(2)夢や目標
「ムリムリムリ、そんなのできない!」
「芽実!」
込み上げた動揺をそのまま身体の外に吐き出した。急に立ち上がって叫んだら、目眩がした。ふらついて倒れそうだったところを、お母さんと彼が左右で支えた。
「だっておかしいよ、わたし高校辞めてるんだよ? それなのに大学受験しろなんて…」
「芽実、落ち着いて。」
呼吸がうまくできなくて苦しかったが、身体を震わせて必死に訴えた。彼はわたしを馬鹿にしてるのかと思った。荒ぶるわたしをお母さんは必死に宥めるが、そんなの聞いていられなかった。
「申し訳ありません。簡潔に話してしまったが故に、誤解させてしまったようですね。今からちゃんとヒアリングした上で、これからの方針は決定いたします。」
彼はそう言ってわたしたちに頭を下げた。相変わらず表情筋が1ミリも動かない彼を奇妙に思う。
「ごめんなさいね、一ノ瀬くん。こちらの椅子に座って。芽実も早く座りなさい。病み上がりなんだから。」
お母さんはそう言って、キッチンへ向かっていった。
テーブルの向かい側の椅子に彼は座る。普段はお父さんが座っているそこに初めて会った人がいて、いつもと目が合う高さが違って気まずい。
「芽実さんの事情は大まかには伺っておりますが、改めて私から幾つかご質問してもよろしいでしょうか。」
「はい…」
目線を落として返事をした。視界に入ったわたしの両手はまだ少し震えていた。向かい側ではガサゴソと鞄の中を探る音が聞こえる。
「まずは…芽実さん、甘いものはお好きですか?」
「えっ…」
思わず顔を少し上げた。近所の和菓子屋のいちご大福が視界の真ん中に現れた。
「最近の女子高生は何がお好みかわからなくて自分の好きなものを買ってきてしまいましたが、差し入れです。」
「えっ…」
表情ひとつ変えずにそんなこと言う彼が可笑しくて、自分の口角がほんの少し上がったのに気づいた。笑いそうになったのはいつぶりだろうか。
「…いただきます。」
苺大福が入った箱を手にとった時、自分の手の震えは消えていた。
「…美味しい。」
「…本当ですか?」
「美味しいです。東京で食べたどんな食べ物よりも。」
お母さんが作ってくれたお粥や、近所の和菓子屋がこの季節だけ売っている苺大福が、東京で食べた高価な食事や映えるお菓子よりもずっと美味しく感じた。
「…東京での食生活はどうでしたか。」
続けて一ノ瀬さんは質問した。
「公開オーディションの合宿の食事は、バイキング形式だったんです。でもあんまり食べれませんでした。自分の容姿を気にしなきゃいけなかったし、ずっとダンスの練習してて疲れてたからかも…。オーディションが進むにつれて、現役アイドルの方が差し入れでドーナツとかくれたんですけど、それもあまり…」
何を質問されるのかと怖かったが、苺大福からそのまま食事の話が続き、心が緩んで自然と口から言葉が出た。
「アイドルの方と実際にお話ししてどうでしたか?」
「それが、全然話せなかったんですよ…!合格したモモや後からデビュー決まったサクラはグイグイ行ってたんですけど、私は陰キャで自分から話に行けなくて、目も合わずに終わりました。元々こういう性格変えたくてオーディション受けたのに、情けないですよね。」
「陰キャって…そんな風には見えませんが…」
「いやいや、めっちゃ陰キャです。高校でも出身の中学ごとに集まりがちで、私は同じ中学の子がいなくてぼっちでした。高校はつまらなくて辞めるのもそんなに抵抗なくて…って、すみません。」
いつの間にか大きく話が脱線して、自分語りをしてしまった。そんな自分が恥ずかしくて、きゅっと身体が縮こまる。
「芽見さんが良ければ、続きを話してくれませんか。」
そう言った一ノ瀬さんの表情は相変わらず変わらないけど、私を見つめるその目は少しだけ柔らかく見えた。
「友達ができなくて、夢も楽しみもない高校生活を送っていたわたしは、現実逃避するように動画配信サイトを見ることが日課になりました。ある日、アイドルオーディション参加者募集の広告動画が流れてきて…小学生の時アイドルが好きだったなって、お姫様みたいなドレス着て歌っている子たちキラキラしてて可愛かったなあって思い出して。中学生になって部活や友達と遊ぶのが楽しくなってテレビ見なくなって忘れていたんですけど。広告を見た時、もしアイドルになったらあの子たちみたいになれるかなって、陰キャでぼっちの自分から変われるかなって思って応募しました。」
今日初めて会った人の前なのに、なぜかするすると自分の心の内を話してしまう。話していくうちに真っ黒でぐちゃぐちゃだった心の中が少しずつ洗われていくように整っていく。本当は誰かにこうやって話を聞いてほしかったのだとたった今気づいた。
「ま、オーディション受けて悪い方向に変わっちゃいましたけどね。それはお母さんから聞いてるでしょ?」
この気持ちを隠したくて、笑顔を作って自虐を口にした。
作り笑いを一ノ瀬さんに向けると、一ノ瀬さんは目を逸らしてまた鞄をガサゴソと漁りだした。今度は本や書類の束を取り出した。
「私は芸能界のことはあまり知りませんが、努力だけではどうにもならないことが多い世界だろうと、様々なメディアを見て認識しています。そしてそれは、芽実さんの方がよくお分かりでしょう。」
彼の言葉にぎこちなく頷いた。オーディションを終えた今、彼の意見には賛成だけどその意を示すのは負け惜しみみたいで抵抗があった。
「それに比べたら、受験勉強は単純なものです。適切な目標設定とノウハウの伝授があれば、あとは本人が努力するだけです。」
「でも、わたしは退学しちゃって…」
「高校を卒業しなくても、大学の受験資格を得る方法があります。」
私の言い訳を遮って、一枚の紙を差し出された。
「高校卒業認定試験…?」
「高等学校を卒業していない人が、高校を卒業した者と同程度の学力があるかどうかを認定する試験です。通常は国語・数学など最低でも8科目受験する必要がありますが…」
一ノ瀬さんが2枚目の紙を机に置いた。
「芽実さんは2年生の1学期まで高校に通われていたため、一部の科目は免除されます。」
そう言って、一ノ瀬さんは蛍光ペンを持った。
「例えば、国語、地理総合、歴史総合…」
科目一覧の右端に蛍光ペンでチェックを入れていく。蛍光ペンの滑る音が、テンポよく耳に入る。
「芽実さんが受験する必要がある科目は、公共と科学と人間生活の2科目となります。」
「2科目でいいの?!」
「落ち着いて下さい。」
また思わず立ち上がって声を上げてしまった。でも今のは絶望的な驚きではない。急に希望が見えた驚きだ。
「この2科目は、一般常識や時事問題など実生活に即した問題が多く出ます。直近で4月に出願、8月に受験となりますが、それでも合格は難しくありません。」
一ノ瀬さんから2冊の本を渡された。上の本の表紙には『1冊で合格!高卒認定〜公共〜』と書かれている。
「認定されれば、大学受験もできますし、専門学校にも通えます。選択の幅が広がるため、まずはこちらを受験することを強く推奨します。大学受験は強制はしません。ただ…」
鞄から出した中で、わたしに差し出していない最後の1部の書類を手にとる。ずっとテキパキしていたのになかなか渡さないその書類を、手を伸ばして引き抜きたくなる。そんなイタズラ心をぐっと抑えて彼の手を見つめた。
「芽実さん、今、夢や目標はありますか?」
「えっ…」
アイドルだと即答できなかった。オーディションに落ちて、スカウトも声がかからなくて、完全に自信を失っていた。もちろん他に夢や目標なんてなかった。今の自分をなんとか変えたいとは思うけど、何をしたいかまで思い浮かばない。気まずい沈黙がリビングに流れた。
「あくまで私の意見ですが、芽実さんの現状を鑑みると大学に通われることをお勧めします。」
ずっと出し渋っていた1部の書類をついに私に差し出した。
「高校までとは違い、大学では自分の好きな専攻を選び、好きな授業を受けることができます。大学に入ってからも、夢を見つけることができます。3日後にまた来ますので、それまでにどの学部に興味があるか考えて下さい。それが、本日の宿題です。」
渡されたのは、彼が通っている卯辰大学のパンフレットだ。
ちょっと待ってよ、卯辰大学受けろって言ってる? 県で1番偏差値の高い、国立大学だよ? 無理だよ!!
そう突っ込みたかったけど、その前に彼は椅子から立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。お見送りをする隙すらなかった。
「あらあら、もう行ってしまったのね。」
台所から戻ってきたお母さんがクッキー缶を開けた。甘くてちょっと乾いた香りがすっと鼻の中に入った。
クッキーを一枚口に入れて、卯辰大学のパンフレットを開いた。隣接する県含めても最も規模の大きい大学であるため、様々な学部がある。どの学部の学生もキャンパスの中でいきいきとしている様子が写真におさまっている。わたしも、こんな風になれるだろうか。
学部紹介の文字を1つずつ目で追っていく。しかし、自分がそこに通っている姿が想像できない。その学部に興味が無いからピンと来ないのではなくて、自分は何が興味があるのかわからないのだ。クッキーを口に入れないと読み進めることが出来なくて、次から次へとクッキーを頬張る。
「こら、それくらいにしなさい。」
そう言ってお母さんはクッキー缶の蓋を閉じて、台所に戻しに行ってしまった。
満腹感が後から襲ってくる。その時久しぶりに自分の状況を思い出した。突然ちょっと年上の男の人が家にやってきて、現状を変えましょうって言われて、そんなの疑心暗鬼になるはずなのに、なぜかあの時はすっと受け入れてパンフレットまで読んでしまっていた。これから私はどうなるんだろうか。せめてこれ以上悪い方向に変わらないといいな。それだけしか考えられなかった。血糖値が上がって満腹感が眠気に変わり、そのまま机に突っ伏してしまったからだ。