最終章 吸血鬼はじめました その3
「どうしよう」
『どうしようって、泊まるしかないんじゃない?』
数時間に及ぶ二人だけの勉強会を終えて外を見れば、この時期には珍しい嵐になっていた。
『この嵐は明日の明け方まで続く模様です』
テレビでは、見慣れたお天気お姉さんが灰色で埋め尽くされた日本地図の横に立っていた。今日は全国的に荒れ模様とのことだ。
『お姉ちゃん、天気予報見た?』
「見た」
泊まるしかないようだ。
『ちゃんと颯君に聞いてね』
「りょーかい」
『ちょっと待って下さい! 司はお泊まりですか!? 男の家でお泊まりですか!?』
遠くからティルラの叫び声が聞こえ、美衣が小さく「しまった」と呟いた。一番聞かれたくない相手に電話の内容を聞かれてしまったようだ。
『司が泊まるなら私も泊まります!』
『なに言ってるの。この雨だよ。家で大人しくしてて』
『断固拒否します!』
『いいから大人しくして!』
珍しく美衣が怒鳴った。怒ったのはいつ振りだろう。
『静かにしてくれたら、秘蔵のお姉ちゃんコレクションの中から一枚、好きな写真を上げるから』
『オーケー、分かりました。それで手を打ちましょう』
「おい待て」
今不穏な単語が聞こえた気がする。お姉ちゃんコレクションってなんだ。
『そんなわけだから、颯君によろしくねー』
「待て! 写真っていつどこで撮った写真なんだよ!」
プー、プー、プー。
……美衣のヤツ、切りやがった。携帯を鞄に戻し、ローテーブルに頬杖をつく。
「美衣ちゃんはなんだって?」
「ここに泊まって行けってさ」
「まあそうだろうな」
窓の外の嵐を見て、颯が言う。外は薄暗く、打ち付ける風が時折アパートを揺らす。崩れたりはしないだろうが、やはりちょっと怖い。外へ出るなんてもってのほかだ。
「今日、泊まって良いかな?」
遠慮がちに颯に尋ねる。
「もちろん。というより、こんな嵐の中を帰らせるわけにはいかないだろ」
苦笑して颯が答える。まあそうだよなと思いつつ、ほっと胸を撫で下ろす。
「六時か。そろそろ夕飯の準備でもするか」
颯が時計を見て立ち上がる。
「へー。颯、料理もするんだ」
「そりゃするだろ。一人暮らしなんだから」
「近くのスーパーで惣菜買ったり、デリバリーかと思った」
「それだと油もんばかりになるじゃないか」
「あ、そっか。ああいうのって油ものが多いもんね。ちゃんと健康のことも考えているんだ」
「風邪引くと親がうるさいからな」
颯は冷蔵庫を開け、中を物色する。
「ええと。二人分だから……と」
「僕の分も作ってくれるの?」
「まあな」
「よっ、色男っ」
「うっせえ」
褒めたのに怒られた。颯はキッチンにいくつかの材料を並べていく。牛肉にタマネギにじゃがいも。なんとなく、何を作ろうとしているのか分かった気がする。
「何作るの?」
「カレー」
やっぱり。
「甘口?」
「辛口」
「リンゴとハチミツじゃないの?」
「あれは甘すぎるから却下。買ってもいないし」
カレーは辛さが全てじゃないのに……。でも、買っていないのなら仕方ない。今日の所はそれで許してやる。
「手伝おうか?」
「いい。司は勉強してろ」
勉強するくらいなら手伝いたい。とは言えず、渋々ペンを握り、考え込んでいるふりをする。今日は充分頑張った。もう僕の頭は休憩モードに入ってしまっている。公式を覚えようとしても右から左だ。
「司って嫌いなものあったっけ?」
「ニンジン」
「ピーマンとじゃがいもは?」
「嫌いじゃないよ。子供じゃあるまいし」
「ニンジン嫌いも子供だろ」
「あーあー聞こえない」
あんな発色豊かな根菜なんて食べられる方がおかしいんだ。
しばらくするとキッチンからリズミカルな包丁の音が聞こえてくるようになった。かなり練習したのだろう。手慣れていた。
颯がキッチンに立ってから小一時間が経つ頃には、室内はカレーの匂いでいっぱいだった。颯に呼ばれると早々にノートを閉じ、ダイニングテーブルの席についた。目の前には美味しそうなカレーとサラダ、そしてスープが並んでいる。一人暮らしの男料理にしては整っているのではないだろうか。
「司ほどの家事歴はないからな。あんまり味は期待するなよ」
「すんごくしてる」
「すんなっての」
クスクスと笑ってからいただきますをして、さっそくカレーを口に運ぶ。
「辛っ!?」
「カレーだからな」
それはそうだけど、これはちょっと辛すぎる。水で辛さを抑えつつ、お皿に盛られたカレーをなんとか食べきった。
「……次泊まりに来たときは僕が作る」
「まずかったか?」
「辛くてそれどころじゃないよ!」
テーブルを叩いて叫ぶ。あーもう口がヒリヒリする。氷を口に含み、コロコロと転がす。
「辛いのが食べたいんだったら、あとで辛さを足せる香辛料持ってくるから、それ使って。……まあ、味は良かったと思う。辛くなかったらもっとちゃんとした感想が言えたと思うけど」
「料理上手な司に、まずくなかったと言って貰えただけで俺は充分だ」
颯が爽やかに微笑む。この程度の感想で喜んで貰えたのなら僕としても嬉しい。ただ、辛くなければもっと嬉しかった。
洗い物ぐらいは僕がすると、颯には寛いでもらい、エプロンを借りて一人キッチンに立った。
「すげえ。電車止まってるらしいぞ。山側の一部地域では電気が止まってるってよ」
「朝は晴れてたのに、凄い変わりようだね」
窓に叩きつけられる雨音のせいで、自然と声が大きくなる。洗い終えた食器を乾燥機に並べてスイッチを押す。
「食器洗ったよ」
「おっ。ありがとう。そのまま先にシャワー浴びてくれ。いつここも電気が止まるか分からないからな」
「だったら颯が入ってよ。ここは颯の家なんだからさ。その後で僕が入る」
「シャワーだから後も先も別に違いは……って、言い合う前に入ればいいか。すぐ出て来る」
「ごゆっくり」
颯が脱衣所へと消え、代わりに僕がテレビの前に座る。突然の豪雨にどこの局も特番が組まれていた。面白くない。
十分とかからず出てきた颯と入れ替わりでシャワーを浴び、彼から受け取ったTシャツとジャージを着て脱衣所を出た。リビングにはテーブルを端にどけて布団が敷かれていた。
「手際の良いことで」
バスタオルで髪を拭きながら言う。
「司はベッドな。俺が下で寝る」
「え。それは悪いよ。僕が下で寝る」
「お前を下で寝かしたなんて知られたらティルラさんに怒られるって。……あと、茜のヤツに馬鹿にされるしな」
前半は笑いながら、後半は忌々しげに颯は言った。理由としては主に茜か。
「分かったよ。じゃあお言葉に甘えて」
バスタオルを椅子にかけ、ベッドに乗る。体重をかけた箇所がゆっくりふにゃっと凹んだ。
「おおっ。なんか凄い」
初めての感触にテンションが上がる。ぐにっと手に力を入れて押しつけ離すと、手形の凹みができた。
この柔らかさ。このふにゃっと感。もしやこれは……
「ん? ああ、低反発マットだよ」
「やっぱり。これが噂の高級低反発マット……」
以前テレビのショッピング番組を見て、欲しいなあ、でも高いなあと諦めた低反発マットだった。
「なんで勝手に高級がつくんだよ。それ近くの家具屋で買ったが、安かったぞ」
「本当!? どこで買った? いくら?」
「え、えーと。たしか……」
颯から店の名前と値段を聞いてノートの切れ端にメモする。
「よしっ。ティルラに頼んでみよう」
いやあ、良いことが聞けた。あの低反発マットがこんなに安く売ってるだなんて。嵐というのも悪くない。
「凄く嬉しそうなところ悪いが、それ、そんなに良くないぞ?」
「大丈夫大丈夫。あんまり良くなくても、僕が小学校の頃から使ってるベッドよりマシだよ」
ああ、あれかと颯が苦笑する。僕のベッドは長年使ったせいでスプリングがダメになっている。跳ねると軋んでうるさいのだ。
バタリとベッドに仰向けになって倒れ、体が沈み込む感触を楽しむ。これって俯せになると顔が埋まって苦しくなったりするのだろうか。やってみよう。さっそく体の向きを変えて顔を埋める。……颯の匂いがする。
「それにしても服のサイズが全然合ってないな……って何してんだ?」
「颯の匂いがする」
「本当に何してんだ!?」
首根っこを掴まれ、体を無理矢理起こされた。
「いやー。男だったときは何も匂わなかったけど、女になると分かるもんだなー」
「それ恥ずかしいから止めろ!」
「あ、この服も颯の匂いがする」
袖を引っ張ってスンスンと鼻を鳴らす。
「止めろって!」
「うん。変な匂いじゃないから安心しなさい」
「お、おお、そうか……なんか微妙な気分だな」
素直に喜べばいいものを。颯の手が僕の首元から離れる。ベッドに座ると、いつの間にかTシャツがずれて右肩が露わになっていた。
「颯の服、大きいなあ」
「お前が小さすぎるんだよ」
「ぐさっ」
颯が人の弱点を的確についてきた。
「今身長いくつだよ」
「あー、それを聞きますか。聞いちゃいますか」
「いいからいくつなんだよ」
今日の颯はしつこい。さっきの仕返しか?
「……ひゃくよんじゅーきゅー」
なげやりに答えてやると、颯はポカンと口を開けた後、ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべた。
「一四〇代かよ。そりゃ小さいわ」
「四捨五入したら一五〇代だ!」
「一五〇でも俺と三〇センチも違うじゃねーか。三〇って言ったら頭一つ分くらいか?」
「そ、そうかな。そんなにはないと思うけど? 三〇センチくらい誤差だよ誤差」
「誤差ではないだろ」
ほら、と颯が立ち上がる。仕方ないので付き合ってやり、颯の隣に立つ。頭のてっぺんに右手をおいて、水平に移動させる。
颯の喉に手が当たった。
「……身長を言い値で買おう」
「無茶言うな」
ケチと呟いてベッドへ戻る。時計を見ると、まだ九時前だった。
「さて、いかがわしい本でも探すとしますか」
「お前は茜か」
ベッドの下を覗き込もうとしたら、肩を押し返された。間違いなくここにあるな。
「まあそれは冗談で」
「今覗き込もうとしてたじゃないか……」
「どういう趣向の物が好みかなと気になりまして」
「いやお前知ってるだろ」
知ってますとも。若干ロリコン入ってることも知ってますとも。
「そういや司は持ってた本はどうしたんだ?」
「さてなんのことやら」
「薄い本」
「すみませんそれ以上言わないで下さい」
いかがわしい会話の末に土下座する女の子の図。今この場を見ている人がいれば僕達はどう映っているのだろう。
「で、どうしてんだ?」
「んー。捨てるのは勿体ないから、クローゼットの奥に隠してあるよ。でも最近全然そういう気にならなくて、捨てようかなあとも思ってるところ」
司になってからというもの、前ほど女の子に興味がなくなり、さらには本を見ても、興奮する以上に恥ずかしいという気持ちが強く出てしまうようになったのだ。
「ほお。それってつまり、司が心まで女になってるってことか?」
「さあどうだろう。気持ちとしては今も男のつもりなんだけどね。努にだって戻る予定だし」
「あ、ああ。そういえばそうだったな」
ん? 今颯の様子がおかしかったような……。
「おしっ。まだ九時で寝るには早いな。ゲームでもするか」
「ん、そうだね」
颯からコントローラーを受け取る。まあいいか。別にたいしたことじゃないし。
「負けたらジュースおごりな」
「受けて立とう」
以前より一回り大きくなったコントローラーを両手で持つ。違和感があるが、これぐらいハンデとしよう。
それから眠くなるまで、僕達はゲームを続けた。




