幼稚園
回想を終えた優香は、早々に歯磨きを終了させ、朝食を済ますと外出する準備に取りかかった。今日の気温は昨日と違い、多少涼しめになるとの予報だったので安心してカーディガンを着れる。外歩用の服装に着替えると軽いメイクをした後、外に出た。
軽いあくびをしながら駐車場に向かっていると、昨朝と同様に向かいの市立小学校は休み時間だったらしく運動場で無邪気にサッカーやドッチで遊んでいる子供たちが視認できた。ふと昨朝のことを思い出し優香の目は自然と砂場の方に向けられていた。
案の定、そこには一人の男の子がむなしそうに砂遊びをしていた。今日はどうやら泥団子を作っているようだった。ーなぜだろう。なんだか、無性にあの男の子のことが気になる。まさか無意識のうちに彼に憐憫の情を抱いていてしまっているのだろうか。ーーいや、というよりもこれは……。折りしも学校のチャイムが鳴り出した。みな吸い込まれるかのごとく校舎に入っていく。
そうだ、わたしも早いところ公園に行かないと。焦る気持ちを抑えつつ軽自動車に乗り込み、アクセルを踏んだ(ちなみにエンジンがかかるまでは五分ほどかかった)
しばらくしてちょうど交差点の赤信号に引っかかっているときにふと右手を見てみると、大規模な幼稚園が目に入ってきた。どうやらここも外で遊ぶ時間帯だったらしく、園児らが鬼ごっこや遊具などで楽しんでいた。こっちの児童たちはみな仲良くしていて孤立している人物は見受けられなかった。あの男児も元々、ここに通ってたのかな……。そう思うと同時に、やっぱり自分はさっきの子のことが気になってしょうがないんだと理解した。
なんでだろう。暫時思考を巡らせていたが信号が青になったのを境にその考えをシャットダウンさせた。考えごとをしながら運転をすると事故率が上げると聞いたことがあるからだ。相も変わらず渋滞しているビジネス街を抜け、火原町に辿り着くとほどなくくだんの公園が見えてきた。四方から来る自動車に注意しながら駐車場に自家用車を走らせる。
ここのパーキングも昨日と同じくそんなに埋まっておらず広々としたスペースが空いていた。優香は車を停めるとすぐに今週号の週刊オーガストが入ったハンドバックを手に持ち、森林地帯を目指して力走した。天気予報通り、朝は涼しかったので汗などはかかなかった。一分ほどでホームレスの住処にまで足を踏み入れた。
とりあえず、まずはこの雑誌を届けることが先決だ。掘っ立て小屋までの道順を思い出しながら先を進んで行く。今回は前の反省を踏まえて赤のショートパンツにTシャツの上から青のカーディガンを羽織ったラフな格好をしてきたので歩きづらいといったことはまったくなく、むしろ伸び伸びと歩けるぐらいの軽やかさだった。三分ほどして例の細い道を通り抜けると二岡が掘っ立て小屋の中で横になっている姿が目に入った。
「あれ、記者さん?まさかこんな早くに来られるとは思いませんでしたよ」
どうも二岡はまだ、寝起きだったようで眠たそうな表情をしたままゆっくりと身体を起こしてきた。今日の彼は空色の長袖に短パンという優香と同様、ラフな出で立ちだった。昨日と違い、服はそんなに汚れていない。そのせいか、火曜日と比べていくばくか魅力的に見えた。ただし、茶色の髪は変化なくボサボサのままであった。
「おはようございます、二岡さん。先ほど起床されたんですか?」
「ええ、時間を気にせず好きなときに寝れて、好きなときに起きれるってのいうのはホームレスの数少ないメリットですからね。存分に活用していますよ。今日はバイトの予定も入ってないですし」
なるほど。そんな考え方もあるのか。そう関心したと同時に優香は二岡の声にたいして違和感を覚えた。なんだか昨日よりも声音がだいぶ低いような……。
「あの二岡さん、喉どうかされたんですか?何やら声が」
「ああ、どうも軽い風邪を引いちゃったみたいなんですよ。昨晩は夏の割には
寒い風が吹いてましたから原因は多分それだと思うんですけど」
優香は改めて掘っ立て小屋を見てみた。周りに覆われているブルーシートはそこそこ防寒性がありそうだが、入り口である前面が剥き出しになっているのが致命的すぎる。あれではモロに夜風を浴びてしまう。二岡の言う通り、夏とはいえ夜は結構冷え込むだろうから風邪をこじらせてしまっても仕方がないのかもしれない。
「それはお気の毒に……薬なんかは?」
「ハハ、そんなものを買うんだったら生きるのに重要な食費に当てますよ。大丈夫です。風邪といっても熱があるわけでもないんですぐ治ると思いますよ。こう見えても身体は結構、丈夫な方なんで」
「へぇ……」
本当に身体が丈夫な人ならそもそも風邪にかからないんじゃ……というツッコミはやはり野暮というものであろうか。優香が深くそのことを考えていると二岡が「まあ、そんなことよりも早いところ雑誌見せてくださいよ」と興味津々な感じで言ってきた。
「あ、はい、これです」
素早くバックを開け二岡に週刊誌を手渡した。二岡は嬉々とした表情で雑誌を読みふけっている。優香は早く三好の元へと赴きたいという気持ちで一杯だった。その感情が顔に出ていたのか二岡が不思議そうに「記者さん、何か別件でもお有りですか?」と質問してきた。
「ええ、暇になる予定だったんですが少し事情が変わりまして……」
目をまばたきしながら返答していると優香はふと、一つの疑問が湧いてきた。
「二岡さん、ここを住居にしている人たちの中で三好さんって方がおられるはずなんですけどご存知ですか?」
二人とも同じ公園に住んでいるのだから二岡が三好のことを知っていてもおかしくないはずだ。そう思って聞いてみたのだが二岡の回答は好ましいものではなかった。
「三好さん……?うーん、ごめんなさい。聞き覚えないですねーーそうだ。もしよかったら人相とか教えてもらえます?」
「ええと、髪はショートでなんだか濃い顔付きの人なんですけど……」
「濃い顔付き……」
二岡は何か心当たりでもあるのか両腕を組んで眉間にシワを寄せている。しばらく黙っていたがやがて「もしかしてその三好さんって目つきがすごく鋭い人だったりします?」と首を傾げてきた。
「はい、そうです、知り合いですか?」
「知り合いっていうか……何度かこの公園内で顔を目撃した程度で直接お話をしたことはありません。というよりなんだか常に険しい表情をされていて喋りかけるなオーラみたいなのを発しているように見えてしまい話しかけずらいっていうか……」
「ああ、確かにそんな感じもあったかもしれませんね。わたしはあんまり気にせず話をかけちゃいましたけど」
優香は不思議に思いながら、そう言うと二岡は少し驚いた様子で尋ねてきた。
「三好さんと会話されたんですか?というか別件っていうのはその三好さんとなにか関係があるんですか?」
優香は返答に詰まった。別に三好への単独取材は内密というわけではないが全くの無関係者である二宮に話していいのだろうか。もしなんらかの偶然が重なって他出版社に知れ渡りでもしたら、ネタを横取りされるかも……そうなれば里子にどんなことを言われるかーーと、流石に考えすぎか。
どうもわたしは里子にたいして畏怖を感じているふしがあるようだ。だが、それでもちゃんとわかっている。里子は確かに怒らせると怖いがそれと同時に優しさも持ち合わせているという事を。その証拠に、里子は今までに何度も優香に取材の依頼をしてくれている。フリーライターなど知り合いにたくさんいるだろうにその中で仕事のないわたしを選んでくれている。それだけで里子の優しさは充分に伝わっていた。
「あの聞いてますか、記者さん?」
「え、あ、すいません、少し、考えごとをしていまして……」
優香は軽く頭をさげながら謝ると二岡にことの経緯をなるべく短めに語った。なぜだか二岡は雑誌を地面に置き、その話を興味深そうに聞きいっていた。そんなに面白い話題でもないと思うのだが……三分ほどして話し終えると二宮はやはり興味深そうな表情を浮かべながら「自分をホームレスと認めない人ーーですか……」とつぶやいた。
「ええ、なんとかそこを説得したいんですけどね、どうにも難しくなりそうで……」
優香が苦言を呈していると、背後から葉を踏む足音が聞こえてきた。ふと反射的に後ろを振り返ってみるとそこにはまさに今、話題にしていた三好がこちらに向かって歩いてくる光景が目に入った。まだ五メートルほど離れているのでよく見えないが顔を下にやり、どうにも落ち込んでいるかのように見受けれる。
慌てて二岡の方に顔を戻すと、優香の困惑した表情に勘づいたのか彼も上半身を右斜めにやり、目を細め、前方を見つめていた。そしてすぐさま「記者さん、あの人が三好さんですか?」と風邪声で優香に確認をとってきた。
「そうです、二岡さんの予想していた人と同じ方ですよね?」
優香も二岡の顔を見つめながら確認をとった。
「はい、でもまあしかし……」二岡はそこで一旦言葉を区切り、そして「噂をすればなんとやらってやつですかね。わざわざあちら側から取材相手が来てくれるなんて、記者さんついてるじゃないですか」と肩をすくめながらあっけらかんな声で言った。
確かに二岡の言う通りだ。こちらから出向いていく手間が省けて好都合というものであろう。しかし、優香はあまり芳しい気持ちにはなれなかった。その理由は……。
「あれ?あんた昨日のフリーライターさんかい?」
知らぬ間に三好が間近にまで来ていたようだ。また、反射的に振り返ってみると優香の目の前にシワくちゃの青シャツに半ズボンを着た四十路の男性が立っていた。
「あ、どうも、三好さん、おはようございます」
優香は頭をさげながらなるべく丁寧な口調で朝の挨拶をした。三好は少し悲壮の色を浮かべながら「あ、ああ、おはよう」と言ってきた。
なんだか昨日の三好とはだいぶ印象が違って見える。その原因は間違いなく顔にあった。明らかにしょんぼりとした面持ちをしている。なにかあったのであろうか。優香は気が気でなかった。
「どうも、何度か顔を合わせたことはあると思いますが三好さんと仰るんですね。僕はこのボロ屋を住居にしている二岡渡と言う者です」
いつの間にか二岡は立ち上がって優香の横に並んでいた。三好は訝しげな顔をしながら二岡の目を見つめている。二岡はその表情で、なにかを察したのか「記者さん、ちょっとここで待っててもらっていいですか?少し三好さんと二人だけでお話したいんで」とすまなそうに言った。
「別に構いませんけど……」
「ありがとうございます。さあ、行きましょう、三好さん」
二岡に促されて三好は掘っ立て小屋が置かれている先にある茂った木立に向かっていく。優香はこっそり、あとをつけたい気持ちをこらえながらその場に立ちつくしていた。二人はかなり早めに帰ってきて優香は意外性を感じた。
「ええと、もういいんですか?」
「はい、すいませんね、待たせしちゃいまして」
いや、待ったといっても、ものの一分もたっていないのだが……。一体この短時間でなんの会話をしたというのだろうか。優香はライターの職業癖として非常に気になった。だがそのことを問うよりも早く三好が「二岡さん、あんた、ここにいる人たちの中で水野という人物を知っているか?」と期待を込めた感じの抑揚で聞いてきた。
「水野?ーーごめんなさい、聞き覚えないですね。どのような方なんです?」
「いや、顔はよくわからないんだ。声音とかは覚えているから声を聞けばどいつが水野かっていうのはわかるんだがな」
「顔は知らないのに声だけは知っているんですか?」
優香はあごをさすりながら三好に疑問を投げかけてた。
「ああ……まあな……」
三好はぼんやりと虚空を浮かべながら渋い顔を浮かべた。やはりなにかショッキングな出来事があったのだ。優香はそう確信すると同時に「三好さん。なにがあったんですか」とこれまた自然のうちに問いかけていた。
「いや、別に……」
三好は口ごもりながら指で白髪をいじっている。その動作からどうにもあまり答えたくないように見えた。そのことを二岡も感じとったのか「三好さん、無理に答えようとはしなくていいですよ。でも困ったことがあるのなら、なるべく誰かに相談されたほうがいいと思います。僕なり、この記者さんなり」と優しげな口調で言った。
その言葉でふん切りがついたかは定かではないが三好は意を決した様子で口を開いた。