表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Room

作者: quiet

 少女がひとり。


 分厚い灰色の雲が空を覆っているのをじっと見ている。その奥に隠れているのであろう太陽の光は、しかしほとんどその用をなさず、ただ嵐の気配だけを湿った空気に浸透させている。


 少女が立つのは畦道だ。周囲にはむやみに広大な田畑ばかりが、呆然と、薄暗く佇んている。

 人影は、ない。

 少女はひとり、空を見上げている。


 ぽつり、一粒。

 雨が降り落ちた。透明な涙の跡をなぞるように、少女の頬を伝い、首筋を伝い、やがて服に滲んで消えていく。


 一粒、また一粒。


 髪が水気を含むころ、少女は走り出す。

 靴の底がぬかるみ始める路の土を踏み滑る。それでも少女は、長い髪を浮かばせて、一本道を走っていく。老いた電柱、頼りない電線。道の端の用水路で水がするすると流れ始める。


 電話ボックスだ。

 少女は駆け込んだ。音を立てて扉を閉める。外から連れてきた湿り気が、薄く硝子を曇らせる。


 少女は髪を払う。服を払う。滴り落ちる雨水。ようやっと一息ついて肩を落とせば、唇から漏れ出た吐息もまた白く。


 公衆電話が立っている。

 少女はその受話器を取った。初めて触れるように、こわごわと。己の肌に触れるように、慣れた手つきで。

 唇を寄せ、こう言った。


「あの――

 あなた、誰、ですか?」


 つー、つー、と。

 虫の鳴き声のように、聞こえた。



*



『神様はずっと昔に、人はひとりだけだとお決めになりました。』


 その一文から始まる手紙を、少女は繰り返し、繰り返し読んでいる。


『この手紙を読んでいる未来の、あるいは過去のわたし。

 あなたにもこの意味がいずれわかるでしょう。

 手紙を書いたわたし自身は、この手紙をあなたが読んでいるとき、必ず存在していません。

 あなたはあなたで、わたしはわたしであるからです。

 しかし、わたしはあなたで、あなたはわたしであります。ですから、この世に人はひとりしかいないのです。

 幾度も繰り返す時の中で、わたしはわたしで、あなたはあなたで、しかし人はひとりしかいないのです。

 あなたもあなたであるなら、この意味をすでに知っていることでしょう。

 でしたら何も、わたしに言うことはないのです。

 さようなら。

 孤独です。』


 読み終えた少女は、手紙を折りたたもうとした。

 けれど、折り目の黒ずみ始めるのを見つけて、やめた。テーブルの上に広げたまま置いた。指先が湿り気を伝え、きっとこの手紙も、そう遠くないうちに破れてしまうだろうことに少女は感づいた。


 空はいつも薄曇りで、時折にわか雨がやってくる。

 部屋は暗い。電気を点ければますます暗い。だから少女は電気を点けない。


 四人用のテーブル。

 少女の座る場所は、決まっていない。


 棚に並んだマグカップ。

 すべてに平等に茶渋がついている。


 テレビが点いた。

 少女が点けたのではない。勝手に、誰が触れることもなく、点灯した。


 少女は目を向ける。瞳に真っ白なスクエア。

 痩せた指先が、テーブルの端に触れる。光の波紋が広がって、見る間に木目は姿を変える。


 気まぐれなプリズムのような、幾何学の、しかし整然とした模様が生まれる。少女が手を置けば、鍵盤になる。


 音が響き始める。音楽に似ていた。


 少女はテレビから目を逸らす。ひたすらに鍵盤を、自分の指先を見つめ続けている。


 踊る、踊る、踊る――、光、指、瞳、音、耳、肌、身体。

 テレビの中で、真っ白な、巨大な鋼鉄の騎士。真っ黒な甲虫。


 騎士がすべての甲虫を切り伏せる。

 音が止む。指先が止まっている。少女は壁掛けの、印のないカレンダーを見つめている。


 部屋に変わりはない。

 少女のほかには誰もいない。


 テレビは大人しく、佇む騎士と甲虫の死骸と、荒廃した都市を、音もなく映し続ける。


 そこにも誰もいない。


「見たくない。」


 テレビがふつりと消える。その表面に、うなだれる少女を黒く映し込む。

 電話は鳴らない。引き千切られた電話線が、剥き出しのまま床に触れている。


 どのくらいそうしていただろうか。しとり、身体に染み込むように、雨の音が聞こえ、ようやく少女は顔を上げた。


 白いレースのカーテンの向こうで、わざとらしいくらい黒い雲から、大粒の雨が降り注いでいるのが見える。


 寝ぼけたような眼で、少女はその光景を見つめる。

 立ち上がった。少女は歩き、窓を開いた。


 風はない。天から地へとまっすぐ降り注ぐ雨粒に、少女は手を伸ばす。丸めた手のひらに、わずかに水が溜まり、そして流れ落ちていく。


 見つめている。



*



 電話ボックスの中には、一枚だけ、連絡先の書かれた紙が残されている。

 ボロボロだ。触れてしまえば、指先に色の汚れが移ってしまいそうなくらいに。


 少女は濡れた指先をじわりと空気に乾かして、それからその紙をつまんで目の前に置く。ふやけたような感触に、指先は自然、怯えるように震えた。


 紙には幼い筆跡で、ふたつの連絡先が記されている。


『かみさま


 わたし』


 少女はかみさま、と書かれた言葉の横、無数に連なる数字を、そのとおり、公衆電話に打ちこんでいく。

 あまりにも長い桁数だ。何度も間違え、そのたびに少女は受話器を置き、それからもう一度、初めから番号を打ち始める。


 失敗の回数が十数回から数十回へと変わる頃、ついに最後の数字が打たれる。

 少女は受話器に耳を澄ます。


 誰かの声は聞こえてこない。

 単調な合成音。それがただ、延々と少女の鼓膜を揺らし続ける。


 受話器を置いた。それから、少女はまた電話をかけ始める。何度も、何度も。


 決して電話は繋がらない。


 少女はもう一度、紙を見た。

 かみさま、の下。わたし、と書かれた言葉の横。けれど、すぐに少女は目を逸らす。


 そこに書いてあるのは、数字ではないからだ。


 少女は紙を元の位置へと戻す。

 それから、じっと、何も言わずに公衆電話と向き合って、それから、何も押さずに受話器を取る。


「あの――

 あなた、誰、ですか?」


 『だれ?』と書かれた文字が、紙に滲んでいく。



*



 書き込みのないカレンダーを少女は見つめていた。


 見つめ、見つめ続け、それからペンを手に取った。キャップを取り、外し、それからひとつ、日付を定めて、少女は腕を伸ばす。


『きょう』


 自分で書いたその文字を前に、しばし少女は息をして、それから、次の日付へ。


『あした』


 次の。


『あさって』


 さらに次の。

 次の。

 次の。

 次の次の次の――


『みらい』


 雷が鳴った。

 少女はペンを置く。



*



 打ち棄てられた田畑に、草の生い茂るのを少女は見ていた。


 空には夕立の気配がある。夕日の気配はない。

 少女は傘を持っていない。


 目を凝らしていたのかもしれない。


 ただ少女はその光景に目を向けていた。


 緩やかな風が草の匂いを運んでくる。少女はその濃さに、ひとつ、顔を押さえて咳をした。


 雨音が聞こえてきた。


 しかし少女は濡れてはいない。音のした方に目を向けると、雨の境界が、遠くの山から、少女の方に迫ってくるのが見えた。

 風に乗ってきたのは、今度は土と水の匂い。


 少女は足を踏み出した。

 それは田地の方角だった。


 膝よりも高い草をかき分け、少女は歩み降りていく。鋭い葉が肌を削り、薄く血が滲んでいく。


 田の中ほどまで辿り着くと、少女は身体を折り曲げて屈み込んだ。地を見つめるまなざしは、何かを探すようだった。


 雨音が近付いてくる。


 少女はずっと、何かを探し続けている。


 顔に草が触れて、小さな傷を作りながら、それでも少女は、地に何かを探し続け、やがて表面だけではなく、地中すら、素手で掘り返しながら、探し始める。


 爪の間に土が詰まる。汚れていく指先。勢いよく小石に引っ掛けた爪がめくれ、指先から血が、黒く染み始める。


 それでも何かを探し続け、雨は容赦なく少女にも降り注ぎ始める。


 雨が止んで、夜の空気が少女の体温を奪う。身体は震えている。


 星のない空にはわずかな光もない。

 もはや何も見つけることはできない。


 少女は立ち上がる。

 泥土は全身を黒く汚し、髪の先ではすでに細く乾いている。


 冷たい風が吹く。

 少女は真っ黒な空を見つめている。 



*



 テレビが消えると、静寂が訪れた。


 時計は未だ昼の時間を指し示す。夕立もまた、この場にはまだ、音をもたらしそうにない。


 少女はもはや、見てもいなかった。

 目を瞑っている。目を瞑り、ただ座っている。


 何もない時間が流れている。


 ふと、少女が身体を動かした。

 目を瞑ったまま、何かを求めるように、机の上で手を動かしている。


 少女の手が触れた。

 直後、甲高い音が、少女の足元から響いた。少女は瞼を開く。


 マグカップが床に落ちて割れている。

 飛び散った破片の隙間を埋めるように、残っていた紅茶が零れ溜まっている。


 少女はそれを見つめ、しばし動きを固め、それから、机の上に、もう一度手を伸ばした。


 広げられたままの手紙の端を、少女は指先で摘み上げた。


 拍子に、とうとうその手紙が破れた。

 指の間に残ったのは、わずかな紙片だけで、残りの大半の部分は、はらりと床に落ちていった。


 少女は足元を見た。


 紅茶が手紙を濡らしている。


 少女は。



*



 ペンを手にしている。



*



 黒い甲虫が都市へと降っていく。

 白い騎士が甲虫を切り伏せていく。


 テレビにそんな光景が流れている。

 少女は鍵盤に指を踊らせる。


 音が止まる。

 すると、騎士の動きも止まっている。


 死骸が、都市を埋めている。


 少女はじっと、自分の指先を見つめている。

 鍵盤の光の、消えていく様を見つめている。


 たった一瞬だけ。

 少女は、テレビの中に、騎士の立つ姿を見た。


 再び指先が走り出す。


 傷ついた指先が、激しく音を紡ぎ出す。そして騎士は、また動き出す。


 長い時間を。

 少女は、鍵盤を弾き続ける。


 何の変哲もない部屋だ。


 四人掛けのテーブル。


 ひとつ抜けた棚のマグカップ。


 破り取られたカレンダー。


 いつの間にか、夕立が訪れている。

 雷が鳴っている。

 少女は弾き続ける。


 そしてそのうち、机から光が消える。

 元の木目の上に、一枚、書き込まれたカレンダーが置かれている。


 少女は立ち上がる。

 そして、走り出す。


 ぬかるむ畦道を、少女は裸足で走り抜ける。


 打ち棄てられた風景を、ひたすらに、まっすぐ、少女は駆ける。

 

 電話ボックス。


 少女は扉を開く。閉めないままに、公衆電話に向き合って。


 息を、ひとつ。


 受話器を取って。


 少女は、言う。


 次の瞬間、光が差した。


 少女は、一度、強く目を瞑り、それから開き、外へ出た。


 見上げると、空は晴れている。

 散り広がる雲の中心に、太陽が、その中心に、逆光を浴びた影がある。


 少女は、その影の正体を知っている。


 視線を下ろすと、雨の残り香が光って、少女の目の前に透明な階段があることを教えていた。


 空へと続く階段。


 少女はその一段目を、恐る恐る、けれどしっかりと、踏みしめる。


 一歩。

 また一歩と。


 少女は雨に光る、透明な階段を上っていく。太陽の方角へ。


 少女が高く上っていくにつれ、陽光は強く、眩く、雨は乾き、もはや階段は少女の目には見えはしない。


 けれど、少女は止まらない。


 足取りに迷いなく、透明な階段を。

 少女は、空を飛ぶように。


 やがて、空のきざはしも終わる。


 最上段に立つ少女の目の前には、白い、鋼鉄の騎士が佇んでいる。


 巨大なそれを、見上げる少女が、傷ついた指先で、手を差し伸べれば。


 騎士もまた、少女のように手を伸ばし。



 そして少女は、もうひとつ、歩みを。



*



『誰かがこの手紙を読んでいるのでしょうか。

 わたしにはわかりません。

 あなたはわたしなのでしょうか。

 わたしはわたしだけなのでしょうか。

 わたしにはわかりません。

 神様は何を決めたんでしょうか。

 わたしにはわかりません。

 明日は何の日なんでしょうか。

 わたしにはわかりません。


 でも、今日は、わたしが外に出る日です。

 さようなら。

 孤独でした。』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 神様……むむ、、、う |ω・`) 読み返し……何年ぶり、印象深い忘れられずの roomです…… ーーー ありがとうございます(੭ु´・ω・`)੭ु
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ