回想
目覚まし時計のアラーム音ではなく、セミのすだく声で優香は目を覚ました。このところ、毎朝のようにうるさく鳴いているが虫の知識などを持ち合わせていない優香にとっては、なんの種類なのかよくわからなかった。一応ミンミンと鳴いているように聞こえるのでミンミンゼミでいいのだろうか。軽いあくびをしながらやおら起き上がる。相変わらず起床時の朝は凄まじい眠気が襲ってくる。
優香は寝起きでさえない頭を覚醒させるため、六畳間の寝室を出て台所の、右手にある洗面所に向かった。入ってすぐ、縦長の鏡に自身の姿が映った。頭髪は乱れており目に覇気が込もっていない。着用している、赤い無地のパジャマはシワ一つなく現在の自分の顔と反比例して小綺麗に見えた。優香はすぐさま蛇口をひねり顔を洗った。温度設定を低くしてあるのでそれなりに冷たく感じた。だがこれぐらい外的刺激が強い方が眠気も吹っ飛ぶというものだ。洗顔し終えると白色のハブラシで歯を磨きながら、優香は昨日の昼のことを思いふけっていた……。
二岡の取材を終えた優香は、自分の車を停めてある駐車場まで引き返し軽自動車に乗った。(帰るまでの道中、危うく迷子になりそうになった)そして素早くハンドバッグを開け、黒色のノートパソコンを取り出した。このパソコンは学生時代にバイトで貯めて購入したものなので、かれこれ六、七年は愛用しているものだ。部活仲間が使用しているを見て、自分もほしいと思い購入したのだが、最初は説明書を読んでも内容が全く頭に入ってこず、三つ上の兄に教鞭を執ってもらい、なんとか基本的な操作だけマスター出来たのは良い思い出である。優香はキーボードの上中央にある電源ボタンを押した。一、二分ほどして画面が映るとタッチパッドを操作してディスプレイにワープロ画面を表示させる。
そこからは取材メモを材料に一心不乱に記事の作成に取りかかった。幸いなことに倉間中央公園の駐車場は無料なので、長時間このエリアに車両を停車させていても料金は取られない。改めて優香は今日が平日で良かったと感じた。休日なら車で大勢来客するであろう利用者達に迷惑をかけてしまうところだった。
時間が経つのも忘れて見直しては推敲、見直しては推敲を繰り返し、完成したときには午後五時になっていた。誤字、脱字などががないか最終チェックを行い里子宛に電子メールを送った。四、五分ほどして携帯が鳴った。当然里子からの電話だった。「ご苦労様、あなたにしては中々秀逸な記事じゃない」
開口一番、珍しく里子が褒め言葉を発してきて優香は気分が良くなった。
「ありがとうございます。あのーちょっとよろしいでしょうか?」
「なに?給与のことなら一週間以内に口座に振り込んでおくから安心しなさいな」
「いえ、そうではなく、明日発売の週刊オーガスト一冊分だけ頂戴できませんでしょうか?」
「……どうするつもりなの?」
案の定、訝しかむような声のトーンで尋ねてきた。優香はあらかじめ決めておいたセリフをそのまま言った。
「実はですね、知り合いがわたしの記事を是非読みたいっていってきたんですよ。だから……」
ホームレスの人が拝読したがっているとは言えなかった。そんなことを告げれば里子に小馬鹿にされるのはよくわかっていることだったからだ。
だが里子はまさしくその小馬鹿にしたような声音で言ってきた。
「あのねぇ、そんなのその人自身のお金で買わせなさいよ。なんでわざわざ一般人にたいして無料パンフレットのように渡さなきゃならないの。ってかあなたが自費で購入するって選択肢はないわけ?」
ああ、どっちにしても馬鹿にはされるんだなぁ……。優香は改めて里子の性格を認識し直した。だがここで折れるわけにはいかない。優香はなるべく丁重な言葉使いで電話越しの里子に言った。
「いや、その……わたしもそうなんですけどあんまりお金に余裕がない方なので」
正直なところ雑誌の一冊ぐらいなら購入してもそんなに負担にはならないのだがどうせならタダでもらいたいというわたしの卑しい部分が露呈してしまいこのような頼みごとをしてしまっている。
「というかそもそも」里子はまた小馬鹿にしたような調子で言ってきた。
「雑誌の連載記事の仕事を引き受けたのはさっきなのになんでその知人は週刊誌にあなたの記事が載るってことを知ってるの?まさか寸暇を惜しんで電話して自慢していたわけでもないでしょうね?」
しまった。優香は自分の嘘下手さを呪った。里子が今指摘したようにこんな明らかな矛盾があるというのにそれに気づかないとは。もう少し作戦をねってくるべきだった。ましてや相手があの里子ならなおさらのことだ。
「それはーーですね……」
優香が答えあぐねていると里子が痺れを切らしたかのように「ああ!もうまどろっこしいわ。今日の午後七時以降ならいつでも来社していいから自分から取りにきなさいな」
「ーーよろしいんですか?」
おっかなびっくりな感じで聞いてみると焦ったそうに「貴方から頼んでおいて何をいっているのよ。本当にうざったいわね」
「はぁ……すいません」
「でも……」里子は少し優し気な口調で言った。「この短時間で記事を完成させたのはよくやったわ。結構頑張ったみたいね」
優香は一瞬どう返事をしていいかわからなかった。里子がここまで賛美するなんて雨でも降るのではないだろうか。内心呆然としつつ「ええ、でも大変でしたよ。最初の一人は取材に答えるどころか自分がホームレスじゃないって言い張っている人がいたんですから」
「……へぇ?少し面白そうね。詳しく話してみなさいよ」
意外にも興味深そうな感じで問いただしてきた。何が里子の琴線に触れてたのであろうか。皆目検討も付かなかったが優香はその件について話すことにした。
もしかしたらその人について何か心当たりでもあるのかもしれない。そう判断して優香は三好に関して知ってることを簡潔に語った。その間里子は一言も口を挟まず優香の喋りを黙聴していた。
話を聞き終えると里子はすぐさま「その三好って人、ホームレスになる前は何を生業としていたのかしら?」と質問してきた。
「さぁ?そんなことを聞く暇もなくその場を離れていかれたので」
「そう……これは飽くまでわたしの勘なんだけどね、三好さんの職業はいわゆる
勝ち組、エリートクラスだったと思うのよ」
「勝ち組ってことはーー官僚とかですか?」
優香は真っ先に思いついた漢字二文字を述べた。
「まあ、それ以外にも色々あるだろうけれど、とにかく中々良い暮らしっぷりを
していたとわたしはにらんでいるわ」
「その根拠は?」
「根拠というほどでもないけどね、大体エリートと呼ばれる人たちは基本的に
プライドが高いものなのよ。ほかの奴らとは違う優れた人間だってどうしても思ってしまう。だから逆に失墜したときのショック度も凄まじいものになる。
それを現実として受け止めたくないから自分に都合の良いような支離滅裂な解釈をしたりするの。今の貴方が話してくれたようにダンボールハウスが我が家だからホームレスじゃないなんて無茶苦茶な理論を言い出したりね」
優香はつい数時間前の出来事を思い出していた。確かに三好は初対面であるわたしにたいしてかなり高圧な態度をとっていたのでプライドが高い人物である可能性はかなりある。しかし……。
「優香」
「は、はい!」
「新しい記事の依頼。引き受けてもらえるかしら」
優香は胸の鼓動が高まったのを感じた。「え、ええ!もちろん。どういった
ものを……」
「自称ホームレスじゃない三好さんにインタビューしてきてちょうだい」
「ーーはい?」何を言い出すのだ里子は。さっき三好はインタビューに全く応じなかったと言ったばかりなのにそれをまた取材しろというのか
「三好さんをインタビューするの。もちろんホームレスとしてね」
「いやいや、里子さん、先ほども申しあげたとおり三好さんはですね……」
「ええ、その点については百も承知よ。そこはあなたの話術とか交渉力とかどんな手を使ってでもいいからとにかく相手を説得させるの」
「どんな手を使ってでもって、そんな悪人みたいなセリフ……」
「最悪、色仕掛けでもいいわ」
「……今のいくらわたしでもわかりますよ。冗談ですよね?」
「ーーさぁどうかしらね」
里子はなんとも曖昧な回答をした。優香はクーラーの効きが悪いはずの車内で
寒気を感じた。ま、まさか本気じゃないですよね?軽いジョークですよね?そうだと言ってください里子さん……
しかしそんな優香の願いが届くはずもなく里子は毅然とした口ぶりで言った。
「まあ、とにかくそういうわけで、結構長丁場になると思うから特に今回は期限をつけないであげる。粘り強くネゴシエートするの、わかった?」
「わかりましたけどなぜそこまで三好さんにこだわるんです?」
「元エリート組がどういった経緯でホームレスになったのか。その転落人生を
知りたいのよ。多分読者受けもいいでしょうし」
「読者受け?」
意味が分からず優香は聞き返した。
「そう。人の不幸は蜜の味ってやつ。みんな好きでしょう?他人の不運話とかって」
とてもYESとは言いたくない内容だった。例えそれが事実だとしてもわたしは絶対に認めたくない。でも……
「里子さんも人の不幸とか好きなんですか」
震え声になりながらそう聞くと「ーーさぁどうかしらね」とまた曖昧な回答をした。この人はいつもこうである。返答に困る質問をすると「さぁ?」だの「うーん」だの言ってはぐらかしてばかりだ。
「そんなことよりも」一つ大きな咳払いをしてから里子は言った
「なんとしてもその三好さんの過去を吐かせない。仮にその結果が極普通の一般企業の社会人だったとしても雑誌には載せてあげるから無駄にはならないわよ」
この発言の裏には『わたしの読みが外れるはずがない』という自信の表れが含まれているな。優香はそう直感した。
「了解しました。では明日にでもまた風浜公園に赴きたいと思います」
どうせ二岡に週刊誌も渡すんだしちょうど良いタイミングだ。それに優香個人にとっても三好の素性は気になるところだった。
「そう。じゃあよろしく頼むわね。優香」
その時の里子の声は心なしか優しげに聞こえた。