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(4)ご褒美

満開に咲き誇る桜を、今年の私は窓から眺めることしかできない。そんな季節に、わたしの勉強漬け生活が始まった。


水曜日と土曜日の午後、一ノ瀬さんに来てもらって、国語・英語・数学・社会のうちどれか2科目の授業をしてもらう。授業の終わりには、理科を含めた全ての科目の宿題を出される。それを次の訪問までに終わらせる。


久しぶりの勉強は簡単とは思えなかったし、宿題は決してすぐ終わる量ではなかったけど、それでも高校に通っていた時より気楽に向き合えている自分に気づいた。


高校と違って順位付けも赤点もなく、誰かと比べられたりできないことを晒しあげられたりするこもない。英語を話すためのペアワークも現代文で登場人物の気持ちを考えるためのペアワークもなく、仲間探しの苦痛やうまく話せない疎外感も感じない。一ノ瀬さんがわたしだけに向き合ってくれる。この時間が意外と心地よかった。


「この動画の視聴が、本当に地理の勉強になるの?」


地理の宿題では、動画配信サイトに投稿されている世界中を旅する配信者の動画の中から、北欧に関する動画2本を視聴することが課された。


「塾でも、一部の私立高校でも実際に行われている勉強法です。教科書を丸暗記するだけでは、近年の共通テストは解けません。教科書の知識を活かしつつ、まるでその地に足を踏み入れたことがあるように考察する力が必要です。その上では、このような動画は便利です。」


動画配信サイトにペアレンタルコントロールをかけられた時はどうしようかと思ったけど、この旅動画みたいな今まで見たことが無かった動画に出会えるのも新鮮で面白くて、制限されているという意識は徐々に薄れている。


「私の年度の共通テストでは、北欧のアニメキャラクター3種のうち、フィンランドを舞台としたものを選択する問題が出ました。…私は知らず、当てずっぽうで回答しました。もし、私が受験生の時にこの動画を見ていれば解けたのに…!」


そう話す一ノ瀬さんは、目に悔しさを宿し、声の圧も強くて、珍しく感情的になっている。よっぽど悔しかったのだろう。


「ふふっ。」


「なんですか、常識的な問題を間違えた私を馬鹿にしているのですか?」


「いや、一ノ瀬さんも悔しいって思うことあるんだなって。完璧人間だと思っていたので。」


それを聞いた彼は、いつもの無表情にすっと戻っていった。我に帰ったのか、それとも顔には出にくい別の感情を持ったのか、私にはわからなかった。


「その動画、ただ見るだけじゃ駄目ですからね。次回の授業で北欧に関する小テストを解いてもらいます。教科書と照らし合わせながら、できるだけ知識を吸収するように見て下さい。」


「えー! 結局教科書読まなきゃダメなんじゃん!!」


楽にできる勉強方法なんてないのだと、改めて思い知らされた。


動画配信サイトを活用した勉強法は、地理だけではなかった。


「洋楽プレイリストがあるのなんで? 一ノ瀬さんの趣味?」


「英単語を比較的“聞き取りやすい”楽曲を抽出してまとめました。英語の試験ではリスニングもあります。英語が得意な塾講師の同僚が、洋楽をたくさん聞いて英語力に繋がったと聞いたので、試験的に。」


「ほえー」


どれも再生回数1億回以上の超人気曲で、わたしが知っている曲がいくつもある。しかし、そういう目線で洋楽を聴いたことがなかったので、まさに目から鱗だ。


「ちなみに、次回の授業ではこの中から1曲ディクテーションしてもらいます。」


「でぃくてーしょん…?」


「曲を聴いてもらい、歌詞カードの空欄に当てはまる英単語を記入してもらいます。」


「えー!そんなのできないよ!」


「わかるまで何回も聴いていいですし、それでもわからなければ最初の一文字目などヒントも与えます。出来ないから怒るようなことはしません。ただ、次回の授業までにプレイリストの曲の歌詞を全部丸暗記するのはやめて下さいね。」


「丸暗記なんてするわけないじゃん。英語は宿題が多いのに…」


英語は単語と文法の暗記をそれぞれ宿題として出されている。単語は、ミニゲーム形式で学べる英単語帳アプリをダウンロードし、1日1ゲーム10単語分を毎日やって、進捗画面を一ノ瀬さんに見せることが課題である。単語はまだ楽だが、文法が大変なのだ。授業までに文法テキストの例文5つを暗記し、英語の授業の最初に正しく書けるか小テストをするのだ。


「えーん、わたし出来ないよ〜!!」


初めての小テストを返却された。単語のスペルミスや冠詞が抜ける等の細かいミスが目立ち、一言一句合っている回答は一つも無かった。先が思いやられる。


「オーディション中は勉強してこなかった中でこれは上出来です。そんなに意気消沈しないで下さい。」


「宿題いっぱいだし、それぞれどれくらい頑張ればいいかわからないよ! 目標は高卒認定試験と大学入試の合格だけど、だいぶ先だから今の勉強がどれくらい目標に近づいてるのかもわかんないし!」


一ノ瀬さんはどの授業も丁寧に準備してくれて、わたしに真摯に向き合ってくれていることは重々実感しているのに、バツ印だらけの答案を見てつい駄々こねてしまった。


「あ、ごめんなさい…わたしがもっと努力しなきゃいけないって話ですよね…」


「いえ、芽実さんのご意見は的を得ていると思います。」


「えっ…」


子供みたいに駄々こねて注意されるかと思いきや、予想外の言葉が返ってきて、こっち側が萎縮してしまう。


「そもそも、芽実さんだけのための授業です。芽実さんが取り組みやすい環境を作るのも私の仕事です。貴重なご意見ありがとうございます。」


一ノ瀬さんは最初からそうだったじゃないか。わたしが何を言っても、目標のために最善の環境を提示してくれる。明瞭かつ論理的。感情的な叱責や励ましはしない。その信念は揺らがない。


「小テストや宿題に合格点を設けます。英語の文法の小テストは、出来るだけちゃんと定着してほしいので80点を。地理の小テストは難易度が高い問題も多く解説ありきで理解すればいいので50点を。数学の授業の前に事前に解答しておく過去問プリントは、小問3つのうち2つ合っていれば受験でも活きるので60点をボーダーとします。」


一ノ瀬さんはそう説明しながら、要点をノートの表紙の裏に記入していく。


「おお、それなら頑張れる…かも…」


急に言い出した幼い我儘なのに、こんな即興で私の求めているものをくれる、彼は相当優秀な人なのだと改めて実感した。


「まずは合格が20個分貯まった際に、何かご褒美を用意いたします。詳細はまた後日、ご両親と相談させていただきます。…これなら、少しは改善できたでしょうか。」


「頑張ります! 流石一ノ瀬先生!!」


それが原動力となる自分の心が幼いことは自覚しつつも、“ごほうび”という4文字を聞くと、俄然やる気が湧いてきた。彼の期待に応えたい意志を、ピンと伸ばした背筋で表した。


彼の目標設定が甘かったのか、それともわたしが期待以上に頑張ったからなのかわからないが、目標設定から3週間後、5回目の授業で20個の“合格”を達成した。その確率にして8割だった。


「ねえ一ノ瀬先生、ごほうびって結局なーに?」


あの時、不意に彼を一ノ瀬“先生”と呼んだ時、一ノ瀬“さん”と呼ぶよりもなんだかしっくり来て、あれから彼のことをそう呼んでいる。


「そうですね…まさかこんなに早く達成されるとは…いや、素晴らしいことなのですが…」


普段は顔に表情が出ない一ノ瀬先生も、今日は焦りの色が顔に現れている。しかし、わたしの気のせいでなければ少し嬉しそうにも見える。


「ご褒美か…ゴールデンウィークに家族で芽実の好きなもの食べに行くか?」


土曜日だから家にいたお父さんが、ソファに腰掛けながら話に入ってきた。


「それはダメよ、お父さん。最近は芽実も体調が良くなってきたけど、連休中は人が多いから芽実の負担も大きいわ。」


お茶を運んできたお母さんも話に加わった。お母さんの話はその通りで、中学や高校の同級生とばったり会ったらと思うとあまり乗り気ではない。ストーカーの件も未解決だし。


「じゃあ、出前でお寿司でもとろうか。」


「ねえ! お父さんが美味しいもの食べたいだけでしょ!」


「ハハッ! バレたかー。」


こんな食い意地張ってるお父さんとの会話を一ノ瀬先生に見られてると思うと、恥ずかしくてじわじわと身体が熱くなってきた。普段は、必要な時は叱り、必要な時は褒めてくれて、甘やかされてはないけどずっと気にかけてくれている良きパパなのに。


「ところで一ノ瀬くん。君にも感謝しているんだ。あんなにボロボロだった芽実に、生きる目標をくれて、ここまで元気になって、こんなに頑張れるようになったんだ。」


お父さんは立ち上がって、一ノ瀬先生の肩を叩きながらそう言った。初めは男性の家庭教師を雇うことに抵抗を感じていたお父さんだけど、今では随分彼のことを気に入っている。


「とんでもないです。全ては芽実さんのポテンシャルと真面目な性格ゆえです。」


嫌だったら言ってくれれば…と思ったけど、彼は表紙の変化が乏しくて、嫌かどうか読み取れなかった。


「ハハッ! そんな一ノ瀬くんにもボーナスをあげよう。」


お父さんは茶色い長封筒を彼の胸に押し当てた。中に何が入っているか、私でも容易く想像がつく。


「え! 先生だけずるい!」


「こんなの、受け取れません…!」


流石の一ノ瀬先生も眉を八の字にして、長封筒を父に返そうとした。


「これは僕から一ノ瀬くんへのお願いだ。次の授業は、このお金を使って芽実を一度外に連れ出してくれないか。」


ずっと笑っていた父の声が、急にトーンが変わった。その顔を見ようとしたけど、椅子に座る私からは背を向けて立っていて、よく見えなかった。


「まだ芽実は休日外に出ることができない。でも受験のためには、少しずつ慣らしていかなきゃいけない。それに、年が近い君だからこそ、僕ら両親にはできないこともできるかもしれない。」


「それなら、承知しました。」


彼は差し出していた長封筒をポケットに入れた。


「芽実さん、次回は課外授業ということでよろしいでしょうか?」


「は、はい!」


反射的に返事してから気づく。おでかけ、一ノ瀬先生と、男の人と、2人で…


これってもしかして、デート…?!

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