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魔王の娘、騎士に捕獲される

作者: 茅山ロウ

 枯れ木の森。魔物も人間も寄り付かない地はいつでも静寂に満ちている、はずだった。

 眼下には似たような恰好をした人間が複数。その数およそ二十。無遠慮に森へ侵入して来たらしい奴らは、程なく森の半分を踏破しようとしていた。

 これ以上進ませる訳にはいかない。私は翼を広げ羽ばたいた。

 行く手を阻むように近くの毒沼へと降りたつ。私を見るなりどよめいた人間達は、しかし一人の人間の指示により素早く隊列を整えた。毒沼を半ば囲むように動いたそれらを鼻で笑いながら、水面を音もなく歩く。鈍く広がる波紋が私よりも一足早く人間へと辿り着いた。


「――下がれ、猛毒だ!」


 陸に立つ人間の足元を絡め取ろうと伸びた波紋は銀色に輝く剣で消し飛ばされる。辺りに飛び散らかすだけならその飛沫を再利用する事もできるのだが、見事に一滴も残さず蒸発させられてしまっては不可能だった。

 ――なんとも立派な剣をお持ちなことで。

 しかしこれで終わりではない。波紋は私が一歩進む毎に生み出されるのだ。

 第二波、第三波と毒の波紋が絶え間なく人間を襲う。狙いは同じだ。たとえ剣が優れていようが扱うのは所詮人間。立て続けに浄化の力を使うのはさぞ厳しい事だろう。

 人間には珍しい黒髪を揺らしている鋭い目つきの男。一声で周囲をまとめ上げこちらの仕掛けにいち早く反応したのだ。今この場にいる二十程の人間をまとめ上げているのはこの男で間違いないだろう。群れを相手にする時は頭を先に潰すのが基本である。

 ――さあ、いつまで持ち堪えられるかしら?


 コツリ。私の足が軽やかな音を立て陸を踏む。人間はもう目と鼻の先だ。油断なく剣を構える男を少し顎を上げることで見下し、大きく胸を張って背から生える漆黒の竜翼を広げた。

 人間と敵対する魔物の中でも、竜族は最も恐れられる一族の一つだ。その血を半分、私はこの身に宿している。

 ――さあ、怯えなさい。そして許しを請うがいい。

 思った通り、人間達の多くは私を見て怯み、黒髪の男は小さく舌打ちをした。しかし気丈にも剣を構え続けるので、私は駄目押しと言わんばかりにとっておきを教えてやることにした。


「矮小な人間共! 無作法にも許可なく我が領地に踏み込んで来た愚か者共! この私が誰かわかっていないようなので教えて差し上げるわ! 私こそ! 長きに渡り魔界を統治する偉大なる魔王様の、愛娘! さあ逃げ惑え! 陰惨なる死を迎えたくなくば――ぎゃんっ!!」


 高らかに宣言している途中で、私は黒髪の男に剣の柄で殴られ意識を失った。




 鼻の奥を刺すようなキツイ臭いで目を覚ますと、目の前にあのこわ、じゃなくて小賢しい黒髪の男がいた。手には刺激臭の漂う小瓶を持っている。恐らく気付け薬だろう。

 反射的に身を引こうとするも叶わなかった。私は無様にも天井から鎖で吊るされていたのだ。両手首と両足首をそれぞれ束ねるような金属の手枷も、石畳に僅かについた裸足の爪先も酷く冷たい。靴を奪われたらしい。よくよく自分の姿を見てみれば、服もほつれた襤褸布一枚に変えられていた。辛うじて服の形はしているものの、絶対に一枚で着るべきものではない。お風呂上がりの方がまだマシな恰好をしている。こんな姿を他の魔物に見られたら羞恥で死んでしまうかもしれない。

 失意のまま顔を上げると男の向こうには鉄格子が見えた。辺りが薄暗いのは夜なのか地下なのかはわからないが、どう見ても牢屋だ。

 人間に捕まった。その事実が重く頭に横たわる。

 状況を把握し俯いた私をどう思ったのか、男が口を開いた。


「魔王の愛娘と言ったな。それは事実か」


 男の問いに目を瞠る。話している間に攻撃してきたのでもしかしたら耳が遠いのかと思っていたが、どうやらきちんと聞いていたらしい。その上であの暴挙に及んだのは解せないが、話が通じている事に気を良くした私は調子を取り戻し鼻で笑ってやった。


「っそ、そうよ! 私にこんな扱いをしてタダで済むと思わないで! さっさと解放しなければ恐ろしいことになるわよ! 今なら――」

「そうか、ならお前は何故あんな所にいた」

「え? 何故ってあそこは私の領地で……」

「ほう。人間界と魔界の境にある枯れ木の森が? 何の戦力も配置していない最前線とも言えないあの場所が? まさかあんな場所に魔族がいるとは思わなかったぞ。それも魔王の愛娘とやらがな」

「……そうでしょう! まさか私がいるとは思ってなかったお前達は隙だらけだったわ!」

「しかしお前はその隙を活かす事もできずのこのこと近付いてきて無様に負けた。しかも俺一人に、一撃で」

「この卑怯者! 私はお前達に慈悲をやろうとしたのに! 言い終わる前に攻撃を仕掛けるなんて恥を知れ!!」

「先に毒を仕掛けてきたのは自分だろうに」

「……不法侵入だもの! あそこは私の領地だもの!」

「それも背後から仕掛けた訳じゃない。お前が自ら詰めてきた距離で、真正面から、軽く小突いただけだろうに」

「軽く!? あれが!?」


 とても痛かった。しかも速すぎて正面からだろうと全く反応できなかった。

 この男は本当に人間なんだろうか。いや、少し話を盛っているに違いない。男とはそういう生き物なんだって友達のポイズンスライムが言ってた。そういえばあいつ、あの時毒沼でバカンスしてたはずなのに頭の先すら出さなかったな……。

 友の裏切りに愕然としていると眉間に皺を寄せた男が再び口を開いた。


「お前のような弱者を魔王が気に掛けるとは思えん。お前は何番目だ。名は何という」

「……弱くないもん」

「ほう。この人間のような髪色で?」


 ピクシーの寝起きのような声しか出なかった私の髪が一房掴まれた。ゆるく波打つ腰までの長さのそれは、薄暗い牢屋でも僅かな光を集めキラキラと輝く。今は松明の炎を反射しているためにオレンジがかっているが、陽光の下に出ればそれこそ陽光と変わりない色に輝くのだ。

 枯れ木の森に侵入した人間達のほとんどと同じ色。それは人間の特徴とも言える魔力の低さの象徴だった。

 反対に、魔力が高い魔物程暗い色を持つ。今代の魔王様――お父様は、光の反射もしない程の黒髪を持っている。他の追随を許さない膨大な魔力でもって強大な魔術を行使し、強者揃いの魔界で皆をひれ伏せさせるのだ。


 目の前の男を見た時、一種の羨望を覚えた。お父様程ではなくとも黒としか言いようのない色は、魔物にとって大きなステータスとなる。もし私がこんな色を持っていたのなら、あんな辺境の地へ捨て置かれなかったに違いないのだ。

 それでも、私はこの金色をいらないとは言えない。


「っお父様は、かわいいって言ってくださったもの……」


 魔物にとっては恥でしかないこの色。それでも伸ばしているのは、以前お会いした時に頂いた一言が原因だった。

 ――人間のような髪だな。なんとも愛らしい――

 喉の奥を低く鳴らすように笑みをくださった。その思い出だけで今まで生きてきた。


「それは皮肉じゃないのか。いつの事だ」

「何でお前などに言わなければならないの?」

「死にたいのか?」

「八年前よ!」

 渾身の毒攻撃を軽々薙ぎ払った剣をちらつかせながら言われたので間髪入れなかった。

「八年間、お前は魔王に会っていないんだな」

「……目を閉じればいつもそこに」

「もういい。よくわかった」


 何故か頭を撫でられた。

 おかしい。俯いていたので鼻をすすったのは気づかれていないはずだ。


「子が魔王に謁見を許されるのは十歳の時。まだ十八歳なら二百番目どころじゃないな。知らん訳だ」

「ちょっと、なんで人間がそんなこと知ってるのよ!」

「知らんと言ってるだろう。で、何番目だ。まさか三百超えか?」

「失礼なこと言わないで! 私は今代魔王様の第二百五十子よ!」

「大して変わらないじゃないか。名は?」

「…………」

「よくわかった」


 溜息交じりの嘲笑。嫌という程覚えがある。

 そうだ、私は弱い。だから名前なんて頂けるはずなどなかった。

 既に六百人を超えたらしいお父様の子の中で、名を授かったのはたった八人程度と聞く。それは皆魔王就任最初期に出来た子で、大層強く優秀だったらしい。しかし今では二人しか生き残っていないそうだ。

 生存率の低さはほとんどの子が腹違いである事が最たる原因だ。母親達による権力争いによって弱いものから淘汰される。強い者でも徒党を組んだ母親達に殺されることもあるらしい。

 数こそ六百を超えるが、それはあくまで生まれた数に過ぎない。十年生き抜く事すら難しいので、いつしかお父様への謁見も十歳を迎えてからと定められたのだ。

 八年前の生存数は私の上に五人、下は確か四十人くらい。その後は辺境へ飛ばされたのでよく知らないが、当時の私は実質第六子とされていた。とはいえ魔王は世襲制ではないので生まれた順番など重要ではないのだが。

 お父様にお会いできることなく死んでいった子達を思えば、私は幸運だった。人間の様な髪のおかげで、嘲笑の的にはされたが数多の母親達の敵としては認定されなかったのだ。

 しかしお母様だけは違った。取るに足らないと存在すら無視される子を恥じ、幼い頃から何度も殺そうとした。それでもなんとか生き残っていたので、きっと本気ではないのだと思っていた。私ができない子なので、できるように脅して発破をかけている、ちょっと厳しめな教育方針なのだと思っていた。


 その考えが覆されたのは、十歳。お父様の手が私の髪に伸び、珍し気に頭を撫で、貴重なお言葉をくださった翌日だった。

 朝食時、お母様の姿はなく妙な臭いのする食事だけがテーブルに並んでいた。隠す気もない毒物に困惑し、何かの冗談かと思ったが、いつの間にかそばにいた執事が料理を無理やり口の中に捻じ込んで来るではないか! わざわざ料理に混ぜる必要性が全くない。これなら毒入りの小瓶を呷らせた方が簡単だろうに。

 長い時間をかけて完食させられたのは確かに苦痛だったが、その後の方がつらかった。苦痛と発熱で寝込む私に執事は毎日三食、食事入りの毒を運んで来たのだ。もちろん暴れた。しかし執事は強かった。私より三つも年下なのに全く歯が立たないので、本当に情けない限りである。私の存在は尊い竜族の血筋であるお母様をどれだけ苛ませただろう。

 死んだ方が、なかった事にされた方がいいのだろうな。そう思った。だけどやっぱり、死にたくなかった。数か月経っても、私は生き延びていた。


 毒耐性を得たとどこからか聞きつけたお父様に枯れ木の森を任された時は、正直ほっとした。いつ毒以外の殺害計画を練られるかわかったものではなかったし、誰の目にもつかない場所にいたかった。

 枯れ木の森は嘗て人間との大戦争が起きた地であり、そのせいで魔力が枯渇し代わりに毒が満ちた地である。棲みつく魔物などそうそういるものではない。もちろん普通の人間なら近づいただけで死ぬので、人間と争う可能性などほとんどない。事実上の左遷である。


 枯れ木の森での生活は案外悪くなかった。何もないという事は害もない。静寂の中では嘲笑は存在しない。お父様やお母様は遠い存在になってしまったが、煩わせる事もない――はずだった。

 だのに何故か、人間が現われた。人間を見るのは初めてだったが、群れるという噂は本当らしい。皆一定の間隔を空けてつかず離れず整った列を作り森を進んで行くのを、丘の上から見ていた。人間は脆弱だと聞いていたが、群れると中々厄介だとも聞いた事があるので、酷く恐ろしく感じた。

 ――大体、ここでは人間は息をする事もできないんじゃなかったの?

いつ苦しんで死ぬのか恐々観察してみても、奴らはいつまでもピンピンしていた。

 これはまずい、非常にまずい。

 ここは魔界と人間界の境だ。ここは私の領地だ。この人間達をこのまま魔界へ通してしまったら、もう穏やかな生活は送れない。何もせず震えていては、裏切り者の烙印を押されてしまう。母の殺害計画なんてぬるいと感じるような無残な処刑をされてしまうに違いない。

 魔物と人間のどちらが恐ろしいかなんてわかりきっていたので、私は思い切って人間の前に降り立った。念には念を入れて森で一番濃度の高い毒沼で仕掛けることにした。その結果が――アレだ。

 私は大層狼狽えた。こんなの思ってた人間と違う。

 内心恐怖で息も絶え絶えになりながら奥の手ナナヒカリまで使ったのに全然効かない。私の立派なところは血筋だけなのに!

 しかも黒髪の男は最後まで聞いてくれなかった。今まで鼻で笑われた事は数多くあれど、話を途中で遮られたのは初めてだった。魔物以上に無慈悲な男である。




 一体私はどうなってしまうんだろう。

 いつの間にか男はいなくなっており、薄暗い牢屋に一人残され最早虚勢を張る事すらできない。

 こんな頼りない布一枚で、四肢を拘束されてはできる事など何もない。そういえばポイズンスライムから聞いたことがある。人間は魔物を捕らえると皮を剥いで服にしたり、爪や牙を抜いて武器にしたりすると。

 考えれば考える程わけがわからなくて怖くなってくる。加工されるなんて冗談ではない。

 帰りたい。森に帰りたい。何もなく静かな、私の棲み処。あそこだけが、私の安らげる場所。

 郷愁に囚われながら冷たい石畳を見つめていると、視界の端で何かが動いた。目を凝らす。黒くてよく見えないが私の腕くらいの太さの……蛇? それにしてはカサカサと妙な音がする。段々と近づいて来るソレの全貌が漸く見えた時、思わず体を丸め鎖にぶら下がり石畳から足を浮かせた。

 ――きもちわるい!!

 蛇のように細長いそれは蛇よりも平たく鈍い光沢を放ち、多くの節を持つ胴体からこれまた多くの細い脚が生えていた。妙な音はあの過剰な足同士がぶつかって出しているらしかった。毒を呷った時よりも強烈な悪寒と吐き気に襲われる。まさか人間界にこんなにおぞましい生物がいたなんて。

 どうにか鎖と一体になってやり過ごそうとするも、事もあろうにあの多足は蛇のように頭を擡げた。その目と鼻の先には剥き出しの私の爪先が――


 気付いた時には、多足はいくつかに分断され白い体液と数本の足を撒き散らし動かなくなっていた。汚れていない石畳の隅に立っていた私は首を傾げて手元を見る。金属の手枷から鎖がぶら下がっていた。鎖の先は天井に繋がっていたはずなのだが、どうやら鎖素子が破綻したらしい。

 バキッ。

 思うところがあり両腕に力を入れると、なんと手枷の接合部分が砕けた。なら次は足枷だ。今度は上手くいかなかったので鉄格子を支えにしながら踵を石畳に叩き付けた。それなりに大きな音と共に足枷が砕け、ついでに石畳に大穴が空いた。

 どうやら人間の使う道具や建物は魔界の物に比べて脆いらしい。執事に毒風呂に沈められた時に付けられた拘束具は全く外せなかったので、今回も無理だろうと端から諦めていたのがいけなかったらしい。

 鉄格子も丁寧に曲げて隙間を作り、無事私は牢屋を脱出した。途中、何度か人間に遭遇したが、皆何故か私を見るなり鼻から血を噴いて倒れたので事なきを得た。

 もしかしたら、人間にとっては私自身が毒なのかもしれない。そうだとしたらあの黒髪の男とその連れの説明がつかないが、枯れ木の森でピンピンしていた時点でおかしいので、人間の中でも精鋭の部類なのだろう。そうでなくては困る。あんな規格外がそこらにいては堪ったものではない。

 階段を上がると白い壁で出来た通路の先に柔らかな陽光が見えた。枯れ木の森の空は毒ガスで曇っているのでこんなに明るいのは久しぶりだ。

 誘われるように外へ出る。暖かな光が私を包んだ。


「ふあ……」


 思わず気の抜けた声が出た。

 枯れ木の森こそ安住の地だと思っていたが、久しいぬくもりにぐらぐらと心が揺れる。ゆっくり目を閉じて野に咲く花のようにじっと陽光を全身に受ける。次第に辺りが騒がしくなってきた。

 野太い悲鳴と怒号。バタバタと誰かが走り回っている音。ここが人間界であることを思い出して目を開く。案の定、遠巻きながらも人間達が私の周りを囲んでいた。

 ギョッとして竜翼をばたつかせる。逃走を意識しての事だが実はこの翼、小高い場所から助走をつけないとまともに飛べない。もっと正確に言えば、滑空と緩やかな落下しか出来ない。

 だって左右それぞれ目いっぱい広げても腕の長さと同じくらいの大きさなのだ。全身を支えるには、明らかに小さい。森で広げて見せたのだって血筋を示すための威嚇でしかなかった。

 そういえばあの時は威嚇が効いたのを思い出し、大きく翼を広げる。少しでも大きく見えるように、ピンと背筋を伸ばし胸を張りながら。

 すると正面にいた人間達が十人程、呻きながらその場に蹲ったり卒倒したりした。

 ――いける! やっぱり人間からすると私は強者なのだ! 例外はあの黒髪だけ! 奴さえいなければ私は加工なんてされない!

 とはいえまだ周囲には大勢の人間がいる。このままでは逃げるのもままならないので、倒れた人間に「しっかりしろ!」と声を掛けていた人間へと素早く走る。キラキラとした金髪の下の碧眼が見開かれたがもう遅い。隙だらけの人間の首に腕を回し、背後から密着し拘束してやった。


「愚かな人間共! こいつを無事で返して欲しくば道を空けなさい!」

「……っき、君!」

「え? 苦しい? これで大丈夫?」


 拘束している男の首から上が耳の先まで真っ赤になっていたので、首が締まってしまったかと少し力を緩めた。余り力を込めているつもりはなかったが、人間の方が頭一つ分背が高いので体重をかけるようになっていたのかもしれない。

 締め落としては運ぶのも大変なので人間の耳元で問いかけると、人間は大きく身震いした。


「っひぃ! い、いやそうではなく、あ、当たって」

「当たって? あ、毒当たり? やっぱり私、毒放出でもしてるのかしら」

「ち、ちが……っ、も、もういい! 耳元でしゃべらないでくれ!」


 人間が情けない声で懇願してくるので、とりあえず口を閉じる事にした。もしかしたら吐息にも毒が含まれるのかもしれない。となると逃亡の途中でこの人間は力尽きてしまう可能性がある。私の生命線だ、大事にしなくては。

 決意新たに人間を優しく抱きしめる。するとなんたる事か、人間は「ぴ」と小鳥の囀るような声を発し意識を失った。解せない。重い。


「ぶ、部隊長――――!!」

「部隊長がやられた!! なんていやら……恐ろしい魔物だ!!」

「痴女め! よくも部隊長を!」


 周囲の人間がザワザワとうるさい。チジョって何? 首を傾げた途端何人かの人間が倒れた。更に騒然とする人間達。全く以て意味がわからない。


「て、天使か……?」

「騙されるな! 魔性の物だぞ!」


 とりあえず大分数は減ったので何やら騒いでいる間に逃走を試みる。しかし意識を失った人間が非常に重い。運べない程ではないけれど、これなら捨てて一人で逃げた方が逃げ切れる可能性が高くなる気がする。

 逡巡。慣れない人間界で得体の知れない人間達に囲まれ、判断が遅れた。


「非力だと判断したが、脱獄するだけの力はあったのか」


 僅かに嘆くような声色は背後から届いた。まだ距離はあるが、その声の持ち主を理解してしまったせいで思ったように身体が動かない。あれは私が敵わない相手なのだ。

 恐怖に震える身体で出来た事といえば、捨てようとしていた人間を抱え直すくらいだった。いつの間にかその場にへたり込んでいたので人間も半ば地面に放り出されている。しかし生物にとって大事な頭部をしっかり胸に抱いているので、仲間の命を惜しく思うならばあの男とて迂闊な事はできないはずだ。

 その体制のまま上半身だけで振り向く。思った通り、黒髪の男が立っていた。背後には数人の人間を従えている。その誰もが、私と囚われの人間を見て顔を引き攣らせた。どうやら効果があったらしい。一安心である。

 しかし黒髪の男だけは呆れを含んだ顔で、倒れた人間達を見渡していた。


「お前達、なんという体たらくだ」

「騎士団長! 部隊長がサキュバスの餌食に!」

「サキュバスなんぞいたらお前達は一息吐く間もなく全滅していただろうな。……ルシアスは多少の耐性はあっただろう、どうしてそうなった」

「倒れた者達に気を取られている隙に背中にへばりつかれ……」

「もういい、よくわかった」


 腕の中の人間を見下ろす。この金髪には名前があるらしい。少し羨ましくて何とはなしに「ルシアス」と呟く。するとその目がカッと開いた。私と目が合うと、一度大きく痙攣した後再びその目は閉じられた。一瞬の事である。

 眉間を指で解す黒髪の男。その後ろから赤髪の人間がひょこっと顔を出した。執事と同じくらいだろうか、私よりも若く見える。丸い緑色の眼が私を見た。


「あれ、服が。団長が剥いだんですか? 割と戦犯では?」

「あんな毒物残しておけるか。それこそ本当に死人が出る」


 枯れ木の森の水場といえば余す事なく毒物なので、洗濯も勿論毒で汚れを落とすというよくわからない状況なのである。服を新調する機会もなかなかないので、私の服はどれもこれも長年毒に晒されたものだ。滲み出る毒素があっても不思議ではない。それだけにやはりあの男達があの場でピンピンしていた事が不思議だ。


 あの時あの男が何をしたのか、実はよくわかっていない。液状の毒が跡形もなく消えた。わかるのはそれだけだ。蒸発したのか浄化されたのか、どこか遠くの場所へ飛ばされたのか。何にせよ特別な力を宿した剣でそれを行ったのだと、あの時は思った。けれどそれも間違いかもしれない。


 魔物を加工して作った道具は往々にして特別な力を宿すものらしい。だから人間は魔物を狩り、道具を作り魔術に似た力を行使し、また魔物を狩る。とんでもない蛮族共である。

 しかし強力な道具を作るには強力な魔物が必要なはずで、あの毒沼の毒に耐えられる魔物などそうそういるものではない、はずなのだ。

 陽光の下佇む男の腰には、あの時と同じ剣がある。しかしそれはこの場にいる他の人間達も同じだった。そんなに大量に対強毒剣が出回っているとは考えたくない。勿論ルシアスも持っていたので、それを手元に手繰り寄せた。やはり何の変哲もない、鉄の剣だった。

 ならば黒髪の男が行使したのは魔術に似た力ではない。魔術そのものだということになる。


 陽光の下、黒髪の男が佇んでいる。

 陽光を浴びて猶、黒髪だった。

 金髪の魔物である私は、水を揺らすくらいの魔術しか使えない。

 黒髪の人間は、物質を変化或いは消滅させる程の魔術が使える?

 その可能性に思い当れば、恐ろしくて仕方がなかった。魔術とは魔物における強さの象徴。生きる術。

 あんまりだ。人間が魔術を使えるなんて聞いていない。これでは私に勝ち目など一つもないではないか。

 男の背後にいた人間達がいつの間にか扇状に広がっていて、私は再び包囲されていた。

 あまりの不安と恐怖で唯一の生命線にぎゅうと縋る。黒髪の男が目を細めた。


「ルシアスが目覚めたら、自分の身に何が起きていたか事細かに教えてやろう」

「……ルシアス、の命が惜しいならどこかへ行って。私が見えないところへ。私から見えないところへ」

「随分弱気になったな」

「じゃなきゃルシアスと一緒に死ぬ」

「成程、追い詰め過ぎたか」


 仲間を殺すと言ったのに、男は平静を崩さない。包囲が少し狭まった。

 ポツリ、ルシアスの金髪に水滴が吸い込まれていく。


「来ないで、来ないでよ。私に近付かないで。私の森に入らないで。私を森へ帰して。私にはあそこしか居場所がない」

「姿を現さなければよかった。そうすればお前は今でもあの森にいられただろう」

「人間を魔界に通したと知られたらあそこにいられなくなる」

「だろうな。役立たずの裏切り者は処分される」

 男は鼻で笑った。すんと鼻を鳴らす私と見比べて、赤髪は引いたように男を見ている。

「どう足掻いてもお前は森に帰れない。ルシアスを殺しても、人質として生かしておいてもな」

「? どうして」

「自分の首に手を当ててみろ」


 言われた通りにしてみると、何か硬質なものに指が触れた。呼吸が妨げられない程度の金属の環が首に嵌っている。全く身に覚えがない。意識を失っている間に付けられたのだろうか。

 また恐怖が込み上げて来てがむしゃらに指先で環を引っ掻く。繋ぎ目のないそれはビクともせず外せる気配がない。それでも諦めずに引っ掻いていると指先に血が付いた。首を引っ掻いてしまったらしいがそれどころではない。これは絶対に良くない物だ。


「それ以上は怪我では済まないよ」


 環に集中している私の両手首を誰かが掴んだ。驚いて目の前に視線を戻すと、いつの間にか起き上がっていたルシアスがいる。それほど強い力ではなかったが、生命線が牙を剥いた事実に愕然としてルシアスを見つめる。彼は頬を真っ赤に染めて目を逸らした。

 黒髪の咳払いがわざとらしく響く。


「これ以上の無様を晒さないでくれて感謝する、ルシアス。――それは地縛の首輪だ。主に流刑の罪人や労働奴隷が仕事場から逃げ出さないように装着させる。定められた場所から離れようとすれば徐々に首が締まり、力づくで外そうとすれば脳に作用する術が発動し昏倒する。この場合何かしら後遺症が残るのが常だ。俺が許可するか息絶えるまで取り外す事は叶わない。お前はこの町から出る事はできない」

「――っな、なんっ、で」

「こんな事をするかって? お前が必要だからだ」

「!?」


 カラカラに乾いた喉から声を絞り出すと信じられない事を言われた。最早意味がわからない。皮を剥いだり加工したりと、殺す以外に魔物の用途があるというのか。自慢じゃないが私にできる事などほとんどない。誇れるものといえば血筋と、たまたま生き残っている運の良さと、毒耐性くらいだ。

 まさか新種の毒実験でもしていて、実験台を必要としているのだろうか。笑顔で毒を流し込んでくる執事を思い出してホロホロと涙が零れた。

 手首を解放してくれたルシアスが挙動不審になりながらハンカチを差し出してきた。こんなに優しくされたのは生まれて初めてかもしれない。ありがたく受け取りながらも離れていく手が名残惜しくて片手でその指先をきゅっと握る。ルシアスは三度、地面に強く頭を打ち付けた。

 黒髪が頭痛を堪えるように頭に手を当てている。


「安心しろ。何もしないし、何もしなくていい。衣食住は与えるし、魔界から刺客が来た時は可能な範囲で護ってやる」

「! わかったわ、私を太らせてから食べる気なのね!? 人間は肉を食べるために自ら生物を飼育するって聞いたことある!! 信じられない! なんて残酷なの! この人間!!」

「何もしないと言っているだろう。お前はただこの町にいればいい。与えた私室に四六時中閉じこもるのは許さないが」

「???」

「お前にとっても悪い話ではないはずだ。ここの奴等はみんな気がいいし、お前に危害など加えられない。だからお前も約束しろ、この町の人間に武力行使をしないと。約束できるなら……そうだな、慣れない人間界は不自由だろうからルシアスを世話係につけてやる。どうだ?」

「だだだ団長!?」


 額から血を流しているルシアスが動揺と抗議を綯交ぜにした声を上げた。しかし男は取り合わず、じっと私を見下ろしながら返答を待っている。

 私は提示された内容を小さく復唱しながら吟味する。男はどうだと提案するように言ったが、実際は選択肢などない。いまいち思惑のわからないところは恐ろしいが……。

 ちらりと視線を落とす。私の手は未だ心細げにルシアスの指を握っていた。視線を上げた先で目が合う。その視線は何度か左右に揺れていたが、私が何か言おうとしているのに気付いたのかしっかりと私へと固定された。気遣いが滲むそれに背を押され、口を開いた。


「ルシアス」

「な、なにかな?」

「やさしくしてくれる?」

「ゃブゴッホッ」


 ルシアスが妙な噎せ方をした。それがなんだか服毒後の自分と重なったので咳で大きく揺れる背中を撫でてみる。すると小刻みに震え出し、咳が早めの深呼吸へと変わった。

 そのまま待つこと暫し。ルシアスは姿勢を正し私に向き直り、彼の指を握る私の手に更に手を重ねた。

 よくよく見ると私よりもずっと大きな手だ。ただ重ねられているだけなのに包み込まれているような感覚で、ぽかぽかする。


「君の、力になろう。約束する」

「! あり、がと、ルシアス」


 ルシアスの言葉に何度も頷く。

 優しく微笑まれ、握られた手に勇気づけられ、私は黒髪の男に返答した。


「約束する。ここの人間に対して報復以外で武力行使はしないわ」

「まあそれでいいだろう。ベルトラン、この女の日用品を用意しておけ。ルシアスは南端の客室に案内してやれ」

「はっ」

ルシアスは短く返事をしたが、ベルトランと呼ばれた赤髪は少し眉を顰めている。

「了解しましたけど、女っていうのあんまりじゃないです?」

「だがこいつに名はない」

「えー、でも呼ばれたい名前くらいあるでしょう? ね?」

「ないわ」

 魔物にとって、名はもらってこそ意味があるものなので、即答した。

「あ、じゃあ団長がつけたらどうです。持ち主でしょう。いくら魔物だからって、一緒に暮らすのに女呼ばわりじゃ顰蹙買いますって」

「…………」


 ――いらない! と叫びたかった。しかし眉間に皺を寄せてこちらを睨む男がとても怖かったので、ルシアスの手を強く握るにとどめた。男の顔は酷く面倒そうに、しかし真剣に悩んでいる、ようにも見える。

 沈黙が辺りを支配した。


「――ガザニア」

 ポツリ、沈黙を破ったのは男だった。


「これでいいだろう。各々仕事に戻れ。手の空いている者は倒れている馬鹿共を叩き起こして地下牢の掃除をさせろ」

 誰の返事も待たずに男は背を向けた。その背に思わず声を掛ける。

「ダンチョー」

「お前に団長と呼ばれる筋合いはない。俺の名はサードだ」

 嫌そうに振り返った男、サードはふと思い出したように口元だけで嘲笑して見せた。


「ああそうだ。俺は例外でいいぞ。ここが嫌になったらいつでも殺しに来るといい。そうすれば晴れて自由の身だ」


 ――出来るものならな。と遠くなる背から聞こえた気がする。

 咄嗟に首を横に振った。生存本能だけは強いのだ。無意味に身を危険に晒すことはしない。何せ私は弱いので。

 強者に弱者は敵わない。そこに魔物と人間の垣根はない。だから私はただ、サードが誰かに殺されることを心の中で祈ることにした。


「――ニア……ガザニア」

「! あ、私!? なあに、ルシアス」

「す、すまない。もう少し離れてくれると……」

「? はい」


 無意識に脅威から隠れようとしていたらしい。私はルシアスを半ば盾にするように、その腕にしがみついていた。ルシアスが震え始めていたので言われた通りに少し離れる。そして予てより抱いていた疑問を口にした。


「あの、もしかして私、毒とか放出してる? 故意にやってるわけじゃないのよ。これって武力行使に入ってしまわないわよね?」

「毒! その言い方良いね!」

 ベルトランが笑いながら言う。

「大丈夫、その毒じゃ僕達は死なないから! どんどんやってくれ、それが君の役目だ!」

「いや、節度は守ってもらわないと……」

「あなた達は守りすぎなんですよ!」


 ルシアスがささやかな抗議を入れたが、取り合ってもらえなかったようだ。私と執事との関係に重ねてしまうものがあり、ルシアスに強い同情と共感を覚えた。

 ベルトランは無害そうな笑みを浮かべて両手を大きく広げる。その様は周囲で倒れ伏している人間達を示しているように見えた。


「魔王の娘さん、改めガザニアさん! 人口の九割以上が男の、騎士の町バルトリッタへようこそ! 武一辺倒で慎み深い男達に毒耐性をつけてやってね!」


 彼はよく通る声で私を歓迎してみせた。

 私は困っているように笑うルシアスを一度見てから頷く。

 こうして、人間との生活が始まった。


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