(5)助手席
「今更だけどさ、お母さんは心配じゃないの? 男の人と2人でおでかけなんて。」
翌週の金曜日。久しぶりに、仕事に行くお父さんを見送ることができる時間に起床した。朝ごはんのトーストを頬張りながら、横でお化粧をするお母さんに声をかけた。
「そんなこと心配しなきゃいけない人なら、最初から家庭教師として雇わないわよ。」
人に会うのが怖い状態だったわたしに、それでも会わせようとした人だ。お母さんも相当探して吟味して考えて、会わせるまでに至ったはずだ。
「それに、雇う前から忠告してあるわ。娘に変なように触ったら殺すってね。」
冗談っぽくお母さんは言ったが、本当に彼に言ってそうだと思ってしまった。
バイトを辞めた日以降、お母さんとちょっした買い物に行く以外は、はじめての外出だ。オシャレした方がいいかと、久しぶりにメイクポーチを取り出した。しかし、普段はすっぴんで授業を受けているのに、今日だけメイクしても彼に呆れられるだけかなと思ってしまって、結局日焼け止めと色付きリップしか塗らなかった。でもそれだけだと物足りなくて、横髪を編み込んでバレッタで留めてみた。
「あら、可愛い。」
私の髪型を見るなりそう言ってくれたお母さんと一緒に玄関を出る。あと10分で彼が自宅まで迎えにきてくれるはずだ。
「お母さん…先月はたくさん仕事休ませちゃって、ごめん。」
私が引き篭もっている間、ずっとお母さんは仕事を休んでそばに居てくれた。最近やっとそれに申し訳なかったと気づいて、やっと今日それを伝えることができた。
「謝らないで。お母さんはね、芽実のために働いているの。芽実の夢を応援できる十分なお金を稼ぐためよ。でも肝心の芽実が苦しんでいる時に、必要なのはお金ではないでしょ?」
「お母さん…」
「今泣かないで。もう一ノ瀬くん迎えに来るわよ。」
少し潤んだ視界には、一ノ瀬さんの白いセダン車がこちらに向かってくるのが映る。
「芽実、楽しんできてね。」
「お母さんも、お仕事頑張ってね。」
白いセダン車は自宅の前で停車し、助手席に乗るように窓ガラス越しに手招きされた。
お父さんの車はいつもお母さんが助手席に乗る。だからお父さんと2人で出かける時すら後部座席に座っていた。いつもより近いフロントガラスや、少し広いフットスペースが落ち着かない。
「お待たせしました。」
アクセルが踏まれる振動と共に、聞こえた彼の声の方に目を向けた。既に彼はハンドルを握り、フロントガラスの方を向いている。
「…待ってないよ。」
時刻は8時51分。約束の時間より10分近く早い。いつもそうだ。授業でも10分前には家に来てくれて、その時間を勉強の質問や相談に充ててくれるのだ。
「目的の場所が開店するまで1時間ありますので、少し寄り道しながら向かっても良いですか?」
「はい…運転お願いします。」
お父さんやお母さんよりもずっと安全運転で、だけど2人よりブレーキを踏むタイミングがほんの少し遅くて、そんな繊細で不安定な運転が久しぶりに外出する私の緊張を増幅させる。
「車、いつ買ったの?」
「約2ヶ月前、家庭教師としてこの家に通う少し前ですね。」
「すごいお金かかったでしょ?」
「とある目的があって、大学入学時からこの仕事に勤しんで貯金していました。しかし、お金が必要ない方法で目的を達成してしまったので、次に欲しかった車の購入に踏み切りました。まあ、親の新車の資金を一部援助する代わりに元々所有していた車を譲り受けたので、普通に買うより安く済みましたが…」
「いいなあ、車…」
自転車でアルバイトに向かう際に盗撮されたことを思い出した。車があれば、撮られずに済むだろうか。そうであれば、18歳になったらすぐにでも運転免許をとりたい。残念ながら今の心理状態では車校に通えないだろうけど。
「左手にあるのが、私が講師を勤めている塾です。」
こぢんまりとした白い外壁の平屋と窓越しにすれ違う。
「個人経営で、1クラス10人までしか対応できません。席は少ないですが自習室もあって、授業時間外でも質問があれば塾長やバイトの塾講師が対応してくれます。」
車で5分程走った場所、自転車でも15分ほどで行けそうだった。そのうち、私も通えるようになるだろうか。
「大学は、ここからさらに10分程度進んだ先の、山の上にあります。折角なので、敷地を車で一周してから向かいましょう。」
信号が青に変わり、交差点を左折する。ここからは大通りの環状線。スピードが徐々に加速していく。このスピードに任せて、わたし中に溜まっていた不安や自虐心を振り捨てたいと思った。せめて今日だけは、全てを忘れて楽しみたかった。
「大学名が彫られた石像が門代わりで、手前の階段を登った先にある建物が、共通教育棟です。学部に関わらず受講する共通教育はここで開講されます。」
はじめて訪れた卯辰大学の印象は、西洋風赤煉瓦の建物と緑葉が生い茂った木々のコントラストが率直に綺麗だと思った。高校までの雰囲気とは大きく異なる。
「さらに登っていくと、人文学棟があります。1階に講義棟があり、2階からは文学部、国際学部、経済学部、教育学部、そして私のいる法学部のゼミ室があります。」
共通教育棟と同じ赤煉瓦の建物だが、直方体だった共通教育棟とは異なり、一端の壁が曲線を描く構造となっており、まるで学問の自由さを表しているようだった。
「Uターンして、行きと違うルートから山を降りていきます。左前に見えるのが、理系の人たちの研究室がある建物です。」
「え?!めっちゃ新しい建物!!」
思わず窓に手を当ててその建物を凝視した。朝陽の当たる向きがガラス張りになっていて、入り口付近は吹き抜け構造の階段があるのが見えた。
「赤煉瓦の建物はバブル期に建設されたそうですが、こちらの建物は約10年前に建設されました。やっぱり新しい方が魅力的ですか?」
「うーん、たしかに…でも文系の学部にするって決めちゃったから…」
新しい建物はいくらでもあるけど、あのアンティークな赤煉瓦の建物はこの大学だけだ。そう思うと、人文学棟でキャンパスライフを送るのも待ち遠しく思えてきた。
「これで大学の敷地は一周しました。県外出身の学生も多く在籍していて、彼らのほとんどは山の麓で一人暮らししています。私もその1人です。」
「一人暮らししてるの? じゃあ出身は?」
「お隣の県ですよ。」
「えっ…」
隣の県特有の訛りが彼の声にはなくて、てっきり地元の人だと思っていた。約一ヶ月授業を受けてきたのに、わたしは彼自身のことをちっとも知らないことに、はじめて気づいた。
「隣の県には法学部がある大学はありません。だから、両親にお願いして卯辰大学を受験しました。ある程度節制し、このアルバイトもしていますが、それでも学費や家賃を振り込んでくれる両親には頭が上がりません。」
「そっか…大変だよね…でもいいなあ、一人暮らし。」
「芽実さんはご自宅から通える範囲に学部の種類が豊富な卯辰大学がありますので、一人暮らしの必要はないかと…」
「で、でも…!卯辰大学は偏差値高いからさ、もう少し偏差値の低い隣の県の大学に通うとかは…」
「一人暮らしは、自分で掃除も洗濯も炊事もして、その上で勉強するのですよ。芽実さん、できますか?今ご両親のお手伝いを何かされてますか?」
「うっ…」
また論破されてしまった。こうやって意見が食い違った時、彼に勝てたことは一度もない。私の意見や言葉が必要な時はそもそも論じようとせず話をしっかり聞いてくれるから、論破するということは本当に卯辰大学に入学してほしいと思ってくれているのだろう。言い返せなくなったわたしは、そう前向きに捉えることにした。
「到着しましたね。意外と空いてそうで良かったです。」
私がリクエストしたのは、ホテルに併設されているレストラン。宿泊者以外も利用可能で、直近だと高校合格のお祝いで家族で行った。それは夕食だったから、お昼限定のビュッフェにずっと行ってみたかった。
「ビュッフェ、すごい人気だから開店してすぐ並んだ方がいいってお母さんに教えてもらったんだけど…すんなり入れたね。平日だからかな。」
周りは50代前後の女性がほとんどで、若い男女のわたしたちは異質なように思えた。しかし、それほど気にならない。みんな、テーブルの前の料理に夢中だったから。
「随分取ってきましたね。しかも肉料理ばかり…」
ステーキ、骨付きチキン、ローストビーフ、ローストポーク…ひたすら肉料理を集めてお皿に盛った。
「これが食べたかったんですっ…!オーディションの時は、顔が浮腫むからって減塩で薄い味のサラダチキンと温野菜ばかり食べてて、たまに差し入れもらっても甘いものばかりだったし…オーディション終わってしばらくは体調崩してて、やっとお腹いっぱいお肉が食べれるんですっ!!いただきますっ!」
ついオーディションの愚痴を言いそうになって、そんな自分の口にステーキを一切れ入れて言葉を抑えた。
「ん〜美味しい!」
肉の旨みが口全体に広がる。しっかりと振られた岩塩が、肉の油と調和してより強く旨みを感じる。
「好きなものを好きなだけ食べれる、それも十分幸せですよね…」
私の愚痴を受けてか、同情するような返答をして彼も箸を持った。彼は何を取ってきたのだろうと皿に目をやると、その几帳面さに驚愕した。
「一ノ瀬先生…まるで給食みたいな配膳の仕方ですね…好きなものだけとればいいのに…」
主食、肉、魚、野菜を均等に皿に並べ、汁物のポトフもきちんと添えられている。茶色しかない私の皿とは大違いだ。
「1人暮らしをして自炊を続けた結果、肉も野菜も満遍なく食べるのが一番だと実感したんです。健康面でも、味覚の面でも。肉ばかりだと飽きますよ。」
彼の言う通り、味が濃くて脂っこいものばかりとってきたせいで、食べているうちにお腹が重くなって少し舌がピリピリしてきた。
「正直、もうデザートも食べたい気分でしょう?食べ切れない肉料理はこちらで引き取るので、新しい料理とってきていいですよ。」
「あ、ありがとうございます…」
彼に言われるがまま、料理が残った皿を彼に渡して席を立った。季節限定とポップに書かれた苺のデザートを皿に取りながら、あることにふと気づいた。
「もしかして、間接キス…?」
急に心に焦りが生じて、急いでテーブルに戻ったが、既に一ノ瀬先生は自分の皿の料理も私の皿の料理も完食していた。
「どうしましたか、駆け足で戻ってきたかと思えばそんなに皿を凝視して。」
彼の様子はさっきと全く変わっていなかった。そもそも一度口をつけた料理は食べて、箸で触ってない料理だけ渡した気がするし…
「あ、いや…一ノ瀬先生痩せてるのにたくさん食べるんだなって…」
自分の小さな葛藤は杞憂だったと言い聞かせて、ショートケーキの苺を口に放り込んだ。平然と食後のコーヒーを啜る彼を見ながら食べた苺は、なんだかいつもより酸っぱく感じた。