雷帝は誓う
最強無敵の妹。
最弱必敗の姉。
周囲全ての期待と関心は、妹に向けられ。
誰からも何も向けられなくなって、早11年。
今日も校舎裏の日陰で、のんびりのんのん微睡み中。
と、空が真っ暗、黒雲に呑まれ、幾万の雷と共に主が降りてきた。
紫電を纏う、大きな純白の狼、雷帝さん。
血を垂らしながらずしずし歩いてきて、私の襟をくわえて、丸まって、お腹にもたれ掛からせてくれる。
6年前、平原で寝そべっていた所に現れて以降、毎日お昼寝している所に降ってくる。最初は、少し離れた所で寝息を立て、そのうち触れ合う距離になって、いつからかこうして密着してくれる様になった。
嬉しいけれど、なにがしたいのか分からない。結界を張るのだって、多少なりとも魔力を使うだろうに。……また、怪我してる。
血の出所は、脇腹。結構な深さがある。昨日は額。一昨日は右前脚。その前は左目。その前は……、毎日、とにかく傷を作ってくる。お腹に穴を開けて来た時は、生まれて初めて、盛大に泣き喚いた。
そっと、口付けを落とす。
傷口が光り、収まって、そこにはもう、傷はない。
こうすることで、傷を治すことができる。
その時、そう気付いた。
とにかく、舐めることしかできなかった。なきじゃくりながら、鼻水垂らしながら、噴き出す血を浴びながら、何か叫びながら、一心不乱に舐め続け、気を失い、目を覚ましたら、治っていた。
穏やかな物に変わった寝息を聞きながら、目を閉じる。
誰かの声が聞こえた気がしたけど、確かめる前に、意識は落ちた。
狼はただ、静かに暮らしたかった。
生みの親の為に力を振るい、しかし、強大過ぎる故に地の底に封じられ。
長い年月を経て、一人の少女によって救われ。
少女と、仲間と過ごし。
少女の最期を、皆と涙しながら看取り。
そうして、それぞれに世界を巡る中、いつしかあらゆる種族から狙われることになり。
これが世界なのだ、と。
強大な己は、小さく大きい、弱く強い、たった一人の少女に守られていたのだ、と。
心が潰れてしまいそうなまでに痛感し、悲しみの涙を流し。
――ただただ、静かに暮らしたかった。
少女の温もりを感じながら、少女に温もりを与えながら、茶々を入れてくる仲間に文句を言いながら、けれど、ただどこまでも、穏やかで在ることができた、あの日々の様に。
諦めていながら、諦められなかった。
何年、何十年、何百年、何千年経とうとも、少女の魂は、永劫に現界しない。
もう二度と、温もりを分かち合うことはできない。
柔らかな笑みを向けられることはなく、返すこともできない。
声を聞くことも。匂いを感じることも。仄かな甘さを味わうことも。
諦めることは、できなかった。したくなかった。
心を埋めてくれる、少女に代わる何かを、探し続けた。
ある日、狼は傷を負った。
十にも満たない、幼き少女が放った一発の土属性魔法が、首筋を掠った。
遠い遠い遥か昔、親から受けた痛みの記憶が、甦った。
ドス黒い感情が渦巻いていた瞳を、思い出した。
少女を求めて、雷となり天を翔けた。
少女を呼んだ。
何度も呼んだ。
何度も、何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
声を思い出すことは、もう、できなかった。
そうして、泣きながら、血反吐を吐きながら、少女を求め。
降り立った辺境の街で、付近の草原で、一人丸まって眠っている少女を見つけた。
纏う魔力に肌を刺激され、少女は薄く目を開き、緩く半身を起こし、狼を認識し、小さくあくびをもらし、ぽて、と再び眠りに就いた。
狼は、目の前で起きた出来事を信じられなかった。
第三者がいたとしても、そうであっただろう。
この時既に、狼達は皆、世界共通の敵となってしまっていたのだから。
狼は直後に気づいた。自分を襲った少女の魔力と、眠る少女の魔力が酷似していることに。二人が、姉妹であることに。
しかし、湧いたのは敵意ではなく、殺意でもなく、純粋な興味だった。
恐怖と悲しみは、霧散していた。
熟睡していることは明らかだったが、あの少女の姉であることは変わらない。多少の警戒を抱きつつ、大人一人分程の間を空け、狼も体を丸めた。
その日から、狼は少女の下へ通い続けた。
どれだけの傷を負っても、少女の寝顔を思い出すだけで、穏やかでいられた。
10日が経ち、こんにちは、と少女が挨拶をしてくれる様になった。
空けていた隙間を、子ども一人分へと変えた。
数千年振りに再会した仲間から、良いことでもあったの、と問われた。
1ヶ月が経ち、少女の装いが変わった。
ちゅうがくせいになりました、と眠気をたっぷり含みながら言い、眠った。
黒い制服に映える白髪。
似合ってる、と。
おめでとう、と。
額を優しく、鼻先でつついた。
3ヶ月が経ち、血の匂いを嗅ぎ付け駆け付けたそこで、少女はやはり眠っていた。
顔色、呼吸に異常はなかったが、右手に巻かれた包帯は、赤に染まっていた。
永い生の中で初めて、狼は自我を塗り潰さんばかりの怒りを覚えた。街外れに幾億の雷を降り注がせながら、辛うじて残った冷静な部分では魔力の残滓を辿り、校舎諸共消し炭に、と力を込めた直後。
出会った時と同じ様に、少女が目を覚ました。
緩く半身を起こし。
狼を認識し。
小さくあくびを漏らし。
柔らかに、笑みを浮かべた。
――本当に大事なモノ。心の底の底から、なにがなんでも守りたいモノは、気付いた時にはできてるんだよ。望む限りみんなは、ずっと、ずぅっと生きていられる。だから、そんななにかに巡り逢えたら、その時は、最後の最期まで、傍にいてあげて。失う怖さと辛さから、目を背けないであげて。そんな後悔だけは、絶対にしないで。
この少女こそが、そうなのだ、と。
この日から、少女と狼を隔てる物はなくなった。
そうして、数ヶ月が経過したある日、狼は少女の妹により、腹部を貫かれた。
よろめく四肢に力を込め、追撃せんとする人間達を雷の檻に閉じ込め、狼は少女の下へ駆けた。
どれだけの痛手を受けた所で、死ぬことはない。
だが、痛みを感じない訳ではない。負わせた者に殺意を抱かぬ訳でもない。
だが、そんなことよりも狼は、少女の傍にいたかった。
穏やかな寝顔を見たかった。
優しい温もりを分けて欲しかった。
甘くとろける様な匂いを感じたかった。
ただただ、少女が恋しかった。
少女の大きな声を、初めて聞いた。
少女の涙に濡れる顔を、初めて見た。
少女の想いを、初めて知った。
泣きじゃくりながら、傷口を懸命に舐めながら、少女は叫んだ。
死なないで、と。
生きて、と。
もっと一緒にいたいよ、と。
それは、狼が、仲間達が、あの日から渇望していたもの。
心が満たされた。
少女と共に在ることを誓った。
少女を守護することを誓った
少女の最期を見届けることを誓った。
少女の系譜を見守ることを誓った。
尽きることのない命全てを、少女に捧げると誓った。
「んぅ……、すぅ……」
傷を治療し、眠った少女。
鼻先同士を軽く合わせ、尻尾をそっと被せる。
ほのかな笑みを浮かべる少女に、心地よく跳ねる鼓動を感じながら、狼は目蓋を下ろした――。