十七、大切な人
自分が最低なことをしたという自覚はあった。
フィアナはベッドに顔を埋めてすすり泣く。
「馬鹿なのは……私の方だ」
魔法がろくに扱えないのも人並み程度にすら動けないのも事実であり、ランスが正しいのだ。
ランスからすればフィアナを送り届けることを最優先にしたいわけで、彼女のわがままはいい迷惑でしかない。
それでも、あの時のフィアナは諦めることができなかった。
どうしてわかってくれないのか。
自分勝手に怒った挙句、何度も助けてくれたランスを叩いてしまった。
「ふっ、うう……」
嗚咽が漏れる。
相手に当たることしかできない自分に、やるせなさがこみ上げてきた。
その時だった。
「フィアナ」
部屋のドア越しにランスの声が聞こえたのは。
びくり、と肩を震わしてフィアナは戸へ視線を向ける。
ランスを殴ってからまだ数分ほどしか経っていない。
きちんと謝らなければという気持ちはフィアナにあったがまだ心の準備ができていなかった。
「その……言いたいことがあって……」
先ほどまで言い争っていた時とは違う、恐る恐るといった口調。
その口調でランスが怒ってはいないということが簡単に予測できた。
だから彼が言いたいことということも同時に察した。
ランスは心優しいから、きっと先ほどのことを謝罪しに来たのだ、と。
……彼自身は何も悪くないのにも関わらず。
「ごめん、今は……」
そして数秒経った後に彼女はそう呟いた。
本来ならば自分から向かわなければならなかったのに。
そんなどうしようもない申し訳なさがフィアナに込み上げ、顔を合わせたくなかったのだ。
「わかった」
意外にもあっさりとした返事が返ってきたかと思えば次の瞬間、木材がへし折られるような盛大な音が彼女の鼓膜を振動させた。
「ひっ……!?」
反射的に顔を上げたフィアナの目に真っ先に映ったのは外れて床に横たわっている戸とそれを踏みつけているランスの姿。
「それでも僕は今、言いたいんだ」
いつものような笑顔でもなく、怒ってもいない。
真剣な表情でランスはフィアナのもとまで歩みだす。
そして彼はベッドの前で足を止めるとそのまま深く頭を下げた。
「ごめん。さっきの僕は君の気持ちを全く考えていなかった」
開いている窓から冷たい風が入り込む。
風に揺らされた前髪の間から見えるランスの瞳が僅かに揺れた。
誠心誠意の言葉。
だからこそフィアナの胸は大きく痛んだ。
「ううん……ランスの言ったことは何処も間違ってなかった。それなのに私は……わがままを押し付けて、ランスを困らせて。傷つけちゃったんだ」
フィアナはか細い声で何か呟いた。
それはとても聞きづらい物であったが、近距離にいたランスは完璧に聞き取ることができた。
彼女もまた、彼に謝罪をしたのだ。
「ごめんね」と。
「……隣、座ってもいいかな」
「うん……」
空いた気まずい間を埋めるようにランスが口を開き、ベッドの上へ腰を掛けた。
フィアナも起き上がって彼の隣へ座る。
俯いたランスの横顔を覗き込みながらもいい言葉が思いつかないでいると彼の方から徐に語りだした。
「僕、さ」
「う、うん……」
「自分で言うのも変な話だけど、本当に恵まれた毎日を過ごしてたんだ」
悲しみを含んだ笑顔でランスは顔を上げ、窓の外へ視線を泳がせた。
どこを見るでもなく、ただただ遠くを見つめる。
暗くなってきた空を見ながら彼は目を細め、その瞼の裏で昔のことを思い返す。
「お金には全く困ってなくて、魔法の天才だなんて言われてちやほやされて、守りたいって思えるものもたくさんあった」
昔、と言って彼が思い浮かべるのは懐かしい四人の少年少女。
「幼馴染と庭で走り回ったり、日向ぼっこしたり。一人はとりあえず感情と勢いで突っ走って行っちゃう子で、泣き虫だった。もう一人は賢くて冷静な子だったかな」
一人が木に登り始めれば、それを慌てて止めに行くもう一人。
言い争えばいつも決着は決まっていて。
結局二人一緒に木登りを始めるのだ。
そして木に登りながらランスへ手を伸ばす。
身分なんてものを気にしない友人らであった。
「弟はちょっと体が弱かったからあまり外には出てこれなかったけど、代わりに冒険譚なんか読んで一緒に冒険できたら、なんて妄想を繰り広げた」
三人兄弟の末っ子である弟は上二人の目元が母親似であるのに比べて、どちらかと言えば父親に似ていた。
少し釣り上がった赤い瞳。けれども怖そうな印象はほとんどなかった。
それは彼が誰よりも心優しい人間であるということを皆が知っていたからだろう。
弟と妄想話をするときは時間が早く通り過ぎていくように思えたものである。
そしてその頃彼らが読みふけっていた冒険譚の著者は聖界で最も有名な人間であった。
少し過去について思い返せば、次々と湧き出る水のようにたくさんのことが脳裏に浮かんでくる。
「兄さんは――」
自分の兄のことを思い出そうとしたところでその思考は止まった。
急に現実へ引き戻されたランスは必要のないことを話していた自分に思わず苦笑する。
「ごめん、そういう話がしたかったんじゃないんだけれど」
「ううん。なんだか楽しそうだったし、私も楽しかったから」
くすくすと笑うフィアナが先ほど思い描いた一人の姿に重なり、ランスはゆっくりと一度瞬きをしてその面影を消す。
「遊んでばっかってわけじゃなかったけど、何をするにもどこかには大切な人がそばにいたんだ。今思えば、本当に贅沢な毎日だった。……だから、つけが回ってきたのかもしれないね」
毎日が退屈ではあっても暖かくて平和であった過去。
そこには将来の自分すらしっかりと見えていて、不自由なんて少しもない場所だった。
フィアナは何かを感じたのか笑うのを止めて彼の言葉の続きを待った。
「八歳の時かな。僕は自分の家を追い出された」
鋭く息を呑んだフィアナの顔は強張り、ランスはなるべく重い空気にならないように軽い口調で話し続ける。
「まあ追い出されたとはいっても、家族に会えない距離ではなかったよ。……でも、手のひらを反されたかのようなその仕打ちに、僕は少なからずショックを受けた」
自分の家とは全く真逆の生活は彼の身体も心も冷やしていった。
幼馴染と会うことは滅多になくなり、外に出られない弟に会える回数など指で数えられる程度しかなかった。
義務として家へ赴くことは定期的にあったけれど、そのころには両親を父や母と呼ぶようなことはできなくなっていた。
「結果を言うならね……捨てられた悲しみに明け暮れた僕は、大切だった人たちを自分の手で捨てたんだ」
開かれていた両手を力強く握り返す。
その手のひらに爪が食い込み、血が流れた。
「だから……かな。君の『大切な人』の話を聞いた時、羨ましかったんだ」
子供っぽいよね、と言葉を零す。
かつていた、かけがえのない存在。
それを自分から捨てたはずなのに、他人が持っていれば羨ましがる。
ランスは、自分勝手な心に自嘲した。
「それでも、いいんじゃないかな」
フィアナは両足を軽く揺らしながら微笑む。
「ランスが『大切な人』たちの話をしてる時、本当に楽しそうだったの。それってつまりランスの中ではまだ、その人たちが大切ってことでしょ? だったら、まだ遅くないよ」
傷ついたランスの両手を、フィアナの手がが包み込む。
暖かい彼女の体温が彼の冷えた手を温めていく。
「捨ててしまったものはまだ、拾いに行ける。きっとみんな、ランスが戻ってきてくれることを待ってるはずだよ」
真っ直ぐで、濁りのない瞳。
そんな瞳に見とれながらランスは再びゆっくりと目を閉じた。
後に口から零れ起きたのは。
「君に……もっと早く、出会えていたらよかったのに」
そうしたら――――
後悔の言葉。
夕暮れの風が彼らの髪の毛を乱し、小さな言葉をかき消した。
「え? ごめん聞き取れなかった」
「ううん。何でもないよ。……ありがとう」
「なんかこういう時だけ変に格好つけちゃった」
照れ笑いしながらフィアナはランスの横へ戻ると、彼の手を握ったまま開口した。
「私も……話していいかな? 大切な……本当に大切な人の、話を」