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(6)囮

「大学生2人で。1人は学生証を忘れたので…」


「いいよいいよ、2人とも学割で。」


「ありがとうございます。」


ビュッフェの後、玉砕前提でカラオケに行きたいと行ったが、あっさりと採用されてしまった。


「私は歌いませんけど、それでも良いのなら。」


一ノ瀬さんにはそう言われてしまったけど。


「今更だけど、今日の大学の授業は…?」


「私の場合、今学期の金曜は授業がありません。芽実さんに勉強を教えている水曜の午後も。自分で受けたい授業を選ぶのでそんなこともあります。」


「へえ…」


そんなことを話しながら、指定された部屋に到着した。


「いつも一番最初に歌う曲は決まってるの。」


幼少期、テレビで見て憧れていたアイドルの、その中でも一番好きな曲。


「これは『東京プリンセス』…このアイドルが好きなんですか?」


「小学生の時はね〜今のメンバーはあまり詳しくないけど。」


些細なことで感情が大きく変化して、すぐ泣いてしまう自分。そんな自分が嫌になるけど、その感情が誰かを助けられるかもしれないと、弱い自分を受け入れて前を向く歌詞だ。


小さい時はこの曲を歌う時の衣装と振り付けが特に好きだったんだけど、大人になってからその歌詞の良さに気づいた。


感想でちらりと一ノ瀬先生の方を見た。彼はカラオケの画面の方を向いていたが、なんだか気まずそうな様子だった。一ノ瀬先生みたいな真面目な人が、女性アイドルなんて興味ないよな、聴いてる方も恥ずかしいよな…って少し反省した。


「次、一ノ瀬先生歌いますか?」


「歌わないって言ったでしょう。芽実さんのご自由に。」


「はーい…」


あまり楽しくなさそうな彼に忖度して、次は洋楽を選択した。彼が作ったプレイリストに入っていた、抜き打ちのディクテーションで課題になった曲。


きっとこの勉強が無ければ、わたしは洋楽を聴くことはなかった。でも一ノ瀬先生厳選の曲を聴いて、海外の曲も良いなって、わたしの日常に洋楽が溶け込んでいった。ディクテーションで何回も聴いたから、なんだか歌えている気がした。


「ふ〜どうです?この前テストした曲ですよ。」


「“think”の発音が少し間違ってますね。」


「っ…!しょうがないじゃないですか、今日初めて歌ったんだもの!!」


もはや彼のための選曲だったのに、喜ぶどころか、ダメ出しされてしまった。


「でも、歌はとてもお上手です。私が歌う時間を削ってでも聴いていたいと思うほど。」


「えっ…?」


一度下げた後上げられて、急に感情が迷子になる。一ノ瀬先生の表情が心なしかいつもより穏やかで、それが一層私の気持ちを狂わせる。


「折角来たんですから、私に忖度せず好きな曲歌って下さい。それだけで私は楽しいです。」


「…ありがとうございます。」


あれから、時々洋楽を挟みつつ、女性アイドルの曲を歌い続けた。


「1時間半も休まずに歌いっぱなしでも、全く喉が枯れないのですね。」


「オーディションの時にも言われたの。声質だろうって。でもずっと立ちっぱなしだったからちょっと休憩します…」


背面から倒れ込むようにソファに座った。


「ドリンクのお代わり取ってきましょう。さっきと同じで良いですか?」


「うん、オレンジジュースで。あっ…」


ありがとうって伝える前に、彼は部屋を出てしまった。予約のないカラオケの画面は、流行りの曲のCMが流れている。


「ごきげんよう。私たち、東京プリンセスです。」


東京プリンセスのCMが流れ始めた。出演しているのは今の人気メンバーだろうが、どの顔も私はよく知らない。


「現在、東京プリンセスは3期生オーディション参加者を募集しております。応募は5月初旬まで。東京プリンセスの曲を歌ってくれたあなた、是非私たちの仲間になりませんか?」


その情報が脳に届いた瞬間、身体を矢で撃たれたような衝撃が走った。やりたいかどうかというより、脳に焼き付いて忘れられない感覚だった。


「失礼します。オレンジジュースが切らしていたので、りんごジュースにしました…芽実さん?」


部屋に戻ってきた一ノ瀬先生の声で我にかえった。


「ううん、なんでもない。あと3曲くらい歌って帰ろうかな〜。」


オーディションの後、自分だけスカウトが来ない中で、東京プリンセスが今新メンバーを募集しているのは親近感が湧いただけだ。そもそも、1人で外を歩くことができない状態でオーディションなんて受けられるわけがない。


カラオケを出た後、今日最後の目的地に向かった。今日は遊んでばかりで少しは勉強しようという目的と、たくさんお世話になって、たくさん心配かけた人達に今の自分を報告するために。


「おっ、芽実ちゃん!元気そうだね〜。」


「店長さん、ありがとうございます。ここで2時間くらい勉強したいなんて、無茶言ってすみません。」


「この時間はお客さん少ないから平気、平気。空いてる好きな席座りな。


オーディション終了後、2ヶ月間だけアルバイトをしていたカフェにやってきた。金曜日は授業の日ではないが、わたしはいつもの勉強を、一ノ瀬先生は大学の課題を一緒にやることにした。わたしが質問したくなったら、いつでも声をかけていいらしい。


彼が持ってきたのは「六法全書」と背表紙に書かれた使用感のある分厚い本と、無地に「刑法判例集」とだけ表紙に印刷された本。どちらも難しそうで「読んでみたい」とは思わなくて、法学部を受験することはないだろうなあと考えながら現代文の問題を解いた。


「はいお待たせ。芽実ちゃんはアイスココアで、家庭教師さんはホットコーヒーね。」


「ありがとうございます。」


広げていた教材を少し避けて、飲み物を受け取った。ビュッフェの時同様、一ノ瀬先生はコーヒーを砂糖もミルクも入れずに啜る。たった3歳差なのにクリームが山のように盛られたアイスココアを頼んだ自分に比べて、彼はずっと大人に見えた。


「大学受験するんだって?すごいじゃないか。家庭教師さん、芽実ちゃんの調子はどうだい?」


「芽実さんは物覚えが良い上に、人一倍堅実に努力を重ねているので、教え甲斐があります。」


「一ノ瀬先生…?!」


一ノ瀬先生が私のことをそんな風に思ってくれているなんて知らなかった。わたしは制限をかける必要がある程SNSにのめり込んで、頑張り甲斐がないと駄々こねて、かっこ悪いところしか彼に見せていないのに。


「そうだよなあ、芽実ちゃんは頑張りやさんだから、何にでもなれるよ。大学生になったら、またこのカフェでバイトしたって良いんだから。」


「ああ、それは…」


わたしが返答する前に、店長さんは席を去っていった。ここにいるみんなはわかっている。それは叶わぬ夢だと。


一ノ瀬先生はこちらを気にする様子もなく、自身の勉強を進めている。頭のいい人は集中力もすごいなあと、自分も負けじと現代文の問題を解き進めた。最後の問題恒例の“筆者の意図を汲み取る問題”でつまづいて、声をかけようとした。


「一ノ瀬先生、質問していいですか?」


「はい、何でしょう。」


「最後の問題、多分正解はAの“インターネットの普及によって得られる経験が増えたことを前向きに捉えている”だと思うのだけど、選択肢にはないけど、インターネットの画像や動画だけじゃなくて自分で足を運んで自分の目で見て学ぶように言ってるように感じて…」


「その問題の模範解答はAで合っています。ただ、抜粋されたこの文章の続きには芽実さんが仰ったような論述が展開されていますので、その感覚は正しいです。芽実さん、鋭いですね。」


「いや、そんなことはないです…」


否定の言葉と共に、目を落として問題集の続きを見た。


その時、突然一ノ瀬先生が呼び鈴を押した。


「芽実さん、絶対に後ろを振り向かないで下さい。」


「えっ…?」


一ノ瀬先生の目が釣り上がり、眉間が寄ってしわができている。その見たことのない表情に困惑しているうちに、店長さんがやってくる。


「どうしたんだい?」


「店の外からこちらを覗いている、20代後半の男性がいます。店長さん、ご存知ですか?」


その言葉に、身体が凍りつきそうな程の恐怖が蘇った。手が震えて力が入らず、持っていたシャープペンシルが床にぽとりと落ちる。


「ああ、きっと例のストーカーだ。なんとか捕まえられないか警察に掛け合っているのだけど、どうもうまくいかなくて…」


「そうですね、この手の犯罪は逮捕が難しい傾向だと私も理解しております。現行犯であれば逮捕できるのですが…」


一ノ瀬先生が判例集に目を落とした。法学部で学んでいる彼がそう言うなら、以前の警察の対応も特別辛辣ではなかったということを察する。


恐怖で固まった身体に力を込めて、声を出そうとした。それでも掠れたような声しか出なかった。


「…現行犯だったら、逮捕できますか。」


「そうですね…芽実さん、まさか…?!」


一ノ瀬先生の目がカッと見開く。


「わたしが(おとり)になれば、逮捕できますか。」


「駄目です。芽実さんに危険が伴います。」


「じゃあ、ずっとストーカーに怯えながら生きろ言うんですか!」


一ノ瀬先生の声圧に負けないくらい、喉に力を込めて声を上げた。


「今日は一ノ瀬先生がそばにいて、それでやっと外出できましたが、1人で出かけられるようになりたいんです。だって試験も1人で受けにいくものでしょう?ちょっと触られたり怪我するくらいでそれが叶うなら…わたし…」


身体は恐怖で思うように動かないのに、無理矢理声を出したから、酸欠になって呼吸が苦しくなって、話の途中で声が消えた。


「…わかりました。まずは警察に相談しましょう。店長さん、よろしいですか?」


「ああ、できることなら協力する。」


一ノ瀬先生が席を立ち、店長と一緒に控えに向かって行った。入れ替わるように主婦のパートさんがやってきて、窓側を見張るようにテーブル拭きを始めた。


「お久しぶり芽実ちゃん、今日も可愛いわね。」


「あ、ありがとうございます…」


「こっちは、大丈夫よ。リラックスしてちょうだい。」


「はい…」


15分後、一ノ瀬先生が戻ってきた。それと同時に、店長に連れられて2人の体格のいい男性が入店してきた。


「顧客のふりをしていますが、あれは警察です。控えにも待機しています。」


コップを口に近づけて、口唇の動きが見えないように彼は話す。


「私と店長さんが席を立って控えに向かおうとした後、犯人は店に入ろうとする素振りを見せました。しかし、さっきの女性の店員が芽実さんの元に向かうのを見てやめました。…鋭い芽実さんなら、今からの作戦はお分かりですよね?」


ただ真っ直ぐ彼を見つめ、小さく頷いた。


「今から3分後、私は席を外し、入り口から芽実さんの席まで、誰もいない状態を作ります。そして、犯人が店に入り芽実さんに近づこうとしたところを警察が捕えます。芽実さんと接触する前に捕えます。ただ…」


机に置いていた六法全書を、私の方へスライドさせた。


「胸元に抱えておいて下さい。これが一番分厚くて、万が一のことがあっても防御力が高そうなので。」


一ノ瀬先生はそう言って席を去った。差し出された六法全書を、それに抱きつくように身体で握りしめた。読み込まれたこの本が、今はそばにいないけど彼が守ってくれるような温もりを感じた。


勢いよく扉が開く音がした。パートさんが声をかけるが、それを無視して近づいてくる足音。何か叫んでいるような声は、恐怖で埋められたわたしの脳では整理できなかった。陽の光が人影に遮られて視界が暗くなった。目を閉じて、ギュッと六法全書を抱きしめた。


「そこまでだ!」


すぐに陽の光が私を照らし、視界が明るく蘇った。身動きを封じられたストーカーには手錠がかかり、警察に連れられて店を出た。


「芽実さん、大丈夫ですか…?」


いつの間にか隣に、一ノ瀬先生が立っていた。わたしが胸に抱えていた六法全書を手にとって、自身の鞄にしまった。まだあの温もりを手に持っていたかった。そんな寂しさに近い感情が手に残った。


「よく頑張りましたね。」


わたしと目を合わせてそう言った彼の顔は、優しげに微笑んでいた。緩んだ目元。少し上がった口角。これほど顕に“慈しみ”の感情を顕にした彼の顔を見るのは初めてだった。


「後でお母様がお迎えにいらっしゃいます。今日はゆっくりと休んで…っ、芽実さん?!」


寂しさを埋めたかったのかもしれない。恐怖を中和したかったのかもしれない。頑張りを誉めてほしかったのかもしれない。ただ、甘えたかったのかもしれない。理由を考える前に体が動いた。わたしは席を立ち、一ノ瀬先生の胸に飛び込んだ。


「先生っ…」


「芽実さん!店員さんみんな見てますし、もうすぐお母様もいらっしゃいます。だからおやめください…!」


そんなのわかってる。だけど、わかっていてもこの手を離せなかった。理屈でも感情でもなく、本能からこうすることを選択していた。


「…これじゃあ“僕”まで逮捕されてしまいますよ。お母様に通報されて。」


「気にすることないじゃないか。3歳差なんて大人になってしまえば誤差だよ。」


店長さんがあっけらかんと笑う声が耳に入り、一ノ瀬先生のため息がわたしの頭上に当たった。結局、お母さんが店に到着する直前まで一ノ瀬先生から離れることはなかった。


翌日、犯人のことを警察から聞いた。


犯人のスマホからは、わたし含めオーディション参加メンバーの盗撮写真や、デビューメンバーへの誹謗中傷が投稿されたSNSが発見された。盗撮はされていなかったが「彼氏がいるなんてアイドルの自覚がない、説教してやる」という文言の投稿の下書きがあったらしい。


逮捕までしても、起訴になる例はさらに少ない。事件の日、一ノ瀬先生が言っていた。犯人は2ヶ月前からこの地域に移住してきたが、今後釈放された際には実家に戻り両親の監視の元で生活するとのことだった。それが聞けて、わたしはもう満足だった。二度と関わることがなければ、それでいい。それだけ望んで、細かいことは両親と警察に任せてしまった。


さらに翌日の日曜日。勉強の休憩に久しぶりに自転車に乗った。頬とすれ違う風はアルバイトの通勤の時より暖かかった。15分程漕ぐと目的地に到着した。


一ノ瀬先生が勤めている塾。引きこもりの大きな原因の1つが消えたから、そのうち自習室に通ったり、他の同級生と一緒に授業を受けたりするようになるのだろうか。それに…


「東京プリンセスの曲を歌ってくれた貴方、是非私たちの仲間になりませんか?」


あの日、あのCMが頭に焼きついて離れないほどアイドルに未練があることを自覚した。こうして1人で出かけられるようになった今、もしかしたら…

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