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岡崎

 午後八時、三好雅人は自分のダンボールハウスに籠りスーパーで大安売りされていた二百五十mlの缶ビールを飲み干していた。もうこれで七杯目である。あまり酒の強くない三好にとっては酩酊するには充分な量だった。


 しかし今日の三好はすこぶる機嫌が悪かった。酒でその憤りを抑めなければやってられない。そんな心境だった。


 イライラの原因はハッキリしている。あの一条優香とかいう記者のことだ。何度も否定しているのに人をホームレス扱いしやがって。俺はそんな人間ではないというのに。


 視野がぼやけて思考も定まらないが構わない。どうせこのあとは非常に寝心地が悪いダンボールの床に横になって眠るだけだ。明日になれば酔いも醒めよう。


 そう考えながら八杯目のビールに手を出そうとしたそのときザッ、ザッといったた葉っぱを踏む足音が遠くから聞こえてきた。最初は気にも止めていなかったがだんだんその音が大きくなっていき三好は少し疑問を感じた。


 このハウスは森林地帯の中でも傾斜の奥に設置されている場所だ。少し外出しようなどと思っても勾配のきつい坂を登らなければ出られないという年配には悪条件過ぎるところである。


 ゆえに他のやつらはもっと野外と往来しやすい場所に家を建てている。だからこの周辺に近づいてくる人物といえば退屈しのぎで俺らみたいなのを馬鹿にしてくる外部の連中か、もしくは……。そこまでの思想に至ると突如男性の声が三好の耳をつんざいた。「すいまーせん!三好さんですよね」


「な、なんだ!」


 あまりにも張り上げた声だったので三好は思わず飛びのいてしまった。そしていつのまにか、自分の目の前に一人の男が突っ立っていることが目視できた。しかし真っ暗な夜のせいで、その人物の顔立ちはよく見えない。おまけに酔っ払っているため視界がかすんでしまい、余計に顔を認知しずらくなってしまっている。


「お前は誰だ。どんな理由でここに来た」


 呂律の回らない舌でそう尋ねると、その男性は「フフフ」と少し不気味に思える笑いをしたかと思うと一言「白いカラス」とつぶやいた。


 三好はこの男がその言葉を告げたことに驚愕したが顔には出さないようにして「黒いカメ」と言い返し、「なんの用事だ。」と再び尋ねた。


 男は三好と背丈を合わせるためか低くしゃがみ込んできて淡々とした声音で「あなたとお話しがしたくて」と言った。


「冗談じゃない。俺はお前らみたいなホームレスなんかと喋ることなんてないんだよ」


「そんなこと言わないでお願いしますよ。三好さん。ちょっとの時間だけでいいんで」


「ふざけるな、ただでさえ今の俺は気が立っているんだ。さっさと帰ってくれ」


 三好は大声でまくし立てたが男はまったく聞く耳持たずといった感じで三好のすぐそばに置いてある真珠のネックレスを手に取った。


「なんです。これ?なんだかだいぶ絡まってしまっていますけど」


「返せ、きさま。お前みたいなのがそれにふれるんじゃない」


 慌てて男の手からネックレスをむしり取るとすぐにそれを元の位置に戻した。


「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。勝手にさわったのは謝ります。でも汚らわしいはないんじゃないですか。僕もあなたと同じホームレスなんですから」


 その言葉を耳にした瞬間、三好の怒りは一気に頂点にまで達した。


「俺がホームレスだと、きさま、殴れたいか」


「あ、本当に自分をホームレスだと認めたがらない人なんですね。ちゃんと合言葉は言い返してきたのにおかしな人ですね」


 相変わらず辺りは闇に覆われいるので顔の表情は見えないが男のさばさばした口振りを聞くかぎり、へなへなとした顔をしているのだろうなということが読み取れる。


「たまたま知ってたからつい返答しただけだよ。俺はホームレスなんかじゃない」


 三好はそう言うと胸の中が針に刺されたような痛みが走った。物理的痛みではない。心の痛みだ。それはつい数時間前、優香との会話の中でも同様のうずきを感じた。なぜだろうか。自分でもよくわからない。


「三好さん」男の声のトーンが少しばかり真剣なものになった。


「あなた、いつもそうおっしゃってるみたいですね。岡崎さんが言ってましたよ」


 岡崎。あのオヤジの仕業か。クソ……。


「よろしければあなたが前に勤めてた仕事なんかをきかせてもらえませんか」


 前の仕事?ずいぶんとえぐいところ突いてくるじゃねえか。聞いて腰抜かすなよ俺は……俺はだな……最近まで……くっ……。


「三好さん。初対面である僕がこんなこと言うのも失礼だと思うんですけど

  あなたの現在の立場は紛れもなくホームレスなんですよ。それを……」


「うう、黙れ」


 気づくと三好はボロボロと目から涙をこぼしていた。我慢しようにも自分の意思に反して涙があふれ出てしまっている。


「ああそうだよ。そんなことはわかってるんだよ。俺がホームレスだってことは 誰よりも俺が一番良くわかってる」


 顔の表情筋が小刻みに震えだし、気持ちが昂っているのが自分でも認識できた。そしてもうどうにでもなれと半ば開き直りに近い感覚が押し寄せてきて、

 今まで堪えてきた感情を全て吐き出す勢いで三好は一気にまくし立てた。


「だがな。それでも認めたくないんだよ。自分がそんなダメ人間になり下がってしまっているということがどうしても認められない。プライドが高いと思うならそう思え。なにせ俺はつい半年前まで社長だったんだからな。ハハハ!すごいだろ社長だぞ。社長。それなのに……それなのに……うう」


 急激に嘔吐感が襲ってきた。その原因が悲しみによるものなのか、久しぶりにこんな長台詞を喋ったせいなのか、はたまた別の要因があるのかはわからないが少なくとも一つだけはっきりしていることがある。今日は厄日だ。


「三好さん……その……」


「なんだよ……」


「実はですね。岡崎さんに頼まれたんですよ。雅人は友達が少ない可哀相なやつだからどうにかしてやってくれって。あいつは自分がホームレスだと認めた がらない頑固者だからまずはそこをなんとかしてやれれば他のホームレス達とも仲良くなれるだろうからって」


 いかにもあのお節介がやりそうな手口だ。三好は素早く舌打ちし、深い嘆息を漏らした。それから長い長い沈黙が降りてきた。その間、いつのまにか涙は留まり苛立ちもだいぶおさまってきた。そして冷静さを取り戻すと自分の体が水分を求めていることに気づいた。


 おそらく泣いたせいで体内から水が流れ出してしまったせいであろう。オマケに七月とはいえ夜の樹林地帯はそれなりの冷気が漂っている。現に目の前の男はときどき腕をさすって体温を暖めようとしている。三好は寒さを凌ぐのと喉を潤す、両方の目的で再び手のひらサイズの缶ビールをつかみ、それから一気に飲みほした。


「おおー!いい飲みっぷりですねぇ」


 男はまた元の砕けた調子に戻り三好の豪快さに感嘆の声をあげた。


「僕、お酒に弱いんで三好さんみたいな上戸な人には憧れちゃうんですよねぇ」


 明らかなお世辞。そうわかっていても賛美を受ければ自然に顔の筋肉も緩むというものだ。ましてや人に褒められるのなんて本当に久びさの経験だった。いや、

 そもそもこんなにも長い会話をしたのはいつ以来のことだろう。今日の女記者

 とはほとんど、というよりこっちが一方的に対話を打ち切ってしまったからな……。


「三好さん。僕も酒飲みたいんですけどいいですかぁ」


「え、あ、ああ一本ぐれぇなら……」


 男の無遠慮な物言いに三好はうっかり男の提言に応じてしまった。夕食の分の金を全てこの大量のビールに費やしたと言うのに。


「ありがとうございます」男は三好のそばに置かれている缶ビールをさっと取り素早くプルタブを開けーーーー四……五……六秒ほどフタに口をつけて「いやぁ美味いなぁ。酒が苦手な僕でもビールの一口目ってなんだか美味しく感じられるんですよね。なんででしょう?」と独り言なのかこっちに質問を振ってるのかわからない抑揚で喋ってる。


 そして偶然にも三好はその答えを知っていたのだ。会社の倒産が原因で別れた妻が昔、自慢げに言っていたセリフがまるで録音されたカセットテープのように三好の脳裏に再生された。


 ーーのどの中にはね、水繊維って言う水を感知するセンサーみたいなのが多数あるようなの。で、ビールは水とかよりも水繊維を長く刺激してくれるみたい。原因は炭酸の泡がはじけた刺激で水繊維が強く反応して、おまけにビールの苦味やアルコールがその刺激を継続してくれるらしいのよ。だから一口目のビールが美味な理由はほかの飲み物と比べて水繊維を強く刺激して、のどの渇きを癒すためなんだってーー


 声が想起されたということは自然と顔も思い浮かんでしまうわけでーー三好は慌ててその思考を追い払った。顔を思い出せばまた落涙してしまうかもしれない。もうそんな醜態をさらしたくなかった。


「三好さん何でだか知ってます?」


 どうやら先ほどの言葉は質問の意だったらしく男は手元の缶をゆらゆらと動かしながら尋ねてきた。さてどう答えようか。イチイチ説明するのも面倒だしな……。


「ねえ三好さん知ってますか?」


「え、ああそうだな……今度教えてやるよ」


 返答してから三好はしまったと思った。こんな言い方をすればまたいずれこの男がこのハウスに来てしまうではないか。言い直そうかと思ったが男は「わかりました。今度ですね」と満足気に言い、機嫌良く鼻歌を歌い出してきた。


 いつのまにか相手のペースに飲み込まれている。この男独特の空気の読めなさというか雰囲気というかそういったものに押されてしまっている。三好はそう感じた。感じざるを得なかった。参ったな。今日は本当に厄日かもしれない。そう考えると同時にこれ以上こいつの好きにさせてはならないと思い立ち、流れを変えるためにも三好は話題を提供し出した。


「なんでお前、岡崎の頼みを聞き入れたんだ」


 それは先ほどから三好が疑問に思っていたことだった。この男と岡崎の関係がわからない。いや、知り合いだということはわかるがそれにしたってなんの理由もなしに説明を受けただけでめんどくさいとわかる仕事を引き受けるとは到底思えなかった。だから聞いてみたのだがーー


「それは僕と岡崎さんが友人だからですよ」


 男はなんの迷いもない様子でそう答えた。


「ーーーーはぁ?」


 三好は呆れたような自分の声を聞いた。そして「フフ……ハハハ……」


 その発言が三好には非常に馬鹿馬鹿しく聞こえた。それはもう先ほどまでの嘔吐感や悲しみがどこかへ吹き飛んでしまいそうなぐらいの噴飯ものだった。そもそも岡崎とこいつではだいぶ歳が離れているだろうに。


「ーー何がおかしいんですか?」


「いや、すまねえ、億面もなくそんなことを言うから思わず笑ってしまったのさ」


「そんなことって……いっておきますけど冗談でいってるわけじゃありませんよ」


「ああ、わかってるよ」三好は自分が失笑した理由に中々気づかない男にたいして若干の苛つきを覚えながら答えた。


「友人だってことを堂々と告げれることがおかしいと言ったんだ普通こっ恥ずかしくて言えねえだろそんなこと」


「そうですか?岡崎さんは恥ずかし気もなく三好さんと友人だって言ってましたけど」


「ああ、それはあいつの勝手な妄想だ。俺はまったく岡崎のことを友人だと思ったことはない」


「え……じゃあ三好さん友達なんかは……?」


 男は首をかしげながら質問してきた。


「いねえよ、別にほしいとも思わない」


「でも、ずっと一人だと寂しくありません?もっと他のホームレスさんたちとも

  意思の疎通というものを図りましょうよ」


「めんどくせえよ。親しくなったって良いことがあるわけでもないし」


「ありますよ。仲良くなったら一緒に会話するだけでも楽しくなるでしょう」


 三好は暗闇で見えない男の顔を指差しながら言った。


「お前は今、俺と話してて楽しいのかい?」


「ええ、とっても。三好さんはどう何ですか?」

 

「………………」


 応答に詰まった。正直、楽しいとまでいかなくてもこういうのも悪くないかもなというのが今の三好の心境だった。しかしそんな本音を言うわけにいかない。俺はこの男や岡崎とは違ってひねくれ者だからな。そう心の中で自嘲するとなぜか普段より重めに感じられた口をゆっくりと開いた。


「楽しくない……こともないこともないーー」


 ーーなに言ってるんだ俺は。こんな明らかにバレバレの嘘をついてしまったら

(本当は違うのに)楽しいって言ってるようなもんじゃないか。案の定、男は手を叩きながら大笑いをしだしている。その笑いにつられて三好も自然と笑みをこぼしていた

 

「なんですか。それ。こともないこともないって……今流行のツンデレって

  やつですか?」


「ーー流行なのか?」


「ええ、聞いた話だと最近になって出来た言葉らしく、ツンとした態度を取った かと思えば時々デレたりする人のことを言うらしいですよ」


「……いやいや、だいぶ前からある言葉だぞ、それ」


 三好がそう指摘すると男は驚倒した様子で「マジですか」と大声で叫んだ。


 その動揺っぷりに三好は思わず苦笑してしまった。どんだけ古い情報を持ち出してきているのだこの男は。


「そんなに笑わないでくださいよ……」


 男が頭をかきながら苦言を(てい)してきた。


「お前だって俺のこと笑ったじゃねえか。お返しだ」


 三好はしたり顔でそう言った。といっても相手側には闇に隠れてその表情は見えないだろうが。


「なるほどーー三好さんも中々、言いますね」


 男もおそらくしたり顔をしているのだろう。そう思わせる口振りだった。


 三好はなんとも不思議な現象にとらわている自分を認識した。俺はここ数分での会話の中で怒って泣いて笑ってと喜怒哀楽の三つを体験したことになる。前々から情緒不安定な社長だと影で言われ続けてきて自分でもその自覚はあったがここまで感情の起伏が激しくなったのは初めてのことだった。酔いのせいもあるのかもしれない。そう自己分析した。


「ああ……もう酒が無くなっちゃった」


 男は残念そうな口調で言った。三好にはそのセリフの中に『もうちょっと飲みたい』という意味も含まれているのではないかと勝手に解釈し「ーーほれ、もう一本どうだ」とごく自然に缶ビールを男の前に手渡していた。


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