居場所
自分の過去話をしてわかったことが一つある。優香は横になった体勢のままそう思った。わかったことというのは、例の気になってしょうがない小学生のことだ。この三日なぜあの児童のことが気がかりだったのか、今判明した。あの子はクラスになじめなくて、悲しげな顔をしていた昔の私に似ているんだ。
休み時間に一人で砂遊び、体育のときなんかでも、彼は明らかにやる気がなかった。私もそうだ。友達が出来ず常に孤独で、授業も楽しくなく、学校に対して嫌気がさしていた。彼もそんな表情をしていた。
要するに他人の気がしないのだ。だから私はあんなに心配になっていたんだ。一つの謎が氷解し、優香は少しスッキリした。しかしもう一つの謎、すなわちネックレスの行方に関してはまるで手がかりがつかめないでいる。
どうすればこの現状を打破出来るのだろうか。やはりこうやって氷川の帰りを待つしか手はないのか。あれこれと考えをめぐらせていると、今度は二岡に対しての謎が頭の中で浮き彫りになってきた。
厳密には謎というほどでもないのだが、個人的に気になっていることだ。優香は思いきって、外にいる二岡にそのことを尋ねようとした。しかし、いきなり質問を投げかけては答えてくれない可能性がある。ここは話の流れに沿って疑問をぶつけるのが得策だろう。優香はそう決断して二岡にも聞こえるぐらいの、大声を出した。
「二岡さん、ずっと待ってて暇じゃないですか?」
「まあ暇といえば暇ですけど……。そういう記者さんは?」
ダンボール越しに、二岡のくぐもった声が聞こえてくる。
「私も暇です。それでもし良かったら少しお話しませんか」
「構いませんよ、じゃあなにか話題を振ってくれませんか?」
上手いこと話が転がってくれた。優香は内心そうつぶやき二岡に問いかけた。
「じゃあ前から不思議に思っていたことを質問してもいいですか?」
「ええどうぞ」
自分の心臓の鼓動が早まった。手で胸を押さえなくてもわかる。優香はつばを飲み込んだのち、口を開いた。
「気を悪くされたらごめんなさい。その……。二岡さんってなんでも完璧を求める方ですよね」
「…………」
空気がピリッと変わった感覚がある。二岡はなにもしゃべってこない。もしかしたら機嫌を損ねたかもしれない。やはり彼にとって、このことは地雷だったのだろうか。だが優香はこの発言をしたことに後悔していなかった。
「どうして」
「どうしてそんな性格をしているのか。って言いたいんですか?」
「そういうわけでは……」
図星をつかれ、思わず嘘をついてしまった。
「隠さなくても良いですよ。気になっていたんでしょう?答えますよ。といってもこれはもう、生来のものとしか言いようがないんですけどね」
優香は襟元を正しながら声を出した。
「では幼いころから?」
「そうですねぇ。小学校のときとかは一度習って、予習もしたはずの問題を間違えると軽く三日ぐらいは落ち込んでしまってました」
二岡の声色には若干、自嘲めいた感情が込められている気がした。
「大人になってからもまったくそれは変わらずで、会社に勤めてたときもちょっとしたミスをすると、ものすごく重大なことをしでかしたように感じちゃって」
「ちょっとしたミスってことは自覚してたんですか?」
「ええまあ」
二岡は短く返事をすると、続けざまに言ってきた。
「実はですね。僕は記者さんに謝らないといけないことがあるんですよ」
謝る?いったいなんのことについてだろうか。優香はまるで見当がつかなかった。
「フー」
二岡は優香の耳に届くか届かないかぐらいの息をついたあと、こう話した。
「会社をクビになってこんな生活をしていると言いましたよね?あれは偽言です。本当は自分からやめた、退職届を出したんですよ」
二岡の告白を聞いた瞬間、優香の中で疑問が複数わいて出てきた。まず、なぜ会社をやめたのか。なぜ嘘をついたのか。なぜ今になって本当のことを言い出してきたのか。優香は不思議に感じたことすべてを二岡に問いかけた。
すると彼は一つずつ丁寧に説明してくれた。
「会社をやめたのは……。疲れてしまったんですよ。些細なミスをおかすたびに落胆して、その落ち込んだままの状態で仕事をして、またミスをして落胆して……ってなんというか悪循環におちいってしまったので」
「ああ、なるほど」
一度ミスをすれば今度は完璧にやらないと、と強く思う。そんな思考でまたミスをおかしてしまえば相当のショックを受けるのは当然のことだろう。そして彼は繰り返し、そんなショックを受けていた。結果、精神的に参ってしまい辞表を提出したというわけか。
「クビになったっていう、嘘を言った理由は単純です。もし真実を口にしてしまえば当然、記者さんは辞めた理由を聞き出そうとしますよね?でもあのときの僕としては、そのことは話したくなかったんですよ。ミスを連発して会社をやめたホームレスがいるって記事になってしまったら、当時の同僚たちが勘づくんじゃないかって不安になってしまっていたんです」
「でもなぜですかね。今の記者さんの過去話を聞いたら、この人になら記事にされても良いかなって思えてきたんですよ。本当に不思議なんですけど」
優香は顔の見えない二岡に対してかぶりを振った。
「私は取材相手が嫌がることは、なるべくしないつもりです。ですから今の二岡さんの話も雑誌等に載せる気はありません」
優香が回答すると二岡は声に出して笑ったあと、告げた。
「なんとなく、そんな感じの答えをするだろうなと予想していましたよ。もしかしたら僕は、記者さんがそう言うであろうことを見越して、すべてを打ち明けたのかもしれません」
自分でもなぜそんな言動に出たのかイマイチ見当がつかない。二岡はそう言っているように思えた。それから二言三言しゃべったあと二岡との会話は終了した。
そしてしばらくして念願のときが訪れたと優香は思った。地面を踏みしめる足音が聞こえてきたのだ。しかもその音は漸次大きくなっていく。つまりこちらに向かってきているのだ。もしかして氷川か、岡崎が帰ってきたのかもしれない。
慌てて優香は立ち上がり二岡の元へと移動した。暫時横になっていたので、だいぶ体力を取り戻したらしい。歩いていてもそんなにだるくは感じなかった。
「たぶんここに来ますね」
二岡が腰を上げながらポツリとつぶやく。一体この足音の主は誰なのか。心拍数が上昇しているのを実感しつつ、音のする方向を注視していると一人の中年男性が視野に入ってきた。
見なれない顔だった。二岡が小声で耳打ちしてくる。
「岡崎さんではありませんね」
ということはあの人は氷川さんだろうか。優香が疑問に思っているとその人物が話しかけてきた。
「あんさんら、なんか用か?」
えらくぶっきらぼうな口調だった。二岡は氷川の腕を引っ張って、近くの樹木まで連れて行った。
ああ、合言葉を言い合うのか。優香は内心納得をし、その行く末を見守ることにした。
ずいぶんと長い間、会話を交わしている。声は聞こえてこないが、どうやら二岡が口でなにかを説明しているようだ。何分か経過して二人は戻ってきた。
「事情はだいたいこの兄ちゃんから聞いた、俺が氷川だ」
開口一番名を名乗ってきたので、優香も慌て気味に自己紹介をした。
「フリーライターの一条です。えっと一昨日の夜に水野さんの叫び声を聞いたとか」
「ああ、そうそう。えーとどこから説明したら良いかな。ま、いいや。水野は今な、病院で入院してるんだ」
「にゅ、入院?」
優香は自分でもわかるぐらいの、すっとんきょうな声を出してしまった。入院だなんて予想もしない単語が飛び出してきたせいだ。それも岡崎と一緒だなんて。もしかしてケガでもしたのだろうか。二岡が片手を挙げて質問をする。
「待ってください。もしかして水野さんの叫び声っていうのは……」
「ああ、車にひかれたんだよ。ドーンってな」
「ドーンって……」
あまりにも軽い口調で言うので一瞬、聞き間違えかと思ったが全然そんなことはなく、何度確認しても氷川は『車にひかれた』とやはり平然とした様子で告げるのだった。
「最初から説明するとだな昨日の朝ここへ帰ってきて、しばらくして酔いがさめかけてたときだった、思い出したんだよ。水野の叫び声のあとに車が急ブレーキをかけたような音を聞いたことをな」
「それでもしかしてと考えてよ、暇だったから声があった方角を目指して歩き出したんだ。そしたら驚いたことにその場所の周辺にパトカーが止まってたんだよ」
氷川のジェスチャーを交えながらの話が続く。
「気になったんで近くに居た警官に『なにかあったんですか』って尋ねてみた。そしたら人身事故が起きたって返してきたんだ。それでもしやと思って、『昨晩、この辺りで知人の叫び声を耳にした。もしかしたら被害者は知り合いかもしれない』ってカミングアウトしたんだ。おかげで詳しく話を聞かせてもらえた。
その結果、水野がこの近辺の病院に入院していることが判明したってわけだ」
「じゃ、じゃあ今すぐその病院へ行かないと」
優香は早口で言った。あせる気持ちを抑えきれない。しかしそんな優香とは対照的に二岡はおっとりとした口調で尋ねた。
「ケガの容体はどんな感じなんですか?」
「ああ、まあ対したことはないらしい。医者によると一週間ぐらいで退院できるそうだ」
ということはしばらくは水野は病院に居るということだ。だとしたらそんなに急ぐ必要もないかな。優香はひとまず落ち着きを取り戻した。
取り合えず複数の質問をしてみた結果、いくつかわかったことがある。事故の原因は居眠りをしていた運転手側が悪いとみなさせたらしく、被害者二人が保険に入っていないということもあって、治療費もろもろのお金はその運転手が支払ってくれるそうだ。
そして病院の場所を教えてもらい、ついでに昨日、今日氷川がどこでなにをしていたのかを尋ねた。氷川の説明によると、昨日は水野の病院に行ったあと、公園や本屋なので時間をつぶしていたらしい。
そしてやはり夜になって、ネットカフェをホテル代わりにして一晩を過ごしたとのことだ。夜が明けてからは、つまり今日は二岡と同様バイトをしていたとの話だった。
氷川が優香の問いにすべて答えたあと、今度は二岡の口から疑問が飛び出してきた。
「最後に一つよろしいですか?」
「なんだ」
「水野さんの本名を教えてもらえませんか?」
若干忘れかけていたが、ここの人たちの名前はほとんどが偽名である。二岡がそう尋ねた理由は病院で水野と面会しようとしたら、受付で彼の本名を口にしないと病室まで案内してもらえないと思ったからだろう。
「ああ、それなら問題ない。あいつは本名を名乗ってるからな」
「え?」
優香は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「ああ、水野っていうのが本名なんですね」
二岡はとくに驚いた様子もなく、一人納得しているようだった。その二岡の反応を見て、彼がホームレスの中でも、本名を使用している人がいると言っていたことを思い出した。
「なんで本名を使ってるんでしょうか?」
優香の質問に氷川が少しだるそうに返答した。
「本人曰く、偽名を名乗ると自分の名前を汚してるみたいで、嫌なんだそうだ。俺にはどうにもよくわからん感覚なんだがな」
「そういや、この兄ちゃんが言うには水野は泥棒をはたらいたって話なんだが」
氷川はほとんど間髪入れず次の話題に移った。
「なにかおかしな点でも?」
二岡は首をかしげた。
「それにしてはなんというか平静というか、あまり犯罪をおかしたあとって感じがしなかったんだよなぁ。まああまりあいつが、罪悪感を覚えなかったってことなのかもしれんが」
「うーん、そういうことなんでしょうか」
二岡は眉間にシワを寄せながらうなった。どうにも得心がいってない感じだ。
「でも取り合えずは場所がわかって良かったですよ。三好さんを連れて今から病院へ向かいましょう。そして水野さんを問い詰めましょう」
二岡は以前、釈然としない表情をしていたが、優香の提言には賛同してくれた。氷川に別れを告げ、三好の家へと移動を開始する。今朝見かけたときとは違い、彼は涙を流してはいなかった。
ことの事情を話すと三好は興奮を抑えきれない様子で、何度も水野が病院で入院しているのかを確認してきた。どうやら半信半疑状態におちいっているらしい。優香は幾度も同様の説明をし、ようやく三好も信じてくれた。
「変に何回もおなじ質問をしてすまなかった。あまりのことに冷静さを欠いてしまっていたようだ」
三好の謝罪の言葉を聞いたあと、優香はすぐさま二人と一緒に駐車場まで向かった。後部座席に二岡と三好を乗せ、優香は車を発進させた。
運転中、優香と二岡は時々会話を交わしていたが、三好は一言も言葉を発さないでいる。彼に話題を振ろうか悩んでいると、二岡が三好に問いかけてきた。
「三好さん、もし病院に水野さんに会ったらどうするつもりですか」
車内がしんと静まり返る。痛いぐらいの沈黙のあと、バックミラーに三好が口を開くのを優香は視界にとらえた。
「目にした瞬間、ぶん殴ってしまうかもしれんな」
物騒な発言をしたため、優香は三好をなだめようとした。
「三好さん、水野さんはケガをされているはずですよ。病人に暴力を振るっては……」
「その言い方だと健康者相手だと暴行して良いみたいに聞こえるな」
三好がいじわるそうな口調で言い返してきた。思わぬ返答にどう答えていいかわからず、黙っているとまたバックミラーに三好が開口するのが見えた。
「すまんな、変な揚げ足取りをしてしまって。でも気になったんでついな。まあその……。殴るまではいかないまでも、怒鳴るぐらいはするかもな」
「まあそのくらいなら……」
そこまで口にして、ふとこれから向かう場所を想起した。
「あ、でも病院ですからあんまり大きな声を出すのは」
全部言い切る前に三好が告げてきた。
「ハハハ、そうだな。うん、でもまぁ。案外怒りなんかは湧いてこない可能性もあるかな」
これまた意外な発言に今度は二岡が尋ねる。
「どういう意味ですか?」
「実はな。恥ずかしい限りなんだが、今日の朝俺はネックレスを失った悲しみで、涙を流してしまっていたんだよ」
それはまさしく優香が今朝目撃した光景に違いなかった。なにも言わず口を閉じていると三好が話を続けた。
「多分昨日はやせ我慢をしていたんだと思う。一日経って我慢の限界がきたんだろうな。まあそれで泣きながら改めて、俺は恨めしくなったんだ。水野のやつを」
「でもな。それでもあの夜の水野との雑談は楽しいものだったんだ。しかもそのおかげで俺は、人とのコミュニケーションを取ることの楽しさを思い出して、一条さんとちゃんと向き合って会話しようと考えたんだ」
三好が照れくさそうな声で告白してきた。言われてみれば初めて会ったときと比べれて、三好は親しくしようとしてくれてる気がした。
「なるほど」
二岡が一人納得したあと、三好はまた喋りだした。
「要するにその……。あいつには少なからずの恩も感じているんだ。だからネックレスさえ返してもらえれば、そんなにひどいことはしないつもりだ」
「そうですか」
優香は内心嘆息した。三好があまり過激な行動に出ないとわかったからだ。しかし次の三好の言葉に優香はまた安心出来なくなった。
「ただ、ネックレスが壊れてたり、なくしてたりしたらどうするかわからんがな」