来訪者
二岡と優香が去ってからしばらく経ったときだった。遠方から地面を踏みしめる鈍い足音が聞こえてきた。その音はだんだん大きくなっていき、やがてとある人物の声が三好の耳に入ってきた。
「三好さん、いますよね?」
話しかけてきたのは先ほどまでこの場にとどまっていた若いホームレス、二岡だった。
「ああ、まだなにか用があるのかい?明日はバイトなんだろ?さっさと寝た方が良いと思うんだが」
二岡は三好の忠告には返答せず藪から棒に告げた。
「三好さん、その……今でもまだ自身がホームレスだということは認めないおつもりですか?」
その質問は三好にとって触れられたくない部分なので急に不愉快な気持ちになった。
「なんだ、一条さんに話を聞いたのか?それにしてもきみを当たり前のことを尋ねるな。俺には家があるんだからホームレスじゃないに決まっているだろ」
三好は語気を強めつつ、やや早口で答えた。二岡は困りきったような表情でこちらを見すえている。
内心、彼も呆れかえっていることだろう。俺の言論は虚勢にすらなっていないのだから。
「どうしてもその主張を翻意させる気はありませんか」
二岡の最終確認かのような問いに三好は当惑を覚えながらも少し間をおいて簡潔に答えた。
「ああ」
「そうですか……」
なぜだか二岡はそうつぶやくと少し悲しげないろを漂わせた。そうして「明日こそネックレス、見つかると良いですね」と捨て台詞かのようなものを残して去っていった。
なんだったのだろうか。身体中がそんな気分で支配されていく感じだ。二岡は別に記者じゃない。なのにどうして一条のような質問をしてきて、一条のようなへこみかたをしたのだろう。まさかーー三好はそこから長考を始めた。そして導き出した答えは、一条のホームレスインタビューはまだ終わっていなくて、二岡はそれを聞かされたから俺に先ほどのような問いを投げかけてきたのではないか、という結論だ。
この推測が当たっているかどうかはわからない。本人に直接尋ねてみなければ永久に不明のままだろう。今から追いかけようとも思ったがこの暗闇の中、明かりもなしに、一度しか訪れていない二岡の寝床までたどり着けるかどうか不安だった。ゆえに三好はこの場から離れなれなかった。
明日はバイトで忙しいだろうから明後日以降二岡に会うことがあれば聞いてみるか。そう思って三好は先刻、一条にもらい受けた鮭入りのおにぎりを手に取った。
そしておにぎりを半分に割り中に入ってる鮭を取り出すーーつもりだったが、その行動に移ろうとした瞬間、胸の中でなにかが訴えかけてきた。同時に一条優香の顔が頭の中に浮かんできた。
なぜここで彼女のことが想起されたのだろう。いや、考えなくてもわかっている。こんなおっさんのために尽力をそそいでくれた記者に、俺は少なからずの恩義を感じているのだろう。だから俺は今ーー鮭を抜くことなくおにぎりを食っている。アレルギーなど知ったことか。そんな思いが胸にあふれてきた。
美味い。久々のちゃんとしたメシだから、という理由だけではない。月並みな表現だが、一条優香の温もりを感じた。ラーメン屋で購入した食品にたいしてなにを言ってるんだと誰かに笑われるかもしれない。
しかしそれでも俺は今、確実に彼女に心から感謝している。こういった感情が生まれたのはいつ以来だろう。もうずいぶんと懐かしい感覚だ。おそらく思い出せないぐらい昔のことだろうな。二岡は自嘲気味にそう思った。
おにぎり二つを残すことなく食べ終わると、続いて錠剤の風邪薬を飲んだ。これでもう今日は飲酒出来なくなった。なぜならアルコールと薬は、どちらも同じ肝臓で分解される。つまり服用したあとに酒を飲むと肝臓に二重の負担をかけることになる。その結果、身体に薬の影響が長時間残り、ヘタをすれば生命を脅かす事態になる蓋然性がある……らしい。これもTVで言っていたから注意してね、と別れた妻に教えられたことだ。
妻。もうあいつとは二度と会うことはないだろう。その今生の別れを告げた彼女の形見でもあるネックレスは水野が持っていってしまった。そして多分二岡も一条もうすうすわかっているはずだ。ネックレスは戻ってこないということが。
なぜなら水野のダンボールハウスがなかったということは、もう彼はこの公園ではなく別のところに住居を変えたということになる。
昨日岡崎が水野を呼んでいた声を三好は耳で聞いているので、岡崎なら行き先を知っているかも……と一瞬、思ったが冷静に熟考してみると、親しい仲とは言え泥棒がわざわざ、移転場所を教えるとは考えにくい。そしてそれは、他のホームレス連中にも言えることだった。
ようするにネックレスが返ってくる可能性は限りなく低いということだ。それなのになぜ二岡と優香はあそこまで必死になって捜索してくれるのだろう。多分、二人とも俺みたいなひねくれ者とはま逆の性格をしているのだろう。そう感じた。
今日は色々なことがあり過ぎた。疲れがたまっていたせいなのか、腹がふくれたせいなのかはわからないが、急にとてつもない睡魔が襲ってきた。
眠い。たちまち脳がその二文字であふれてきた。二岡は早々に横になって睡眠を開始した。