プロローグ
……誰? 鏡に映る少女を見てぽつりと呟いた。
黄金週間、またの名をゴールデンウィークと称される新年度一発目の大型連休を終えたばかりの朝。朝食の用意の前に顔を洗おうと、洗面台の前に立って鏡を覗き込んだときのことだ。半分閉じた目で見つめる先に映ったのは見慣れた自分の顔ではなく、見ず知らずな少女の顔だった。
細く形の整った眉の下にある瞳は右が青、左が赤のいわゆるオッドアイ。鼻と口はちょこんと小さく、唇は血色の良い綺麗なピンク色をしている。銀色の長い髪は蛍光灯の光を受けてキラキラと輝き、肌は磁器のように白く透明できめ細かい。まだ発展途上だと思われる体は全体的にとても小柄で、けれども手脚はすらっと長く、腰の位置は高い。引っ込むべき所は引っ込んでるし、出るべき所は出て……いや、うん、まあ、自己主張する程度には出ている。
少し、いやかなり奇抜な容姿のため、黒髪黒目が一般的なここ日本では目立って仕方ないんじゃないかと思う。いつか見た高価な人形のように、精巧な造りをした異国の人。それが鏡に映る少女だ。
一歩間違えれば警察へ通報されてしまいそうな視線を向けられても、彼女は微動たりともしなかった。むしろ彼女もこちらのことを観察しているようだ。
……ん、あれ、この子最近どこかで見たような。どこだっけ。
まだ寝ぼけていて頭がうまく回らない。眠気を覚ますため、冷たい水で顔を洗う。すっきりしたところで手近に置いてあったタオルで顔を拭……こうとしたけど手が届かなかった。いつもと同じ場所に置いたはずなのにどうしてと疑問に思いつつ、仕方ないので洗面台から一瞬離れ、タオルを掴んだ。濡れてしまった床は後で拭こう。
顔の水分を取ってから、もう一度鏡を見る。
…………お。あー。そうだ。そうだよ!
少女の顔を凝視すること数十秒。ようやく目の前の少女と記憶が合致した。
異国の人? いやいや。異国どころか日本人、見ず知らずどころか最近よく見る顔じゃないか。
夢のようだけど夢じゃない現実のこと。それを確認するように頬をつねってみると、鏡の中の少女も寸分違わない動きをして見せた。細くて白い指がフニフニと柔らかそうな頬をつねる。痛い。
うん。間違いない。夢でも何でもなく、やっぱりこれは僕だ。数日前、とある出来事で強制的に「はじめてましてこんにちは」してしまった、僕自身の今の姿だ。
以前の僕とは似ても似つかない容姿にクラスチェンジするという、理解しがたいファンタジーな展開。しかし、眼前にそれを突きつけられては認める以外の選択肢はない。
「はあ……」
などと割り切ってみせたものの、大きなため息が漏れてしまうのは、きっと納得ができず、受け入れられてないからだと思う。だってさっきからテンション下がりっぱなしだから。
もう一つ大きなため息をついて、自分の部屋へと戻る。姿見の前に立ち、着替えるためにパジャマを脱ぎ捨てる。
「ぬわっ!?」
白い肌が露わになり、思わず素っ頓狂な声を上げ、視線をそらした。
お、おお落ち着け。これは僕だ。僕の体なんだ。恥ずかしがることは何もないんだ。む、胸を見ても、穿いているパンツを見ても、別に問題ないんだ!
そう自分に言い聞かせ、真っ赤な顔のまま、まずはブラジャーを付ける。ちなみに僕の胸はブラジャーを必要とするぐらいに大きいわけじゃない。ただ、ティルラと美衣がクドクドと必要性を説いてきたので嫌々付けているのだ。後ろ手でホックをするのが難しくて時間がかかるし、付けるとゴワゴワして落ち着かない。肩や背中に回る紐のあたりが締め付けられて痒くなるし、ホントどうにかならないものか。
白色のブラウスに腕を通し、赤色のチェックのリボンタイを首に巻き、キャメル色のブレザーと赤を基調としたチェックのスカートを着る。その出で立ちは、何処からどう見ても僕が通っている私立蓮池高等学校の女子の制服だ。
素材がいいからか、制服はとても似合っていた。贔屓目なのを差し引いても、美少女にカテゴライズされるであろう女の子なのだから当たり前か。若干ナルシスト的な発言な気もするけど、自分だとは思えないのだから、この場合セーフだろう。セーフってことでお願いします。
「ふぅ……。いたいけな年頃の女の子が鏡を見つめて意味深にため息をつく。なんとも絵になる光景ですね」
「ぬなっ!? いつからそこにいたんだよ!」
慌てて振り返り、ギロリと睨む。廊下へと続くドアの前。僕と同い年くらいに見える褐色の肌をした長身の女性が、豊満な胸を抱えるように腕組みして立っていた。
金色の長い髪をツインテールに結い、赤い瞳をした目は若干釣り上がっている。寝起きのパジャマは胸元が大きくはだけ、豪華な谷間が余すことなく披露されている。凜々しくも色っぽいその姿は、世の男共を魅了しそうなものなのに、鼻にティッシュを詰め込んでいるせいで凄く残念に仕上がっている。
「もちろん、あなたがここに戻ってきたときからです」
「最初から!?」
まったく気付かなかった。相変わらず恐ろしいストーカー能力だ。慕ってくれるのは嬉しいけど、その愛が少しばかり重すぎる。
彼女の名前はティルラ。物心つく前から僕の面倒を見てくれている、言わば育ての親だ。僕の保護者はティルラになっている。ただ、見た目が見た目なだけに大っぴらに言うことはないし、彼女とは母親というより姉として接している。呼び捨てにしているのもそのせいだ。本人もそれを望んでいるようだし、特に気にしていない。
「で、何の用?」
「今日の司は冷たいのですね。それもまた良いのですが」
若干頬と鼻に詰めたティッシュを赤くするティルラ。朝から血の気の多い人だ。廊下や服を汚すようなことだけは勘弁してほしい。血液は結構落ちないんだから。
司と言うのは僕の名前だ。吉名司。私立蓮池高等学校二年に在籍する十六歳の高校生だ。
「用がないなら出て行ってほしいんだけど。ティルラもまだパジャマのままだし、着替えてきたら?」
「ふふっ。分かりました。カラーコンタクトと、司が昨日探していた靴下を置いていきます。これを付けてください」
それでは、とティルラは部屋を出て行った。コンタクトケースを手に取り蓋を開けると、中には瞳孔に当たる部分が青く着色されたカラーコンタクトが水の中に浮かんでいた。
へー。僕がオッドアイを気にしていたのに気付いていたんだ。さすがティルラ。僕のことは何でも分かってるんだなあ。
ティルラの下がった株が回復する。変な人だけど、基本的にいい人だ。さっそく赤色の右目にコンタクトを入れる。うん。少しはマシになったかな。鏡を見て銀髪碧眼になった自分の姿に頷く。さて、後は靴下を履けば……って、これニーソックスじゃないかっ。
ティルラが置いていった靴下は、太ももの上部あたりまでの長さのある物だった。昨日僕が探していたのは学校に履いていくような普通の長さのものだ。これじゃない。あー……でもまあいいか。もう履いちゃって脱ぐのは面倒だし、それに肌の露出面積が減ったおかげでさっきまでより恥ずかしくない気がする。
慣れない動作で身だしなみを整えて、鏡の前に全身が映るように立つ。履き慣れないスカートの裾を少しだけ持ち上げてヒラヒラと揺らす。何とも心許ない。
「はあ……」
またため息が出た。胸のあたりが重い。物理的な意味じゃなくて心情的な意味で。胸はブラジャーが必要ないんじゃないかと思うくらい小さいから、ほとんど重さを感じないのだ。
「なんでこんなことになったんだ……」
天井を見上げて、その向こうに広がるであろう青空に思いを馳せる。
今の僕は吉名司。何処から、誰からどう見ても女の子だ。
だけど、これでも数日前までは吉名努というれっきとした男だったのだ。