば、さぞいい足止めになるだろう」
「てめぇ……っ」
掴み掛ろうとするヘルキオを、ブリードが慌てて止めた。
「どうどう、落ち着けって。うちの参謀の口が悪いなんて、いつもの事だろ?それよりセルス、本命の策は?」
先を読んだ男の目線に、鼻を鳴らして腕を組んだ少年は、跳ねた髪を風に揺らしながら呟いた。
「決まってるだろ。穴蔵から釣り出してやるのさ」
“九段鉱”は文字通り、外縁から底に至るまでに、九つの段差を経る事から付けられた名称だろう。
その光景は遠目に見れば、段々畑とよく似ている。
ただ一つ決定的に異なるのは、階層間が断絶していない事。
つまり、螺旋を描く坂道を九周すれば、地下の平地に辿り着けるのだ。
そしてそれは、戻るにしても同じである。
──発走。
『要諦は四つだ。どうあっても、初手は正攻法になる』
──跳躍。
お腹と双丘に衣が張り付き、裾が腰裏にたなびいた。
向かい来る風圧になぶられる前髪が、視界の端をぱたぱたと掠める。
──左肩を沈ませる。
落下しながら、俯せから仰向けに寝返りを打った。
右肘から手首までが、胴に巻き付いてくる。
間もなく地表だ。
手近なコボルドが斧を振り被った。
『やれるか』
──顔、腰、肩の順に、振り返る。
「があッッッ!!」
再び下を見る体が、捻じれを一気に巻き戻す。
弾かれたように閃く銀弧は、重い刃が下ろされる前に柄棒を断ち、その先にある喉笛までも抉り飛ばしていた。