《前編》
アイリーンがいない。
幼い頃から私にはアイリーンだけだった。
楽しい時も辛い時も手を取り合いながら、互いの時間を共に過ごしてきた。
彼女さえ居れば、あとは何もいらなかったのに。
私が愛する彼女は、私に対する涙で頬を濡らしながらも私とは別の男の腕の中にいた。
彼女は私の手を取ってはくれなかった。
私は、選ばれなかったのだ。
あの男に肩を抱かれながら彼女が歩み去っていった先をいくら見つめても、彼女の軌跡は何一つ見つからない。
鋭い刃でズタズタに切り裂かれたような胸を押さえてみても、何も変わらない。
こんなにも痛むのに、血液が流れ出していないことが不思議にすら思う。
いつまでもここに立ち尽くしていても仕方がない。
そんなことが頭の隅で思い浮かぶのに、全てのことが虚ろうようで何も考えられない。
動かない身体。
痛む胸。
反らせない視線。
あぁ、彼女がいない。
「ちょっと、そこのお兄さん」
暗闇に塗り潰されそうな思考の中で、耳障りな音が鳴る。
「今にも死にそうな顔で突っ立てる、そこのお兄さん」
何も見たくないのに、何も考えられないのに、耳障りな音がまた鼓膜を揺らす。
「聞こえないの?まぁ、いいや。ちょっと付き合って」
耳障りな音の後に腕に何かが触れた。
その何かは、遠慮のない様子で私の腕を力任せに引く。
すると、動かなかった足が一歩、前に出た。
そこで、やっと視線を動かしてみた。
腕の先を見れば、黒髪の女が私の手を引いている。
「離せ。私に何の用だ」
嫌悪を顕に言葉を吐き捨てたつもりが、口から出た言葉は情けないほど掠れた声だった。
「なんだ、喋れるんじゃない」
「何の用だと聞いている。私に構うな」
「さっきまで暇そうに突っ立ってた男が何言ってんの。いいから付き合え」
なんて勝手な女なんだ。
そう思うものの、腕には力が入らない。
この女に引っ張られなければ、私は今もあの場所から動けずにいたかもしれない。
そう考えれば、僅かな反抗心も即座に消えた。
もう、何もかも、どうでもいい。
女に腕を引かれながら、私はただ、足を前に出すことだけに意識を向けた。
✽✽✽
「はぁ~ん。それで、大好きな幼馴染ちゃんは他の男のとこに行っちゃったわけか」
「……そうだ」
回らない頭で、ただ聞かれたことを肯首する。
グラグラと脳みそが揺れる感覚に、遂には座っている長椅子の座席に突っ伏してしまう。
なぜ、私はこんなところで身を投げ出しているのだ。
目の前の女が「試作品」と言って差し出した酒を飲まされた初めは、その酒の味の感想を述べていただけだった。
女が自営している店だという場所は、女が作った酒以外にも書物や雑貨が乱雑に置かれている。
その場所に置かれた長椅子は、雑多な店の割には違和感を感じることもなく、場の雰囲気に合っていた。
その上に座りながら、何も考えたくなかった私は目の前に酒を出される度に延々と飲んでいた。
店だと言う割には、店内には誰も居らず、私と私を連れてきた女しかいない。
ヴェルダと名乗った女は、私が酒に強いと分かるや否や度数の高い酒を次々に出してきた。
そう、私は酒に強いはずだ。
今まで、酒で酔い潰れたことなどない。
しかし、この女が作った酒が存外に飲みやすく、そして強い酒精が喉を焼くさまが、今の自分の胸の内を誤魔化してくれるようで、次から次へと手が出てしまった。
そんな私に、女は黙って酒を注ぐだけ。
だから、つい口が滑ってしまったのだ。
『アイリーン…』と。
女はそれでも黙っていた。
そこからだ。
意識が不明瞭になり、知らず知らずのうちに言うつもりもないことをボロボロと吐き出した気がする。
私はどうやら、完全に酔ってしまっていたらしい。
いや、今も不明瞭になる視界と口の軽さからみるに、未だ酔っているのだろう。
ヴェルダの相槌も巧みだった。
聞いていないのかと思えば、続きを促してくる。
そこには、私に対する同情も蔑みも見られず、また想いを否定されなかったことから、私は馬鹿みたいにこれまでのアイリーンと過ごしてきた全てを、想いも含めて口にしてしまった。…気がする。あまり、覚えていない。
グラグラと揺れる脳みそに瞼も重くなる。
長椅子に突っ伏したまま、思考が止まる。
「寝るなら足、伸ばせば」
そう言うと、ヴェルダは掛布を私に掛けた。
その時、フワリと酒とは違う女の香水の香りが鼻を掠めた。
私は香水の香りは嫌いだ。
アイリーンは常に香水とは違う、彼女自身の香りがしていた。
だからだろうか。
私は、元の対面に戻ろうとしていたヴェルダの腕を掴み、無理矢理長椅子に押し倒した。
アイリーンとは違う香り。
私の嫌いな女の香水の香り。
けれど、それは酒の匂いと合わさり、なんとも官能な香りに変わる。
ヴェルダの首元に顔を埋めて唇を寄せた。
アイリーンとは違う香り。
それを纏う女を抱けば、彼女の持つ香りを忘れることができるかもしれない。
いや、私は忘れたいのだろうか。
私の全てだったアイリーン。
彼女のことを忘れることなんて、できない。
忘れたくもない。
愛してる、愛しているんだ。
あぁ、なのに、彼女はいない。
このどうしようもない虚無感に耐えられない。
私はどうすれば良い。
彼女のためならなんでもした。
彼女への想いも何度も告げた。
彼女の幸せをなによりも祈っている。
彼女の理想の男になるように努力もした。
それでも、アイリーンが選んだ男は私ではない。
何故だろう。
何がいけなかったのか。
どこで間違えてしまったのか。
それとも、最初から私に勝ち目は無かったのか。
アイリーン。
アイリーン。
アイリーン。
私は君を心から愛しているのに。
--ゴッッ
「っつあ!?」
目の前に星が飛んだ。
何が起きたか分からずに、痛む額を押さえて視線を下ろせば、私の下でヴェルダが眉を吊り上げていた。
「しっかりしろよ、色男」
そう言って、ヴェルダは私の襟を掴み、強い力で引き寄せる。
突然のことに、慌てて手をつければヴェルダの鋭い眼光が私を射抜いた。
彼女の赤くなった額と私の痛む額がまた音を立てて重なる。
「お前が惚れた女はその程度の女なのか。失恋した程度で自分を貶めたくなるような、そんな情けないことさせたくなるような女なのか」
ヴェルダの声が低く唸る。
貶めるだと?
私が、いつ、何を貶めたというのだ。
目の前の女が何を言っているのか分からず、眉根を寄せる。
しかし、ふと視線をズラすとヴェルダの胸元が緩められていることに気付く。
そして首元にある真っ赤な跡。
(……?)
私が、やったのだろうか。
私が…?
私は今、アイリーンのことを思っていたはずだ。
酔いで回らない頭を懸命に働かせるも、導きだされた結論は変わらない。
(私は今、アイリーンを思いながらヴェルダを抱こうとしたのか…)
なんて、馬鹿なことを。
これでは、アイリーンのことも目の前の会ったばかりの女のことも、蔑ろにしているも同然じゃないか。
こんな行動を起こすなんて、私自身を貶める、恥ずべき行いじゃないか。
こんな馬鹿げた行動を取ったのも、私がアイリーンを愛したから。
そのせいなのかと、ヴェルダは聞いているのか。
「そんなはず、無いだろう。私が愚かだった。彼女は関係ない」
自分の情けなさに項垂れながら吐き捨てると、ヴェルダは掴んでいた私の襟を離してポンと軽く私の胸を押した。
「違うなら、そんなウジウジ無いものねだりしてないで、誇ってろよ。例え手に入れられなかったとしても、心底惚れた女を愛した自分を誇れ。代替え品抱いて、満足するようなくだらない男になるなよ。
男の身持を崩させるような女じゃないって、お前自身で証明しろ」
ヴェルダの琥珀色の瞳が三日月のように笑んだ。
「暴論だ…」
「失恋で前が見えないような奴には暴論が丁度良いんだよ」
今日初めて会った男に襲われかけ、今なおのし掛かられているというのに、ヴェルダはカラカラと楽しそうに笑った。
そのあまりの気っぷの良さに拍子抜けしてしまう。
胸につかえていた重りが、少し軽くなった気がした。
「乱暴なことをして、すまない」
「本当にな」
ヴェルダの上から退き、彼女を起こすために手を差し伸べた。
ニヤリと笑いながら肯定する言葉が、彼女の許しの言葉だと分かり、その気前の良さにも助けられる。
息が漏れるように笑ってしまうと、ヴェルダは手を掴みながらマジマジと私の顔を見つめてきた。
顔を見るのは構わないが、早く手を離して胸元を直してくれないだろうか。
私がやったこととはいえ、衣類から零れるように存在を主張する褐色の肌に、罪悪感と羞恥心が湧き上がる。
私が視線をズラすと、それを許さないとばかりにヴェルダは両手を伸ばして私の顔を掴んだ。
「な、」
「代替え品になる気はないけど、」
何をする、と告げたはずの言葉はヴェルダの唇に飲まれた。
艶を纏った黒髪が私の肌を掠め、唇に温かくも湿った感触。
ヴェルダに口付けられているのだと認識した時には、彼女の唇はもう私から離れていた。
「この私自身を、心底抱きたいってなった時は」
離れたはずの唇が、ヴェルダが話すたびにまた私の唇を掠める。
距離を取れば良いのに、何故か私の身体は動かない。
「その時は、あんたに抱かれてあげても良いよ」
そう言って、やっと顔を離したヴェルダは、悪戯を企む猫のような笑みを浮かべた。