第9話 冒険者デビュー
柊が正面玄関の樫材の扉を開けると、利用客たちの喧騒が漏れ出してきた。
会館の内装としては、玄関から見て左手が酒場になっており、鉄の鎧を纏った大柄な男が周囲に囃されて豪快に酒を呷っていたり、カウンターの隅で静かにカクテルを味わっている女性冒険者等、様々な人々が各々の楽しみ方で時間を過ごしていた。
正面には依頼書が隙間なくびっしりと貼り付けられた掲示板が設置されていて、パーティーと思われる集団が強力な魔物討伐依頼の依頼書の前で、この依頼を受けるべきかどうか議論をしていたり、一人で依頼書を眺めている冒険者が掲示板の前を行ったり来たりしていた。
そして右手側には、「受付」と書かれた白いプレートを天井からぶら下げているカウンターがあり、見事な営業スマイルを浮かべた受付嬢たちが冒険者と会話をしていたり、山のように積まれた書類を片付けるためにペンを一心に走らせている姿が見え、「冒険者登録はこちらです」と書かれた立て看板が置かれていた。
しかし、柊が会館の中に足を踏み入れた瞬間、館内の喧騒がピタリと止み、ひそひそと「乳男がきたぞ」「乳助がきたわ」「変態だ」と話す声が漏れ聞こえてきた。
「冒険者になる前から不名誉な称号が既に押されている!?」
多分、外でアヤカへの謝罪を聞いていた様子の冒険者が無責任にも吹聴していたのだろう。
柊は、外での「おっぱい揉んでごめんなさい宣言」をギルド会館にいた冒険者たちにしっかりと聞かれていたことに対する恥ずかしさと、これからここを訪れる度に「乳男」やら「乳助」等という不名誉極まりないニックネームを連呼される未来に絶望して膝を突きそうになった。
どんな顔してここに通えばいいんだろう。乳男って……。
(大丈夫、乳男?)
「何で京子まで乳男呼ばわり!? 僕の本名知ってるだろ!?」
(いいじゃない、乳男だろうと揉み男だろうと、柊は柊じゃない)
「良くないよ!? そんなニックネームが定着したら、ここを利用し辛くて仕方がないんだけど!」
京子は頭の中でからかっているが、これは僕にとっては死活問題だ。受付嬢さんたちの間にもその名が広がっていたら、僕は「乳男」として冒険者稼業をスタートすることになる。
柊はアヤカから「気にしないの」と苦笑されながらも、丁度手続きを終えた冒険者が席を立った受付を見つけ、「すみません、冒険者登録をお願いしたいのですが……」と、そこの受付に座っていた受付嬢に声をかけた。
亜麻色の髪をセミロングにし、縁なしの眼鏡をかけた端正な顔立ちの受付嬢はこちらをチラリと一瞥すると、「そちらの席にお掛けください」と淡々とした口調で促した。
柊はそんな彼女の冷ややかな態度に若干困惑しながらも、言われた通りに、カウンターを挟んで置かれている椅子に腰かけた。
受付嬢は机の上に広げていた書類を机の引き出しに仕舞うとこちらに向き直り、底冷えするような声で告げた。
「乳男様ですね。冒険者カードを発行致しますので、少々お待ちください」
「ここにまで「乳男」が浸蝕していた!? すみません、乳男ではなく黒峰柊と申します!」
「承知致しました。アヤカ様の胸を下卑た笑い声を上げながら揉みしだいた黒峰柊様ですね」
「揉みしだいてはいないですよ!? 揉んだことは事実ですけれど……」
「揉んだことは事実なんですね?」
「それは事実ですけれど、それはアヤカの治療に必要な行為だったので、邪な気持ちでやったことでは決してありません」
「そうですか。確かに、お客様が<ウィザード・ウルフ>を倒したことと、アヤカ様が負傷し、その治療行為をお客様が行ったということにつきましては、先日アヤカ様から当館へ直接報告を頂きましたし、虹桜山で首を刎ねられた<ウィザード・ウルフ>の死骸を確認致しましたので、お客様のおっしゃることを疑うつもりは毛頭ありません。ですが、本当に邪な気持ちはなかったのですね?」
「ありませんでしたよ。だよね、サーラ?」
「はい! 柊様が揉んで治して土下座をされたのをこの目でしっかりと見ていました!」
「サーラ!? それだと色々大切な部分が抜け落ちてるせいで、僕が真摯な態度で治療に臨んでいたことが全く伝わってこないというか、僕の信用度がさらに底辺に下落しそうなんですけど!?」
「心配なさらなくても大丈夫ですよ。既に底辺というか地面にめり込んでいますので」
「既に最低評価以下!?」
「再三繰り返しますが、邪な気持ちはなかったと?」
「ありませんでした」
「揉み心地はどうでしたか?」
「最高の一言に尽きます」
「ちょっと!? 大勢の人がいる場所で、私が胸を揉まれたっていう話題を膨らませないでよ、恥ずかしい!」
アヤカが顔を真っ赤にして怒り出したので、受付嬢もそれ以上はこの話題には触れず、柊に誓約書を手渡し、依頼の遂行中に死亡したとしても当館は一切の責任を負いませんと記載された書類に目を通し、署名をした。
その後は個室で写真撮影を行い、しばらくの間待たされると、発行された柊の冒険者カードを持って受付嬢が姿を現した。
「お待たせ致しました。こちらが柊様の冒険者カードになります」
柊が受け取ったカードは、柊が暮らしていた世界にあったクレジットカードのような材質で、左側に顔写真が載せられ、右側に名前や、「E」と表記された冒険者ランク等が載せられていた。
「依頼を受けられる際や、依頼達成の報酬の受け渡し等を行う際に必要となりますので、当館をご利用頂く際には必ずご持参ください」
受付嬢はそう言うと、今度はアヤカの方に向き直り、受付カウンターの側にあるドアを手で示した。
「アヤカ様。申し遅れましたが、柊様の冒険者カードの発行手続きを行っている間に雛様が依頼を完了されて当館に来館中でして、アヤカ様にお話しがあると、二階の応接室でお待ちになられています」
「雛が? 何の用なのかしら?」
「『勝手に<ウィザード・ウルフ>の討伐なんて危険な依頼を受けた件についてじっくりと聞かせてほしい』と、おっしゃっておりました」
「……」
冷や汗をダラダラと流して硬直してしまったアヤカを放置して、受付嬢は柊の前に立つと、ニコリともしない不愛想な表情で冷ややかに名乗った。
「申し遅れました。本日より柊様とアヤカ様の担当となりました、ブレンダ=エイマーズと申します。これから長いお付き合いとなりますが、よろしくお願い致します」
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