第三章 部活はじめました その5
それは唐突に、公園の前を通りかかったときにやってきた。
先に気付いたのは美衣だった。
「お姉ちゃん。あれ、何かな……?」
まっすぐ目の前の道を指差した。住宅街のせいか、人の気配を感じない通路のど真ん中に、黒い枯れ木のような物が立っていた。アスファルトよりも黒い幹が二つ地面から伸び、それが途中で合わさって一本に、それから三つに分かれて……
「まさかあれは……」
「お姉ちゃん知ってるの?」
コウモリのような翼、頭には角が二本、二メートルほどの細長い体躯、鋭利な手足。
それには見覚えがあった。それとは極々最近、なんと昨日振りの再会だ。
「アウグスグスだ。あれ、アウスグスグだっけ」
「どっち?」
「……ガーゴイルだ」
「アウなんとかじゃなかったの?」
「ティルラが言うには、僕達吸血鬼を狙うヴァンパイアハンターの手先なんだって」
「あ、話をそらした」
食い付くところがおかしい。そらしたとか今更どうでもいいじゃないか。僕が何者かに狙われているということの方が驚きだと思うんだけど。
ガーゴイルに動きはない。今も同じ場所、同じ体勢のまま道の真ん中に立っている。しかし、その目はこちらに向けられている。美衣ではなく、僕へ。
昨日と同じく、ティルラの話が本当であれば、ヤツは逃がさず倒さなければならない。そうしないと、彼らを操る者に僕の場所がバレてしまう。ティルラがいない今、僕がやるしかない。
周りには怖いぐらいに人がいない。これなら誰かに見られることはないので安心だけど……おかしい。周囲はおろか、家の中からさえ人の気配がしない。
「ねえ、お姉ちゃん。静かすぎない?」
美衣も気付いているようだ。僕の袖をギュッと握りしめている。伸びる伸びる。
ふいにガーゴイルが腰を落とした。前のヤツでは見なかった動きだ。前傾姿勢。細く鋭さを増した目は、獲物を狙う肉食獣のようだ。
「美衣!」
ガーゴイルがアスファルトを蹴り破ったのとほぼ同時だった。目を丸くする美衣を抱きかかえ横へ飛ぶ。一陣の風が過ぎ去り、右腕に鋭い痛みが走る。体勢を崩し、公園の地面に転がった。
「……っ。美衣、大丈夫か?」
「う、うん。ってお姉ちゃん怪我してる!」
美衣が声を上げ、眉をひそめる。見やれば右肩から肘にかけて制服が引き裂かれ、血で汚れていた。
「これぐらい、大したことない」
美衣を制し、立ち上がる。アイツの狙いは僕。美衣を傍に置いておくのは危険だ。
「美衣は公園のどこかに隠れてろ」
「でもお姉ちゃん怪我――」
「放っておけばすぐ治る。心配するなって」
安心するように笑ってみせる。それでも美衣は納得していないようだったが、しばらくすると草むらの方へ走っていった。
……と思ったら結構近くの滑り台の影に隠れた。
「お姉ちゃん無理しないでね!」
「もっと遠くに行けって!」
「だってお姉ちゃん心配なんだもん」
くぅ。全然信用されてない。こうなったら実戦での余裕振りを見せて納得させるしかない。
ガーゴイルがゆっくりと公園へ足を踏み入れ、ザッザッと地面を削る。またさっきの突進をするつもりだろうか。あれは危険だ。たぶんまともに当たったら怪我だけじゃ済まない。掠っただけの右腕だって、ほら、力を入れると痛くて使い物にならない。
結構劣勢。でもそれを美衣に悟られてはいけない。だから僕はニヒルに笑い、何かの映画で見たポーズを取りながら、決め台詞っぽいもので余裕を見せつける。
「ふっ。これ以上僕を怒らせると、僕の内なるハムスターが暴れ出すぞ……」
「……弱そう」
……。コホン。
「僕の秘めたるカピバラが牙を剥く――」
「カピバラって出っ歯じゃなかった?」
……い、いちいちケチを付けてくるとは。美衣も案外余裕あるじゃないか。
そこから動くなと釘を刺して、目の前に集中する。ヤツに日本語が通じているのかどうか知らないが、微妙に笑っているように見えるのはきのせいだろうか。小馬鹿にされている気がする。
腹が立ったので先手必勝。今度はこちらから行ってやる。拳を固く握りしめ、全力で地面を蹴る。全身にGを感じながら、人が出せるとは思えない速さでガーゴイルとの距離を瞬時に詰める。まだ二回目の全力に体は慣れていない。風圧に目を細めつつ、どうにか視界にガーゴイルらしき黒い塊を捉える。どこを殴るかなんて合わせてられない。握りしめた左の拳を黒い物体に叩き込んだ。砂埃を上げながらブレーキをかけ、速度が落ちたところで振り返った。
ガーゴイルの左腕が根本から吹き飛んでいた。僕の拳が当たったんだ。これでイーブン。内心ガッツポーズをする。
「どうだ、美衣。お兄ちゃん強いだろ?」
「う、うん。速すぎて見えなかった」
美衣の評価も改善されたみたいだ。
「でもお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんだよ」
「ぬぐっ……」
あいかわらず冷静だ。しかし、動揺してあたふたされるよりはマシか。
「そんなことはいいから、もっと離れてろ。美衣に怪我されちゃ困るんだ」
「お姉ちゃん……。うん、分かった。頑張って!」
美衣は今度こそ公園の端にある草むらへと身を隠した。
これで気兼ねなくできる。安堵して視線を戻すと、そこにいたはずのガーゴイルの姿がなかった。いや、目前にまで迫っていた。反射的に左腕でガードする。低い衝撃音が耳に届き、腕から全身へと振動が伝わる。
「った~~いじゃないか!」
反撃にと蹴りを繰り出すが空振り。距離を取ろうとするガーゴイルを追い、腕のない左側に回り込む。ガーゴイルが向きを変えようとするが、少し遅い。横腹に拳を食い込ませてから蹴り飛ばした。
手応えはある。でも、ガーゴイルはすぐに体勢を立て直していた。
なんだよ。昨日のとは全然動きが違うじゃないか。ここにティルラがいたら文句を言ってるところだ。
アイツを倒すには全力の一撃を叩き込むしかない。とは言え、僕に格闘技の知識はないし、ただぶん殴るだけじゃ、さっきみたいに的を絞れない。ちまちまやっても倒す自信はあるが、どこまでなら力を使っても大丈夫というラインが分からない現状、あまり長く戦うのは危険だ。さてどうしたものか。
ガーゴイルが枯れ枝のような腕を振り下ろす。懐に飛び込んで躱し、足払い。しかし、ガーゴイルはそれに耐え、怪我をした右腕を掴んできた。痛みで体が強張る。
「ちょ、ちょっとタイム、ストップ!」
聞き入れられる訳もなく、ガーゴイルは僕を持ち上げると、力任せに放り投げた。急速に迫る障害物。ぶつかる寸前で体を反転させ、木の幹へ垂直に着地した。
前を向けばガーゴイルが迫っている。横へ逃げるか、反撃するか。一瞬考え、すぐに行動に移す。
「もげろ!」
顔面へ跳び蹴り。ガーゴイルはこれも耐えて見せた。どれも力が乗り切れておらず、軽いんだ。
速さは僕の方が圧倒的に上。目も少しは慣れてきたから、回避に専念すれば攻撃が当たることはないと思う。でも避けてばかりじゃ倒せない。
思考を巡らせながらガーゴイルの手足をいなし、隙を見つけては拳や蹴りを繰り出す。我ながら人間離れしているなあ、と苦笑を漏らす。
ふいにガーゴイルが雄叫びを上げた。痺れでも切らしたのだろうか、大振りに蹴り上げた。余裕でそれを躱し、軸足を払う。僅かに公園の遊具を揺らし、横たわる漆黒の体。
チャンスだ。拳に力を込め、全体重を乗せてガーゴイルに振り下ろした。
大地が揺れ、ブランコがガチャンと音を鳴らす。地面にめり込んだ拳を忌々しげに睨み付け、顔を上げる。地面から数センチだけ浮いたソイツは無傷だった。拳が届く一歩手前で、翼を羽ばたかせて脱出したのだ。
翼があるのを失念していた。コイツは飛べるんだ。先に踏みつけて固定しておけば良かった。チャンスだと油断した。
ガーゴイルが高度を上げ、僕に目掛けて急降下を仕掛けてくる。攻撃方法を変えたらしい。さっきまでより動きが早いが、それでも避けられないほどではない。問題はさらに攻撃を当てにくくなったことだ。
滑空するガーゴイルに手を焼くこと数分、躱し損ねたガーゴイルのかぎ爪が頬を掠った。血が滲み、僅かながらに熱を持つ。
「……あー! もう面倒くさい!」
溜まったストレスをぶつけるように、空に向かって叫んだ。美衣の手前、なんとか被害を少なくして勝とうと考えていたけど、我慢の限界だ。軽傷で済まなくていい。コイツを倒せれば、もうそれでいい。もうコイツの相手をするのが面倒だ。
滞空し、見下ろすガーゴイルに向かって両腕を広げる。
「おーい。そんなところに逃げてばかりいないで、降りてきたらどうだ。なんなら左腕のように、その翼も落としてあげようか?」
ガーゴイルの目が血のような赤色に染まる。僕の安い挑発に乗ったのだ。
「お姉ちゃん!」
不安げに声を上げた美衣に視線を向け、微笑む。まあ見てろって。すぐに片がつく。
ガーゴイルが翼を大きく二回羽ばたかせ、その後今まで以上の加速度で急降下を始めた。心臓を鷲づかみにしようと伸ばされた手。先端には鋭い爪が並んでいる。当たれば痛いどころの騒ぎじゃない。それでも逃げるわけにはいかなかった。
ガーゴイルの指先が僕の体に触れる間際、半身でそれを躱し、左腕と脇腹で挟み組む。鮫のように尖ったガーゴイルの肌が摩擦によって僕の体を傷つけ、血を噴き出させる。思っていた以上の痛みに顔を歪める。
口の中が血の味でいっぱいだ。しかし、これでコイツの動きは止めた。
「つ、捕まえた……。痛いじゃないかこの真っ黒!!」
痛みの走る右腕に渾身の力を込めて、ガーゴイルの肩に振り下ろした。ベキッと耳障りな音を立てて、左肩から心臓に向かって手刀が食い込む。ガーゴイルは口から黒い液体を吐き出すと、仰向けになって地面に倒れた。
無言で睨み付けるなか、ガーゴイルはゆっくりとその体を灰に変えた。
「……やっと終わったー!」
大きく息を吐き、その場にへたり込む。頑張った。よく頑張ったよ僕、うん。自分で自分を褒める。
「……お姉ちゃん」
声に視線を上げると、目を釣り上げた美衣がすぐ傍で仁王立ちしていた。
「お姉ちゃん! なんであんなことしたの!」
「……へ?」
なんで怒られたんだ? 意味が分からず見つめ返す。
「あんな危ないことして、死んじゃったらどうするの!?」
ああ、なるほど。僕の肉を切らせて骨を断つ作戦がお気に召さなかったらしい。自分の姿を見下ろせば、制服は右腕と左腕、左脇腹の辺りが破け、そこを中心に赤く変色している。無事とは言い難い、むしろ満身創痍が当てはまる今のボクの姿。美衣に怒られても仕方ないか。
「だって、アイツがチョコマカチョコマカ鬱陶しかったから……」
それでも僕は言い訳をする。言い負かされたままでは兄として示しがつかない。
「鬱陶しいからって危険なことしていいと思ってるの!?」
「いや、それはよくないと思います」
負けました。
「だったらどうしてやったの!?」
「面倒くさかったから……」
「面倒くさいからって危険なことしていいの!?」
「よ、よくないと思います」
「じゃあなんでやったの!?」
……あれ、これってループ?
その後も僕と美衣は同じやりとりを繰り返した。いつになったら止めてくれるんだとウンザリしてきた頃、美衣はふいに僕を抱き寄せた。
「美衣、制服が汚れ――」
「もう、心配したんだから……」
美衣は泣いていた。目に涙を浮かべ、端から透明な雫を零す。それは頬を伝い落ち、僕の頬を濡らす。
「……ごめん」
僕はまったくこれっぽっちも死ぬつもりはなかった。しかし、見ているだけの美衣は、もし僕が死んでしまったらと、不吉な考えが頭をよぎったのかもしれない。
「ごめん。美衣」
背中に手を回し、ポンポンとあやすように叩く。それが効いたのか、美衣は表情を歪ませ、堰を切ったように、より一層声を上げて泣いた。
「司と美衣じゃないですか。一体こんなところでなにを……」
美衣が落ち着きを取り戻しつつあった頃、公園の前を通りかかったティルラがめざとく僕達を見つけ、駆け寄ってきた。ただ声をかけただけ。そんなティルラだったが、僕の様子に気付くや否や、表情を強張らせ、息を飲んだ。
「司、その怪我は……」
僕は何も言わず、視線を隣に積まれた灰の山へと向ける。それで全て察したのだろう。表情を幾分緩ませて、僕の頭に手を乗せた。
「よく頑張りました」
「ボロボロだけどね」
はにかむ僕に、ティルラは優しく頭を撫でることで答える。
「しかし、自然治癒するとはいえ、その怪我を放置しておくのは、あまり気分のいいものではありませんね」
そう言うと、頭にやっていた手を肩に移し、両膝を地面について目線を合わせてきた。背筋に寒いものが走る。
「な、なにかな。ティルラさん……?」
「なにって、口移しで私の生命力を送り込もうとしているのですが?」
さも当然と言ってのけるティルラ。顔が近い。
「司と私の生命力が合わされば、傷の治癒などあっと言う間です。さあっ」
「何がさあっだよ! くっつくな離れろ!」
「それは聞けません。早く傷を治して帰りましょう。もしかして破れてしまった制服で帰るのが恥ずかしいとか? ご安心を、ちゃんと制服の替えは持ってきてますので」
「なんで僕の制服を持ってんの!?」
ティルラの手にはたしかに僕の制服があった。一体どこから出したんだ。
「細かいことは気になさらず。さあ、私とキスをしましょう!」
「するかー!」
グイグイと迫ってくるティルラに、ガーゴイルを倒した最後の一撃以上の力を込めて押し返す。
「むっ。司もだいぶ強くなりましたね。それでは私も少々本気を……」
「出すなっ!」
ガーゴイルなんかよりも、ティルラの方がよっぽど強いしタチが悪い。僕はそれを再認識した。




