入院
優香と二岡と三好の三人は、氷川と岡崎が入院していると思われる病院に着いた。二岡の心臓はここに来て、胸に手を当てなくてもわかるくらい、バクバク鳴りだしていた。
その理由は車中で優香と会話をしているとき、ある一つの憶測が二岡の頭に浮かんできていたのだ。その憶測が当たっているかどうかもうすぐ判明する。先頭を歩いていた優香が、受付にぽつんと一人で座っている高齢の女性事務員に話しかけた。
「すみません」
「…………ん?ああはいはい、なんでしょうか」
声をかけられてから数秒ほどたってその事務員は反応を示した。
「二日ほど前にここに入院された、水野さんの見舞いに来たんですけど……」
「えーとはいはい水野さんね……」
事務員が名簿らしきものに目をやる。緊張が走り、思わず前のめりになりそうになる。じっとしながら返事がくるのを待った。
「うーん……」
しばらくしてから事務員は低い唸り声を出した。そして彼女は顔をあげると若干の困惑した表情をしていた。
「申しわけないけどそんな名前の患者さんは入院されていないですねぇ」
辺りが一変にして凍りつくような感覚にとらわれた。今なんと言った?入院されていない?そんなはずはない。彼は確実にここにいるはずなのに……。
「ちょ、ちょっと待ってください。もう一度チェックしてもらえませんか?」
優香が慌て気味に頼んだ。事務員が気色ばみながら告げた。
「そう言われましても……」
そこをなんとか、と優香が懇願した結果、再度の確認が行われることになった。先ほどと同じように、黙って待っていると優香がこちらに耳打ちしてきた。
「もしまた『水野さんという方は入院されていません』とおしゃってきたらどうしましょう?」
どうしましょうと言われても困る。二岡は真っ先にそう思った。そしてそれと同時に頭の中で自然と思考を巡らせていた。仮に優香の不安通り、入院されていないと宣言された場合、それはいったいどういうことになるのだろうか。真っ先に考えられるのは氷川がうそをついているというパターンであろう。しかし氷川が虚偽の言葉を述べているようには、少なくとも二岡の目には見えなかった。そもそもそんな偽りの話をしても、彼にはなんの得にもならないはずだ。
だとすると……水野という名前が実は他のホームレスたち同様、偽名だという可能性が浮上して来たな。二岡は心の中でそうつぶやいた。つまり入院名簿には水野の名ではなく、僕たちが知らない本名が載っているということだ。
……。いやしかし待てよ、だとしたら見舞いに来た氷川さんはその本名を知ってなくてはいけないわけで……
「一応質問しておきたいんだが、病院の場所を間違えてるってことはないだろうか?」
三好が優香と二岡の顔を、代わりばんこに見ながら尋ねてきた。
「それはないと思います。病院の名前や場所もちゃんと氷川さんから聞いてますし、この近辺に入院出来るほどの大きな病院は、ここしかありませんから」
「そうか」
三好はそう答えると黙り込んでしまった。場所を間違えている。確かにその蓋然性は低いだろうが……。我々がなにかを間違えているってことは案外あり得るんじゃないだろうか。もしくは思い違いや勘違い……。
そこまでの思考に至ったとき、二岡の脳にとんでもない答えが飛び込んできた。そしてすぐさま、受付の事務員に目をやる。それなりに歳のいった女性。このぐらいの年齢の人なら……。
現にこの人は優香に話しかけられても、すぐにはこちらに顔を向けなかった。つまり少しばかり耳が遠い人物だと推測される。聴力が衰えているのなら"あっち"のほうも衰えているのでは……。
二岡はいつのまにか、自分が腕を組んでいることに気がついた。よしこうなったら徹底的に、今自身の中からわいて出てきた答えが合っているかどうか、頭の中で検証してみることにしよう。二岡はそう決意し、実行に移した。
その結果、取りあえず矛盾と言えるものは存在しない。つまりその答えが正解である可能性は一応あるということだ。しかしだからといって絶対に当たっているというわけでもない。
「うーん、やっぱり水野さんって人の名前は載ってないですねぇ」
事務員が当惑した表情で報告してきた。優香や三好も困り果てた顔をしている。取りあえず今のぼくの予測が当たっていることを願おう。二岡はそう思いながら事務員に告げた。
「すみません、その名簿に載っている入院患者さんの名前は、苗字と下の名前が少し離れて表記されてませんか?」
事務員がまゆをひそめながら返答した。
「はい?まあ離れてるといえば離れてますけど……。二.三㎝ぐらいですけど」
優香と三好がなぜそんなことを?といった視線をこちらに向けてきている。それを無視して二岡は話を続けた。
「もう一つ質問させてもらいます。失礼ですが、水野の名前があるか確認するとき、名簿のどの部分に目をやっていましたか?」
「は、はい?どの部分とおっしゃられると?」
「苗字の辺りを注視しながら、確認していかれたのではありませんか?」
「そ、そうですね。水野さんというお名前なので」
「やっぱりそうですか……」
事務員はわけがわからないといった様子で尋ねてきた。
「さっきからどういった理由でその様な質問をされているんですか?」
二岡は口内にたまっているつばを飲み込み、少し間を置いて言った。
「すみません……。その今度は入院患者名の下の名前--つまりファーストネームの方に目をやりながら水野の名を探してもらえませんか?」
事務員はますます意味不明といった表情をしたが、やがてなにかを察したかのような面持ちになり「わかりました」と了解の言葉を述べてきた。
「ファーストネームに目をやる?どういうことですか?」
優香があごをさすりながら聞いてくる。どうやらまだピンときてないらしい。
「俺たちにもわかるように解説してもらえるか」
三好も『まったくもって謎だ』と言わんばかりの目をしている。一息ついたあと、説明しようと口を開くと同時に、事務員が声をあげた。
「あ、ありました!水沢水野さん。301号室に入院されてます」
「水沢……」
「水野?」
三好と優香が目をぱちくりさせながら交互につぶやく。水沢……?そうかそういうことか。二岡の中で一つ得心がいき、そして二人に向かって言った。
「水野というのは苗字ではなく下の名前--ファーストネームだったんですよ」