七、恐怖
「なっ……!?」
驚きつつもランスは再度魔法をかけなおす。
しかし彼は素早い身のこなしによってその蔦から逃れた。
少年が逃げた先にいるのは一人の女。
「……なるほどね。一人じゃなかったってわけか」
ランスは悔し気に呟いた。
指示を出した人間としてはランスをなるべく確実に仕留めたかったはずだ。
故に、敵が単体で襲いかかってくる可能性は低いだろう。
――――そんなこと、少し考えればわからないはずなかったのだ。
自分の考えのなさに怒りを覚えながら、彼は二人の様子を窺った。
女の方はランスと赤髪の少年を交互に見てから満足げに微笑む。
「オドリ、やられっぱなしじゃないの」
「アヴリの言ったとおりだったよ。俺、手は抜いてないからな」
突如現れた者の声にオドリは少しだけ悔しそうな顔をした。
少年オドリの言葉からして、アヴリと呼ばれた女はランスの実力を知っていたうえでオドリを送ったのだろう。
「死んでいないだけマシね。……魔法の準備に少し手間取ってしまったのよ」
「準備……?」
嫌な予感がした。
準備を必要とする魔法は超級魔法と魔法陣を必要とする世界最大の極大魔法のみ。
その魔法の効果は様々だが、中には国一つを消滅することにもなりかねない魔法もある。
超級魔法ならばランスでも太刀打ちできる。
しかし極大魔法となればランスにもお手上げとなる。
更に言うなれば、魔法に自信のあると言っても魔法の種類は全て知られているわけではない。
そして彼はフィアナのいる状況で全力が出せない。
アヴリがオドリの危機にすぐ駆けつけなかったのも極大魔法の準備をしていたからだと考えれば頷けた。
それと同時に、極大魔法がはったりであるという可能性も低くなってしまうのだが。
故に彼のできる選択は一つのみであった。
「くっ……浮遊移動!」
その場からの離脱、東聖界への侵入。
再び宙へ浮いた二人の体は風を切りながら壁へと向かう。
三十秒もあれば壁へたどり着くだろうと思われたその時。
大きな威圧がランスを襲った。
ぞわりと鳥肌が立ち、呼吸が僅かに浅くなる。
視界の端に映る巨大な陰……。
空中で動きを止めた彼はそれを感じた方向へ視線を動かした。
壁の高さが約十五メートル。
その陰の正体はそれを優に越えていた。
二十を超える高さ。横幅はわからないがそれ以上なのは間違いない。
四本の足を持ち、背中に背負うのは大きな甲羅。
甲羅の上はランスの目線より高くてよく見えないが木が何本か生えている。
その巨大な生き物の全体を言い表すならば「亀」に限りなく近い。
それがランスとフィアナを壁の前で待ちかまえていたのだ。
「あり得ない……。そんな、こと」
無意識のうちに絞り出された声はずいぶん掠れたのもであった。
巨大な亀の目と、彼の目が合う。
それの気配を感じてからの震えは決して武者震いなどではない。
そんなことは本人が一番わかっていた。
「霊亀…………」
アーシャルの中で最強にして最凶と謳われる伝説上の生物。
巨大な亀の姿は、その中の一つにとてもよく似ていた。
彼はその正体を確信すると同時に自分がそれに大きな恐怖を抱いていることを悟った。
――これは、まずい。
本能がそう告げていた。
壁に……あの生き物に近づくなと。
フィアナの様子まで見ていられるほどの余裕がないがおそらくはランスと同じ心境のはずだ。
相手動く前に自分たちがここから逃げることに成功したならば、地上にいるであろう二人や霊亀から逃れるだろう。
そして一番早く敵から逃げることができる手段としては、転移を使うしかない。
なるべく壁から離れた場所まで移動しなくてはならないし、注目を浴びることは避けられないが……
――自分だけの身の危険が上がることか、二人の命の危機か。
どちらを選べばいいかなんて明白だった。
「ラフト……」
彼が腹を括って転移を行使しようとしたところで霊亀は大きく口を開け、甲高い声を上げた。
頭をグラグラと揺らすような声にフィアナは耳をふさぎ、ランス顔を顰めて歯を食いしばる。
怯んだ二人へ口を開けた霊亀はそこへ魔力を集めだした。
「やばっ……」
その魔力の大きさにランスは危険を感知する。
転移で逃げようと彼は考えたが、それができないということを彼は悟った。
その魔法を使った詠唱後数秒間、動けなくなる作用が発生するのだ。
つまりこの場で転移を使ってしまえば動けなくなったところを霊亀に攻撃されてしまう確率が高い。
霊亀の攻撃をまともに喰らえば、無事でいられるはずがない。
移動できた時、すでに二人とも死体になってましたなど全くもって笑えない。
ならば転移ではなく浮遊魔法を使って霊亀から逃れる方を選択した方がまだ生存率が上がるはずだ。
森に降りれば先ほどの二人に遭遇する可能性があるし、何よりあの強大な魔力を森に放たれたら木々の下敷きになってそれこそ死んでしまう。
その点浮遊魔法ならば、地上を走るよりも早く霊亀から逃れられる上に危険は最小限に留められる。
それは一度壁を越えることを諦めなければならないということになるが、致し方ない。
森を抜けて、どこかの町で身を隠して作戦をたてる。それが彼らに残された一番いい方法である。
「フィアナ、舌噛まないように口閉じてて」
「う……うん」
彼女の体を落とさないように力を入れなおし、ランスは霊亀に背を向けて素早くその場を離れた。
数秒後、大きな魔力を感じたランスは右へ身をかわす。
その横をとてつもない量の水が通り過ぎた。
それは一キロほど先の木々とぶつかって地面ごとそれらを抉る。
「――ランス!」
彼の後ろを見ながらフィアナが声を上げる。
更なる危険を察知した彼はすでに避けることができるほどの余裕がないと判断して自分の持つ魔力の半分以上を背中にかき集めた。
「光の盾!」
刹那、二つの大きな魔法が衝突した音が鼓膜を揺らす。
そしてランスは確信した。
「魔力の衝突では勝てっこない、か」
「ランス……?」
「大丈夫、仕事はきちんと熟す主義なんだ。だから今は、僕を信じて」
心配げに自分を見上げるフィアナにランスは優しく笑いかける。
フィアナは唇を引き結ぶと大きくうなずいた。
その直後に背後の光の壁が破られ、二人の体は大きく吹き飛ばされた。