Room
少女がひとり。
分厚い灰色の雲が空を覆っているのをじっと見ている。その奥に隠れているのであろう太陽の光は、しかしほとんどその用をなさず、ただ嵐の気配だけを湿った空気に浸透させている。
少女が立つのは畦道だ。周囲にはむやみに広大な田畑ばかりが、呆然と、薄暗く佇んている。
人影は、ない。
少女はひとり、空を見上げている。
ぽつり、一粒。
雨が降り落ちた。透明な涙の跡をなぞるように、少女の頬を伝い、首筋を伝い、やがて服に滲んで消えていく。
一粒、また一粒。
髪が水気を含むころ、少女は走り出す。
靴の底がぬかるみ始める路の土を踏み滑る。それでも少女は、長い髪を浮かばせて、一本道を走っていく。老いた電柱、頼りない電線。道の端の用水路で水がするすると流れ始める。
電話ボックスだ。
少女は駆け込んだ。音を立てて扉を閉める。外から連れてきた湿り気が、薄く硝子を曇らせる。
少女は髪を払う。服を払う。滴り落ちる雨水。ようやっと一息ついて肩を落とせば、唇から漏れ出た吐息もまた白く。
公衆電話が立っている。
少女はその受話器を取った。初めて触れるように、こわごわと。己の肌に触れるように、慣れた手つきで。
唇を寄せ、こう言った。
「あの――
あなた、誰、ですか?」
つー、つー、と。
虫の鳴き声のように、聞こえた。
*
『神様はずっと昔に、人はひとりだけだとお決めになりました。』
その一文から始まる手紙を、少女は繰り返し、繰り返し読んでいる。
『この手紙を読んでいる未来の、あるいは過去のわたし。
あなたにもこの意味がいずれわかるでしょう。
手紙を書いたわたし自身は、この手紙をあなたが読んでいるとき、必ず存在していません。
あなたはあなたで、わたしはわたしであるからです。
しかし、わたしはあなたで、あなたはわたしであります。ですから、この世に人はひとりしかいないのです。
幾度も繰り返す時の中で、わたしはわたしで、あなたはあなたで、しかし人はひとりしかいないのです。
あなたもあなたであるなら、この意味をすでに知っていることでしょう。
でしたら何も、わたしに言うことはないのです。
さようなら。
孤独です。』
読み終えた少女は、手紙を折りたたもうとした。
けれど、折り目の黒ずみ始めるのを見つけて、やめた。テーブルの上に広げたまま置いた。指先が湿り気を伝え、きっとこの手紙も、そう遠くないうちに破れてしまうだろうことに少女は感づいた。
空はいつも薄曇りで、時折にわか雨がやってくる。
部屋は暗い。電気を点ければますます暗い。だから少女は電気を点けない。
四人用のテーブル。
少女の座る場所は、決まっていない。
棚に並んだマグカップ。
すべてに平等に茶渋がついている。
テレビが点いた。
少女が点けたのではない。勝手に、誰が触れることもなく、点灯した。
少女は目を向ける。瞳に真っ白なスクエア。
痩せた指先が、テーブルの端に触れる。光の波紋が広がって、見る間に木目は姿を変える。
気まぐれなプリズムのような、幾何学の、しかし整然とした模様が生まれる。少女が手を置けば、鍵盤になる。
音が響き始める。音楽に似ていた。
少女はテレビから目を逸らす。ひたすらに鍵盤を、自分の指先を見つめ続けている。
踊る、踊る、踊る――、光、指、瞳、音、耳、肌、身体。
テレビの中で、真っ白な、巨大な鋼鉄の騎士。真っ黒な甲虫。
騎士がすべての甲虫を切り伏せる。
音が止む。指先が止まっている。少女は壁掛けの、印のないカレンダーを見つめている。
部屋に変わりはない。
少女のほかには誰もいない。
テレビは大人しく、佇む騎士と甲虫の死骸と、荒廃した都市を、音もなく映し続ける。
そこにも誰もいない。
「見たくない。」
テレビがふつりと消える。その表面に、うなだれる少女を黒く映し込む。
電話は鳴らない。引き千切られた電話線が、剥き出しのまま床に触れている。
どのくらいそうしていただろうか。しとり、身体に染み込むように、雨の音が聞こえ、ようやく少女は顔を上げた。
白いレースのカーテンの向こうで、わざとらしいくらい黒い雲から、大粒の雨が降り注いでいるのが見える。
寝ぼけたような眼で、少女はその光景を見つめる。
立ち上がった。少女は歩き、窓を開いた。
風はない。天から地へとまっすぐ降り注ぐ雨粒に、少女は手を伸ばす。丸めた手のひらに、わずかに水が溜まり、そして流れ落ちていく。
見つめている。
*
電話ボックスの中には、一枚だけ、連絡先の書かれた紙が残されている。
ボロボロだ。触れてしまえば、指先に色の汚れが移ってしまいそうなくらいに。
少女は濡れた指先をじわりと空気に乾かして、それからその紙をつまんで目の前に置く。ふやけたような感触に、指先は自然、怯えるように震えた。
紙には幼い筆跡で、ふたつの連絡先が記されている。
『かみさま
わたし』
少女はかみさま、と書かれた言葉の横、無数に連なる数字を、そのとおり、公衆電話に打ちこんでいく。
あまりにも長い桁数だ。何度も間違え、そのたびに少女は受話器を置き、それからもう一度、初めから番号を打ち始める。
失敗の回数が十数回から数十回へと変わる頃、ついに最後の数字が打たれる。
少女は受話器に耳を澄ます。
誰かの声は聞こえてこない。
単調な合成音。それがただ、延々と少女の鼓膜を揺らし続ける。
受話器を置いた。それから、少女はまた電話をかけ始める。何度も、何度も。
決して電話は繋がらない。
少女はもう一度、紙を見た。
かみさま、の下。わたし、と書かれた言葉の横。けれど、すぐに少女は目を逸らす。
そこに書いてあるのは、数字ではないからだ。
少女は紙を元の位置へと戻す。
それから、じっと、何も言わずに公衆電話と向き合って、それから、何も押さずに受話器を取る。
「あの――
あなた、誰、ですか?」
『だれ?』と書かれた文字が、紙に滲んでいく。
*
書き込みのないカレンダーを少女は見つめていた。
見つめ、見つめ続け、それからペンを手に取った。キャップを取り、外し、それからひとつ、日付を定めて、少女は腕を伸ばす。
『きょう』
自分で書いたその文字を前に、しばし少女は息をして、それから、次の日付へ。
『あした』
次の。
『あさって』
さらに次の。
次の。
次の。
次の次の次の――
『みらい』
雷が鳴った。
少女はペンを置く。
*
打ち棄てられた田畑に、草の生い茂るのを少女は見ていた。
空には夕立の気配がある。夕日の気配はない。
少女は傘を持っていない。
目を凝らしていたのかもしれない。
ただ少女はその光景に目を向けていた。
緩やかな風が草の匂いを運んでくる。少女はその濃さに、ひとつ、顔を押さえて咳をした。
雨音が聞こえてきた。
しかし少女は濡れてはいない。音のした方に目を向けると、雨の境界が、遠くの山から、少女の方に迫ってくるのが見えた。
風に乗ってきたのは、今度は土と水の匂い。
少女は足を踏み出した。
それは田地の方角だった。
膝よりも高い草をかき分け、少女は歩み降りていく。鋭い葉が肌を削り、薄く血が滲んでいく。
田の中ほどまで辿り着くと、少女は身体を折り曲げて屈み込んだ。地を見つめるまなざしは、何かを探すようだった。
雨音が近付いてくる。
少女はずっと、何かを探し続けている。
顔に草が触れて、小さな傷を作りながら、それでも少女は、地に何かを探し続け、やがて表面だけではなく、地中すら、素手で掘り返しながら、探し始める。
爪の間に土が詰まる。汚れていく指先。勢いよく小石に引っ掛けた爪がめくれ、指先から血が、黒く染み始める。
それでも何かを探し続け、雨は容赦なく少女にも降り注ぎ始める。
雨が止んで、夜の空気が少女の体温を奪う。身体は震えている。
星のない空にはわずかな光もない。
もはや何も見つけることはできない。
少女は立ち上がる。
泥土は全身を黒く汚し、髪の先ではすでに細く乾いている。
冷たい風が吹く。
少女は真っ黒な空を見つめている。
*
テレビが消えると、静寂が訪れた。
時計は未だ昼の時間を指し示す。夕立もまた、この場にはまだ、音をもたらしそうにない。
少女はもはや、見てもいなかった。
目を瞑っている。目を瞑り、ただ座っている。
何もない時間が流れている。
ふと、少女が身体を動かした。
目を瞑ったまま、何かを求めるように、机の上で手を動かしている。
少女の手が触れた。
直後、甲高い音が、少女の足元から響いた。少女は瞼を開く。
マグカップが床に落ちて割れている。
飛び散った破片の隙間を埋めるように、残っていた紅茶が零れ溜まっている。
少女はそれを見つめ、しばし動きを固め、それから、机の上に、もう一度手を伸ばした。
広げられたままの手紙の端を、少女は指先で摘み上げた。
拍子に、とうとうその手紙が破れた。
指の間に残ったのは、わずかな紙片だけで、残りの大半の部分は、はらりと床に落ちていった。
少女は足元を見た。
紅茶が手紙を濡らしている。
少女は。
*
ペンを手にしている。
*
黒い甲虫が都市へと降っていく。
白い騎士が甲虫を切り伏せていく。
テレビにそんな光景が流れている。
少女は鍵盤に指を踊らせる。
音が止まる。
すると、騎士の動きも止まっている。
死骸が、都市を埋めている。
少女はじっと、自分の指先を見つめている。
鍵盤の光の、消えていく様を見つめている。
たった一瞬だけ。
少女は、テレビの中に、騎士の立つ姿を見た。
再び指先が走り出す。
傷ついた指先が、激しく音を紡ぎ出す。そして騎士は、また動き出す。
長い時間を。
少女は、鍵盤を弾き続ける。
何の変哲もない部屋だ。
四人掛けのテーブル。
ひとつ抜けた棚のマグカップ。
破り取られたカレンダー。
いつの間にか、夕立が訪れている。
雷が鳴っている。
少女は弾き続ける。
そしてそのうち、机から光が消える。
元の木目の上に、一枚、書き込まれたカレンダーが置かれている。
少女は立ち上がる。
そして、走り出す。
ぬかるむ畦道を、少女は裸足で走り抜ける。
打ち棄てられた風景を、ひたすらに、まっすぐ、少女は駆ける。
電話ボックス。
少女は扉を開く。閉めないままに、公衆電話に向き合って。
息を、ひとつ。
受話器を取って。
少女は、言う。
次の瞬間、光が差した。
少女は、一度、強く目を瞑り、それから開き、外へ出た。
見上げると、空は晴れている。
散り広がる雲の中心に、太陽が、その中心に、逆光を浴びた影がある。
少女は、その影の正体を知っている。
視線を下ろすと、雨の残り香が光って、少女の目の前に透明な階段があることを教えていた。
空へと続く階段。
少女はその一段目を、恐る恐る、けれどしっかりと、踏みしめる。
一歩。
また一歩と。
少女は雨に光る、透明な階段を上っていく。太陽の方角へ。
少女が高く上っていくにつれ、陽光は強く、眩く、雨は乾き、もはや階段は少女の目には見えはしない。
けれど、少女は止まらない。
足取りに迷いなく、透明な階段を。
少女は、空を飛ぶように。
やがて、空のきざはしも終わる。
最上段に立つ少女の目の前には、白い、鋼鉄の騎士が佇んでいる。
巨大なそれを、見上げる少女が、傷ついた指先で、手を差し伸べれば。
騎士もまた、少女のように手を伸ばし。
そして少女は、もうひとつ、歩みを。
*
『誰かがこの手紙を読んでいるのでしょうか。
わたしにはわかりません。
あなたはわたしなのでしょうか。
わたしはわたしだけなのでしょうか。
わたしにはわかりません。
神様は何を決めたんでしょうか。
わたしにはわかりません。
明日は何の日なんでしょうか。
わたしにはわかりません。
でも、今日は、わたしが外に出る日です。
さようなら。
孤独でした。』