涙
優香は朝早くの時間に目覚しをかけたので早朝に目をさました。ここまでの早起きをするのはいつ以来のことだろうか。セミが鳴いてすらいない時間帯だ。だから当然のことながら眠い。なぜこんな朝方に目覚しをセットしたかと言うと今から氷川のホームレスハウスに行くからだ。そして、もし昨日同用氷川が不在宅だったならば彼が帰ってくるまであの場に留まっておこうとしていた。そうすればいつかは氷川に会えるはずだ。そのためには少しでも早く駐在しておいたほうが良い。そう思って昨日は早寝をし、この時間に起床したのだが……。
想像以上の睡魔が襲ってきた。頭がボーッとして両まぶたの上下がくっついたまま、離れようとしない。まるで宇宙空間にでも放り出されたかのような、ふわふわした感覚におちいってる。もう一度布団の中に戻りたい。そんな、どう考えても二度寝してしまう行動を脳がとりたがっている。
発奮しようと両ほほを手でたたいてみたものの効果は薄く、あいかわらずの無重力状態は続いている。やがてーー少しだけ……眠るんじゃなくて少しだけ横になるだけ……。と自分に言い聞かせながら優香は布団に潜り込んだのだった。
そして案の定、優香は恐れていた二度寝をしてしまい、次に優香が意識を取り戻したときにはとんでもない時間になっていた。まずい。もう十時を過ぎてる!あわてて外着に着替えて、メイクも歯磨きも超高速で済まし、朝食を抜いて外に出た。
なぜわたしはあんなバカなことをしてしまったのだろうか。眠気など高温のシャワーにでも浴びるとか、いくらでも追い払う方法があったろうに。なのにわたしはそれに抗うことなく、一番楽な道を選んでしまった。自分の意志の弱さに切歯扼腕しながらアパートの階段を降りると、あの向かいにある学校に目をやった。
二度あることは三度あると言うけど、三日続けて似たような光景を目にするのは珍しいことではないのだろうか。今は授業中だったらしく運動場は体操服を着用している児童たちがドッジボールで戯れていた。かたわらには先生らしき人が立っていた。問題はその運動場に例の男の子が外野と思われる位置で体育座りをしているということだ。最初から外野担当のポジションだったのか、ボールを当てられたせいであそこにいるのかは不明だが、一つだけ言えるのはあの子がこの球技を楽しんでいないということだ。
本来なら外野の人間は内野コートからこぼれたボールを拾い、それを敵チームに当てるという仕事を行うはずなのだが、彼はその行為をまったく実行しておらず、前述の通り体育座りを決め込んでいるのだ。
その寂寞感あふれる姿はまさしく一昨日、昨日休み時間のときに見かけた彼そのものだった。教師も座っているのはやる気がないと判断したのか男の子の側に寄ってきた。周りの生徒たちも自然とボールの投げ合いをやめた。しばらくして教師が生徒たちに一言、二言告げ、その男の子を連れて運動場の隅のほうに移動した。
なにやら教師が喋っているのはわかるがそれほど大きな声量を出しているわけではなさそうなので声はここまで届かなかった。男の子はうつむいたまま教師の話を黙って聞いている。教師の表情を見る限りなにやら長話になりそうな感じだった。その後の展開が気になるがあいにく今のわたしには時間はない。優香は後ろ髪をひかれる思いで軽自動車を走らせた。
車を運転している間も優香の頭には男の子の顔がこべりついていた。本当に何でこんなにあの子のことが気になるのだろうか。ある意味水野の行方よりもこっちのほうが皆目見当もつかなかった。どうしたもんだか。あれこれ考えているうちに例の公園に着いた。朝早いこともあってか駐車場は昨日以上にすいていた。
優香はあいているスペースに車を駐車させた。今日はかなり長い間この愛車を停めておくことになるかもしれない。休日だったら車来訪者たちに迷惑をかけるところだった。優香は歩きながらそう考えた後、少し鳥肌が立ってしまった。
一応三好さんに一言挨拶をしておくか。森林地帯に踏み入る直前、優香はそう思い立ち三好の住処まで一路進んだ。これで通るのは三回目となる下り坂を降り、もうすっかり見なれた三好の家が見えてきた。
それと同時にブルーシートの上に座っている三好の横顔が写りこんできた。その瞬間、優香は自分の目を疑った。三好の涙腺から涙が出ているのだ。優香はとっさに木立の裏に身を預けた。三好の泣き方はいわゆる号泣というやつではなく、なにもわめかず、なにもうめかず、静かに涙を流していた。
思わず隠れちゃったけどこれからどうしよう。木の陰からこっそり覗き込みながら優香は思索した。まず一番不思議なのは、なぜ三好が泣いているかという点だ。しかしいくら考えても、それらしい理由は思いつかなかった。もしこの場に二岡がいれば、昨日みたいな推理でこの疑問を解決してくれるかもしれなかったな。
しかしそれはないものねだりもいいところなので優香はその思考をやめた。その瞬間、優香の中でスパークのごとく閃光が走った。もしかして昨日の熱がまだ引いていなく、むしろ悪化していてるのだとしたら。表情には出ていないが三好は苦しさのあまりに泣いているのかもしれない。もしそうだとしたら大変だ。急いで三好のもとに向かわなければ。そう決意し第一歩を踏み出したとき、優香の耳に掠り声が届いた。
「ネックレス……もう……戻らない……」
三好のつぶやきは一瞬にして優香の足を停止させた。そしてまるで火炎の中に投げた氷塊が溶けるかのごとく、優香の脳にうずまいていた謎は氷解した。三好は苦痛で泣いてるのではない。悲しみのあまりに涙をこぼしているのだ。
三好にとってあのネックレスがどれほど大事なものなのかを、優香はここにきて真に理解出来た。まさかそこまでの品だったとは……。優香は自分の甘い考えを嘆きたくなった。
どうする。優香は動きを止めた格好のまま熟考した。そして優香なりの答えを導き出した。
こんな状態の三好にはとても話しかけられない。ばれないように回れ右するしかない。優香はそう決意するとすぐさま方向転換をし忍び足で三好の家から遠ざかった。
今度は氷川の住処に移動を開始した。三好のことは気になるが、今は早いところ氷川と会わなければ。頼むから不在ではありませんように。そう懇願しながら目的地に到着すると、優香の願いが無駄に終わったことはすぐにわかった。
氷川のダンボールハウスには空虚の空間が広がっていたからだ。すぐ近くにある目立った岡崎のハウスも同様の状態だった。二人とも昨日からどこに居るのやら。しょうがない。当初の予定通りここで待たせていただこう。優香はあらかじめ用意してきた小さめなシートベルトを適当な位置に敷いた。そしてその上にあぐらをかいた。
二岡の推理通りなら昨日の氷川はバイトをしていてどこかネットカフェかカラオケに泊まっているはず。睡眠目的だけでそのような施設を利用したならば夜が明けた今、帰ってきてもおかしくない。とはいえもちろん必ず帰宅するとは限らないし二岡の推察が外れている可能性だってあるだろう。しかし今のわたしにはもうこのくらいしかやれることが残されていないのだ。
昨日の三人みたいに居場所が推測出来そうな手がかりがあればまだ良かったのだが、あいにくわたしの眼前に存在する二つの家(?)の中はものの見事になにも無い状態なのだ。だからこうして待機している。それが最良の選択だと信じて。