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モノクローム・チルドレン

作者: 緒方あきら

『目覚めた僕の世界には、いつだって君がいた。それがとっても嬉しかったよ』



 浅いまどろみの中で目を開く。うっすらもやのかかった視界に、見慣れた白い天井が映った。数度瞬きをして、私は重い身体をゆっくりと持ち上げた。

 右の耳に聞きなれた寝息の音。左手を伸ばして、ベッドの横にあるテーブルをそっと引き寄せた。食事や読書も出来て邪魔な時はベッドの脇にずらすことの出来る便利なこのテーブルを、オーバーテーブルと呼ぶことを私はつい最近知った。

 テーブルに緑がひろがっている。その上には黒と白の水玉が不規則に並べられていた。まるで、何もかも真っ白な私たちの病室に抵抗しているみたいだ。

「あ、これじゃまたカドをとられちゃう……」

 彼の指し手を見て、私は声を漏らした。どうしても、いつも彼に隅っこを取られてしまう。私は手に持った白い石をどこに置くべきかわからなくって、結局適当に空いているところにポンと乗せた。白い石で挟んだ数個の黒い石を裏返す。

 どうせ、隅っこを取られてしまえばまたこの白い列は黒に変わってしまうのに。

「ユウキ、なんでこんなに上手なんだろう?」

 私たちはよく、オセロゲームをする。病室のせまい空間でも不自由なく出来るし、くるくると石が描き出す模様が変わっていくのが好きだった。ただ、いつも私の白い石は、最後にはほとんど真っ黒になってしまっていた。

 テーブルを横にどけ枕の下に手を入れて一冊の日記を取り出す。しおりが挟んであるページを、抱きしめるようにして膝の上で開いた。


『4月26日 朝、晴れ

 おはようミユ。今日の朝ごはんはヨーグルトがあっておいしかった。西園寺先生が、新しい本を読んでくれたよ。猪狩先生も来たけど、何を言っているのか全然わかんない。あ、オセロの右奥の端、今回も貰ったよ。ミユは相変わらず弱いな。 ユウキ』


「朝、晴れ……」

 窓の外へ目を向ける。お日様は少し傾いていて、もうすぐオレンジ色に変わりそうであった。すぐに日記を書こうか迷ったけど、先生たちがくるらしいのでもう少し待ってみることにする。

 部屋がノックされ、白衣を着た女性が入ってきた。西園寺先生だ。

「おはようミユちゃん。気分はどう?」

「はい、変わりないです」

「そう、よかった」

 にっこりと微笑む西園寺先生。長い黒髪をいつも後ろで束ねている。少しだけ頬にたらした髪はツヤがあって、フチのある眼鏡に良く似合っていた。

「ねぇ、先生。ユウキに読んだ本を私にも読んで欲しいです」

「ええ、検温が終わったらすぐに読んであげる」

 西園寺先生が慣れた手つきで私の体温や脈を測って記録していく。もう何年も、目が覚めると最初に行われるチェック。見慣れた作業をぼんやりと眺めながら、私は斜めにおこしたベッドの背もたれに身体を預けた。

 私もユウキも、もう絵本を読み聞かせてもらうような年齢ではない。行ったことはないけれど、小学校では高学年にあたる歳。

 だけど、小さなころから西園寺先生にいつも絵本を読み聞かせしてもらっていたので、本を読む先生の声を聴いているだけで不思議な安心感があった。だから、私たちはいまだに読み聞かせから卒業出来ないでいる。

 不思議な世界のお姫様は王子様と出会い、幸せに暮らしました。そんなお話を、私は横になりながら聞いた。きっとユウキもこんな風にごろんと横になって、病室に入ってくる風に揺れるカーテンを眺めていたに違いない。

 強い風に、私の髪がなびく。同じように隣で風に吹かれて揺れた髪が、頬に触れた。くすぐったくて首を右に向けて、風に踊る髪をそっと左手で抑えた。見慣れたユウキの寝顔が、すぐ横に置かれている。

 先生が立ち上がり窓とカーテンを閉めた。白いカーテンが傾きかけた日差しを浴びて、夕焼け色に染まっている。

 本を読み終えた西園寺先生が「また来るわね」と言って病室を出ていった。目を閉じて、読んでもらった物語の世界に思いをはせる。枕元の日記を取り出して、新しいページに筆を走らせた。


『4月26日 夕方、晴れ

 こんにちは、ユウキ。オセロ、なかなかユウキに勝てないな。今度コツを教えて欲しい。西園寺先生の本、とっても素敵なお話だったね。なんだか少し眠いから、夜にはユウキの時間になるかも。最近、すぐに眠くなっちゃう。ユウキはそういうことない? ミユ』


 ペンを置いて、日記を枕元にしまう。身体を横にして、ユウキの顔を覗き込んだ。ゆっくりと頭が冷えていくような気味の悪い眠気にウトウトしながら、横で眠るユウキの首筋に触れた。白い肌に細い血管が浮き上がっている。

「おやすみ、ユウキ」

 生まれた時からすぐそばにいる彼の名前を呼んで、私は重いまぶたを閉じた。


「……つまり結合双生児において性別が異なる双子が結合したまま産まれるというのは今までにない事例であって……」

 翌朝、まだ寝ぼけていた私の部屋に猪狩先生がやってきた。私たち二人の研究主任である先生は、いつも難しい話をずうっと話し続ける。私が何度「わかりません」と言っても、猪狩先生は説明をやめることはない。

 西園寺先生がいうには、猪狩先生は猪狩先生なりに私たちを思っているからこそ話が長くなってしまうらしい。だから、私はチンプンカンプンな話を、いつも黙って聞くだけだった。

「……しかし、寄生的頭蓋結合においてこうしたレアケースが発生した場合の対処方法は我々も模索中であり、今はとにかく血液の循環を絶やさないように……」

 猪狩先生の話は続く。私の右側で眠るユウキも、こうして猪狩先生の話を聞かされていたのだろうか。

 早くオセロがしたいのに、話はまだ終わらない。私は小さな息を漏らした。

「おっと、すまない。つい話し過ぎてしまった。疲れたかな、ミユ君。今日はここまでにしよう。最近何か、気持ちのうえでも体のことでも、変わったことはないかい?」

 私のため息に気づいた先生が、慌てて話題を変えた。

「変わったこと……。えっと、前よりも眠くなるのが早くなった気がします」

「確かに、君たちの起床から就寝までの活動時間は短くなっているな……。何か心当たりはあるかい?」

「ないです。でも」

「でも?」

「前よりも、眠気が強いっていうか、眠くなったらすぐにカクンと落ちてしまうというか……」

「眠気に逆らえない感じかな?」

「はい」

「なるほど。少しお薬に工夫をしてみよう。何かあったらいつでも言ってくれたまえ」

 猪狩先生の骨ばった手が私の頭を撫でた。なんだか不器用な感じのぎこちない触れ方で、私はなんとなくこうされるのが好きだった。猪狩先生なりの、不器用な優しさみたいな。お父さんがいたら、こんな風なのかもしれない。そう思える時があるから。

 テーブルを引き寄せる。緑色の盤の上ではやっぱりユウキに隅っこをとられてしまい、右側が黒の石で埋まってしまっている。その隙間を縫うようにして、私は白い石を置いた。ほんの数枚黒い石を裏返しても、私のピンチは変わりそうになかった。

 枕元から日記を取り出して、いつものようにしおりの挟まれたページを開いた。


『4月26日 夜、満月

 こんばんは、ミユ。隅っこ、ゲット! 今回も僕の勝ちかな? コツかー。僕が勝ってばかりでもつまんないから、特別に教えてあげる。ある程度勝負が進んだら、あんまり沢山石をひっくり返さないほうが強いんだよ。

 僕も最近、すぐに眠くなるんだ。今度、先生たちに相談してみよう。今も、眠い……。おやすみ、ミユ。 ユウキ』


 ユウキもまた、私と同じように原因不明の眠気に襲われているらしい。私たちの身体に、何が起きているのだろう。心なしかいつもより顔色が悪いユウキの寝顔を覗き込みながら、私はもやもやとした不安に包まれた。

 私の心に入ってきた不安はそのまままぶたにまで重くのしかかる。ゆっくりと眠気が私の中に拡がっていく。お昼ご飯は、ユウキが食べることになりそうだ。眠ってしまう前になんとか日記を書こうと、私はペンを握った。


『4月27日 朝、曇り

 おはよう、ユウキ。今日は猪狩先生がたくさんお話しに来たよ。でも、相変わらずむずかしくってわからない。オセロのコツ、ありがとう。次のゲームでやってみるね。

 起きたばっかりなのに、眠くなっちゃった。なんだか最近、もやっとした不安が消えないの。ユウキはそんなこと、ない? おやすみ。 ミユ』


 日記を書き終えベッドに横になった途端、私の意識は深い深い場所に沈んでいった。



 目が覚めると、私の腕には数本のチューブが刺されていた。見慣れた天井の手前に、透明な液体をぶらさげた点滴が吊るされている。視界のすみっこに、私のことを覗き込む西園寺先生の姿があった。

「おはようミユちゃん、気分はどう?」

「先生、これは?」

「ちょっとミユちゃんたちの身体に栄養を入れているのよ。最近、よく眠くなるって言ってたでしょ? 少し身体が疲れているみたいなの」

「身体が、疲れている……。ねぇ、先生。このお薬で、私の眠気はおさまる?」

 私の問いかけに、西園寺先生は少し困ったような顔をして首を傾げた。

「おさまるといいんだけど……」

「私、不安なんです。先生」

「不安?」

「今まで、私が眠くなるときは身体が温かくなって、ぼうっとしてきて……いつの間にか眠っていた。そんな感じだったの。でも、最近は違うんです」

 話の続きをうながすように、西園寺先生はひとつうなずいて身を乗り出した。

「でも今は、無理矢理暗い所に引きずり込まれていくみたいな……。眠くなるのが、とっても怖い」

「ミユちゃん……」

 西園寺先生は私の手をとって、ぎゅっと両手で握り締めてくれた。先生の手はとても温かくて、私は少しだけ安心する。だけど、きっと私の、私たちの身体には何かが起きているのだろう。だから、先生は私が起きる前にそばにいたし、こんな風に点滴を受けているに違いない。

 西園寺先生が検温を終えて病室を出ていった。時計が、午後一時を指している。私は一体どれくらいの時間、起きていることが出来るのだろう。不意に、眠気が襲ってくることがとてつもない恐怖に感じられた。今度あの重い何かにべっとりとくっつかれてしまったら、二度と私は目を覚まさないかもしれない。

「どうしよう、そんなのいや……」

 一度まとわりついた恐怖は消えることがなく、砂に水が染み込んでいくように心の中にじわりと入り込んでくる。右側で眠るユウキも苦しそうに眉を寄せていた。私の怯えは、ユウキの怯えでもあるのかもしれない。

 オセロを一手進める。勝敗はすでに決まりかけている盤面に、仕方なく白い石を置く。もう、裏返る石はほとんどなかった。

 白、黒。ひとつ裏返すだけで変わってしまう盤面の模様。白と黒は交わることなく入れ替わり続ける。まるで、私とユウキみたいに……。

「失礼するよ」

 病室がノックされ、猪狩先生が入ってきた。今まで見たことがないくらい険しい表情をした猪狩先生が、速足に私のベッドの横まで歩いてくる。テーブルに置かれたオセロ盤の横に、一枚の書類を乗せた。

 書類には難しい漢字が沢山並んでいて、私にはよくわからない。ただ『手術』『同意』という言葉が、とてもいやな感じがした。

「猪狩先生、これは?」

「検査の結果、ミユくんとユウキくんは近いうちに手術を受けなくてはいけなくなった。この紙は手術の説明と、自分たちは受けますという君たちの意思確認のようなものさ」

「手術、ですか?」

「ああ、ちょっと難しい手術でね」

 大きな手を口元にあてて、猪狩先生が唸り声をあげた。

「君たちにきちんと話すべきか、私も随分と悩んだよ。だが、すべてを話すことにした」

 難しい、手術――。

「君たち双子は、ひとつの身体を二人で共有している状態だ。それは、わかるね?」

「……はい」

「ミユくんが起きているときはユウキくんが眠り、ミユくんが眠りにつくとユウキくんが目を覚ます。このサイクルをずっと続けてきたが……それも限界に近い」

「限界……?」

 コクンと頷いた先生が、自分の身体を指さした。

「私や、いわゆる普通の人間は夜に眠り身体を休める。しかし、君たちは交互に覚醒をすることで身体をほとんど休めることが出来ない状態が続いているんだ」

「身体が、休めない……」

「投薬による睡眠の促進も試みたが、結果は芳しくない。血液の循環構造に問題があると思われるが、詳しい話は省こう。とにかく……君たちを分離しないことには、状況は改善されないんだ」

 分離。

 その言葉の意味にたどり着くまで、私は数秒の時間を必要とした。

 分けて、離す……。私とユウキが、別々になる? だけど、この身体は……。

「先生、分離って、私たちを、切り離すってことですよね……」

「……ああ」

「でも、私たちの身体はひとつしかないのに、どうやってふたつに分けるんですか?」

「おそらく……。いや、ほぼ間違いなく」

 猪狩先生は言葉を切って、テーブルの上に置かれた紙に指を置いた。

「片方は、生き残れない」

「えっ……!?」

「私はクローン技術による、君たちの受け皿となるもうひとつの身体の作成を提言した。しかし、学会に却下された。クローン技術は人類に用いるべきではない、とね」

「だけど、身体がもうひとつないと……」

「……すまない」

 先生がうなだれた。私はこわばる手で紙をめくる。手術の説明が記された紙の下には、手術への同意書が用意されていた。それを見て、私は頭から冷水を浴びたような衝撃を受けた。署名欄には、すでにユウキの名前が書かれていたのだ。

 それがユウキによる直筆の署名であることは、何年も日記のやりとりしている私にはすぐにわかった。

「ユウキは、これを受け入れたんですか!?」

「ふたりが死なないための、もはやたったひとつの選択肢なんだ、ミユくん」

「本当に、どちらかがいなくなってしまうのですか……?」

 声が震えるのを、抑えることができない。

「詳細は私にも話せない、いや知らされていない。オペは君たちや私とは全く関わりのない人間によって行われる。少しも感情が入り込まないようにね」

「もし、私がこれにサインをしなかったら、どうなるんですか?」

「本人の同意なしに手術は行われないさ。インフォームド・コンセントは守られなければならない」

「インフォ……えっ?」

「手術の説明を受け、それを正しく理解したうえで患者の合意を得ること、かな」

 つまり、ユウキは何もかも理解したうえで署名をしたということなのだろうか。

「だから、ミユくんは自分の自由意志によって手術を受けることを選択する権利がある」

「自由意志……」

 私のすぐ横で寝息をたてているユウキ。彼の意志と私の意志がすれ違ったとしたら、そのときはどうなるのだろう。

「先生、私たちの意思は、権利は……ふたりでひとつだと思いますか?」

「そうは思わない。だからふたりに聞いているんだよ。本当なら、どちらかの同意を得られれば手術は行われてしまうのだけどね」

 寂しそうに口元をゆがめて猪狩先生が言った。私たちは、ふたりでひとり。でも、もうそれでは生きていけない。

 ユウキ。

 もうひとりの私。彼がこれしかないと決めたのなら、私は――。

「……ここに、名前を書けばいいんですね?」

「ああ」

 署名をする手が、ひどく震えた。自分でも初めて見るような汚い文字で書かれた署名を確認すると、猪狩先生が私の髪を撫でて病室を出ていった。私はまだ震えが止まらない手で、日記を開いた。


『4.27 生き残るのは僕だ』


「ユウキ……どうして……」

 言葉が見つからない。ユウキに、なんて書き残せばいいのだろう。答えが見つからないまま、私の身体は睡魔にむしばまれていく。私はその日初めて、日記を書くことなく重く苦しい眠りの中に落ちていった。


『4.28 ミユは死ぬ、僕は生きる』


 息苦しさを感じて日記を閉じる。盤面はもう半分以上真っ黒で、白い石を置いても勝敗は変わらない状況になってしまっていた。仕方がなく空いているマス目にひとつ、白い石を置く。今にも周囲の黒に飲み込まれてしまいそうな石。

「少しずつ、消えていくのかな」

 四角い盤面の上で、黒と白は互いに入れ替わりながらひとつひとつ進んでいたはずなのに。私たちの未来はもう、白か黒かしかなくなってしまった。震える手で日記を開いた。


『ユウキ、私、死にたくないよ。死ぬのが怖い。どうして、こうなっちゃったんだろう』


 今度眠ったら、もう目覚めることはないのかもしれない。そう考えた瞬間、全身がガクガクと小刻みに揺れた。どこか深いところに引きずり込まれたまま、二度と浮き上がることが出来ない眠り。

 どんなに恐れてもそれは私を包み込み、暗い場所へと導いていく。私に、抗うすべはなかった。

「いやだ、眠りたくない。眠りたくない……。ユウキ……」

 枕に頭を預け薄れていく視界の中に、私の分身が映る。声すら聞いたことのない彼が書いた言葉が、いつまでも頭から離れなかった。


 その日から、私とユウキの眠りと覚醒の間隔は徐々に短くなっていった。身体も常に重く、軽いめまいが頻繁に起きるようになった。身体の不調とともに気持ちも不安定になり、私たちの交換日記は生への渇望と死への恐怖、そして自分の半身への憎悪で埋め尽くされていった。


『僕だって死にたくない、だからミユが死んで。いなくなれ』

『私は死にたくない、そんなひどいこと言わないで』

『うるさい、自分だって手術の紙にサインしたくせに! イイ子ぶるな!』

『ひどい、ユウキが先に署名したんじゃない! 相談してくれたって良かったのに』

『相談ってどうするのさ、眠っていたくせに! 猪狩先生は僕に先に手術の話をしたんだ。僕が残されるにきまってる!』

『そんなことない! 猪狩先生はいっつも私の頭を撫でてくれるもの!』

『西園寺先生だってそうだ、いつも僕がお願いした本を読んでくれている。ミユは僕の残り物を聞かされているんだ! 大事にされているのは僕だ、僕が生き残る!』

『西園寺先生は震えていた私の手を握ってくれたもん! ユウキはそういうことしてもらったことあるの? どうせないんでしょ!』

『先生が握ったのはミユの手じゃない、僕の手だ! 出ていけ、この身体から出ていけよ! 出ていけ、出ていけ、出ていけ、出てい――』


 出ていけ。

 意識が途切れるギリギリまで書き続けられたであろう言葉の羅列に、私は唇をかみしめた。この身体はユウキだけのものじゃないのに、どうして出ていけなんて言われなきゃいけないのだろう。

 白い石を手を置く。オセロ盤のうえはすでにほとんどが真っ黒に埋め尽くされていて、白い石はほんのわずかな隙間に残っているだけだった。このまま、私の白はユウキの黒に飲み込まれていってしまうのだろうか。じっと盤面を見つめていると、病室のドアがノックされた。

「はい」

 返事をすると、猪狩先生が病室に入ってきた。先生は私のそばまで来ると大きく息を吸い、居住いを正して口元に手を当てて言った。

「明日、君たちの手術を行うことになった」

「……明日」

「何かあれば、今のうちに言ってほしい。出来ることはするつもりだ」

「手術のことは、ユウキには話したんですか?」

「まだ言っていない」

「そう、ですか」

 先生の言葉を聞いて、私はほんの少しだけ胸の奥がすっとしている自分に気づいた。無意識のうちに、ユウキよりも先に手術について知らされた優越感にひたってしまう。

 順番なんて、何の意味もないはずなのに。

 何かあればいつでも呼んで欲しいと告げて、猪狩先生が病室を出ていった。顔を上げた視界に、大勢の決まったオセロ盤が映る。

「何やってるんだろ、私。どうせもう、決まっているはずなのに」

 生き残るのは私か、ユウキか。それを決めるのは私たちじゃない。顔も知らない、名前すら知らない人たちがもう勝手に決めちゃっているに違いない。なのに、どうして私たちがいがみあってしまっているのだろう。

「ユウキ……私たち、こんな風じゃなかったよね」

 日記をめくる。お互いを悪く言いあったこの数日間をさかのぼって、もっともっと過去へ。おいしかったご飯のこと。楽しかったお話のこと。オセロのこと、天気のこと。

 私たちは切り取られた世界の中で、いつも一緒に生きてきたはずなのに。

 また、あの恐ろしい睡魔がやってきた。私は急いでペンを握ると、日記の新しいページにペンを走らせた。

 次に目が覚めた時、ユウキはどんな言葉を書いているだろう。ううん、私が眠っている間に、手術が始まるかもしれない。もう、目覚めることはないのかもしれない。だけど、だからこそ。ユウキと一緒に過ごした日々に。


『――ユウキ、ありがとう』


 私の世界に霧がかかる。白くぼやける視界の中で、私は真っ暗な眠りに吸い込まれていった。



 見知らぬ天井を見上げて目を覚ますのは、いつ以来だろう。

 色々なチューブに繋がれて、身体を動かすことができない。

 ピッ、ピッ、と規則的に鳴る機械の音で、自力で呼吸をしていないことに気がついた。麻酔が抜けていないのだろうか、全身の感覚が失われている。目を左右に動かすので精一杯だ。

 青白い部屋には誰もいない。機械だけが物々しく並んでいる。

 ああ、そうか。手術が終わったのだ。選ばれたという感慨はない。嬉しさや寂しさを感じる胸さえマヒしている感じだ。

 もう一度目を動かして周囲を見回してみる。

 いつもよりよく見える左側。ガラスの向こうに白衣を着た人が立っていた。口元に手を当ててじっとこちらに顔を向けている。

 おそらく猪狩先生だろう。先生は、ああして口元に手を当てるクセがあった。言いにくいことや悲しいことがあると、先生はいつも口に手を当てる。なんでそんな風にしてこちらを見るのだろう。手を振ってくれればいいのに。

 何度もまばたきをして先生に合図を送っていると、猪狩先生が俯いた。先生に、いつものように声をかけたい。でも身体の感覚が戻らなくて、しゃべることができない。難しい手術だとは聞いていたけど、一体いつまでこの麻酔は効いているのだろう。

 ひどく眠い。こんな温かな眠気は初めてだ。

 ひとりきりの睡眠を味わう贅沢をかみしめながら、僕はゆっくりと眠りへの誘いに身をゆだねた。



「明日から、中学生か」

 鏡の前でブレザーに袖を通して、両腕を動かしてみる。

 あの日、いつもの病室で目を覚ました私の右肩は包帯でグルグル巻きにされて固定されていた。一年に及ぶ骨格矯正と皮膚移植によって、私の外見はぱっと見ではわからないくらいには治療が進んでいる。

 それでもやっぱり肩幅が左右で同じじゃないから、制服もオーダーメイドにするよりほかになかった。ベッドサイドに立てかけた写真には、眠っている私の横で笑顔を浮かべるユウキの姿があった。

「ユウキ……」

 右肩が、ひどくうずく。猪狩先生の話では、ユウキは分離手術のあとも短い時間、切除された頭部だけで生きていたらしい。そしてほんの一瞬目を覚ました後、心地よさそうに眠りに落ちたまま亡くなったのだという。

 きっと自分が生き残ったと安心して眠りについたんだと思うよ、そう呟いた先生の声はとてもつらそうだった。私も、きっとそうだったのだろうと願ってやまない。

 机の上には、あの日の時間で止まったままのオセロ盤が置いてある。ユウキの最後の一手で盤上は黒い石で埋め尽くされてしまっていた。だけど、私がいつも取れなかった右奥のカドだけは、彼の黒い石が避けられていた。

 ユウキが何を思ってここを空けてくれたのか、今の私には知る術はない。ブックエンドに立てかけた日記を手に取った。


『今までありがとう、ミユ。さようなら』


 右肩が痛む。一年前より視界が広くなった右側に目を向けた。

 私はミユで、きっと、ユウキでもあって。

 手術でひとりになったって、私は今も半分のまま。

 肩の傷跡にそっと手を当てて耳を澄ませた。こうしていれば、いつかユウキの声が聞こえるようになるのだろうか。そのとき、彼は私になんて声をかけるのだろう。

 願わくば、いつまでも仲の良いふたりで居られますように。

 日記が書かれた最後のページ。ユウキのつづった言葉をなぞって、私はそっと目を閉じた。


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