バイト
氷川のダンボールハウスに優香と二岡は急ぎ足で向かった。一言も会話をしないまま目的地に到着したが、この家(?)の主は先刻同様不在宅だった。ついでにすぐ近くにある岡崎のダンボールハウス内にも人は居なかった。要するに午前中に訪れたときとなにも状況は変わっていないというわけだ。唯一の違いは太陽の位置くらいだろうか。
「うーん、ずいぶんと長い間、外出されてるみたいですね。もしかしてバイトとかに行かれているのでしょうか?」
優香は自分の推測を口にすると二岡がそれに反応を示した。
「そうかもしれません。でもそれにしたってホームレスはほとんど日雇いの仕事しか出来ないですから寝泊りするような長期なバイトじゃないはずです。だからそろそろ帰宅されても良い時間帯だと思うんですよね……」
優香は無辺な森林地帯に対して耳を傾けた。足音どころか、ほぼ無音に近い空間であることが判明した。人の気配も感じられない。誰かがこの辺りを歩いている可能性は低いということだ。
「どうにも未だに戻って来る感じがしないですね。これはもしかして……」
二岡が思い当たる節があるような口調でつぶやいた。優香は疑問をぶつけた。
「何です?」
「今日はカラオケ店やネットカフェとかで一夜を過ごすつもりかもしれません。氷川さんが」
「ーーそのような場所で一泊する日なんてあるんですか?」
優香は素早く尋ねた。何となく公園を居住にしている人は毎日そこを寝床として使用しているイメージが優香の中であったからだ。
「お金に少しばかり余裕のある人物ならそういう贅沢な使い方をするかもしれません。一応、室内ですから外で寝るよりもよっぽど安眠出来ますから」
確かに、貧困に悩まされる人でも格安ホテル辺りなら利用するときもあるかもしれない。ましてやカラオケやネットカフェなどはその安いホテルよりもお手頃価格で泊まれるだろうし。優香は納得すると同時に口を開いた。
「もしそうだとすると……。本日はもう帰って来ないってことですよね」
「ーーまあ、あくまで僕の予測なんで外れてるかもしれませんけど」
二岡が軽い口調で返答してきた。言い回し的にはそう感じさせないのだがセリフだけ耳にするとボヤいているように聞こえる。二岡がそのような言葉を吐くとは思ってなかったので優香の中で意外性が生まれた。そういえば自分の推察が誤謬だと判明し、動揺している二岡の姿をわたしは二回ほど見ている。昨日わたしが海外に行っている、という誤った推理を披露したときと先ほどの暗号文の答えが運動屋と発覚したときだ。どちらも自身のミスが原因で狼狽している。
「二岡さん、その……こんな質問をするのは失礼だと承知しているんですが……それでも言わせてください。どうしてあなたは推測が間違いであるとわかったときに大きくうろたえるんですか?」
人間だれしもを誤算をする経験はある。そしてその状況にはまってしまうと、よほど達観した人物でもない限り、取り乱すのは当たり前のことだ。しかしそれを考慮に入れても二岡のリアクションはオーバー気味に見える。それはそんなに悲観にならなくても良いのに……。と言いたくなるぐらいのレベルのものだ。
「ああ……。そんなにあからさまに映って見えましたか?その……どうしてと言われましても、自分が何らかの失敗をしたら困惑するのは当然だと思いますけど」
二岡はくっきりとした目を虚ろなまなざしに変えて回答した。その瞬間、優香は薄々感じていた予想が的中していのではないかという思考が頭に浮かんだ。その思考とは、本人に自覚はないのかもしれないが、彼はいわゆる完璧主義者というやつではないかということだ。なにをするにもパーフェクトに出来ないと気が済まない。百点じゃないとダメだ。そういう考えの持ち主。それが二岡渡という人物ではないのだろうか。そして、あくまで予想だが基本的に真面目な性格のようだからそういう症状が現れてしまうのかしれない。
その仮説を当てはめると色々と合点がいく。昨日やさっきの動揺さ加減は自分の推察が見当違いだったから。完璧主義者にとってそれは結構な苦痛になるだろう。
優香がここに来てその確証を得た理由は今の二岡のセリフにある。彼はミスをしたときの感情について『困惑』という言葉を使用した。しかし、少なくとも優香の目には二岡の表情は困惑という生易しいものではなく、もっと強烈ななにか、そう、戦慄。その二文字のほうがふさわしいだろうーー
人間は自分のことを深く知っているつもりでも意外と熟知していない部分が多い。二岡の場合は自身の性格が、完璧主義者だということを理解していないのだろう。だからミスをしても本人としては少々の焦りのつもりなのかもしれないが実際は常人より大きく精神的に参っている状態になっている。誰でもこのぐらいの当惑におちいるだろうという思考に至る。
しかしそれにしたって二十年以上生きてたら誰かから満点にこだわり過ぎじゃない?みたいに指摘されてもおかしくないと思うのだが……。
「これまた無礼千万なことを申し上げることになりますが……。二岡さん、どうしてそんなに完璧にこだわるんですか?」
優香がそう聞くと、二岡は案の定、首をかしげて「そんなにこだわってるつもりはないんですけど」と返答してきた。
その後二岡に対して矢継ぎ早にクエッションを投げかけた結果、どうやら彼は昔から完璧主義者だと言われ続けたらしい。ただ本人はそのたびに否定の言葉を返していたとのことだ。
「閑話休題。話を戻しましょう。仮に今日の氷川さんがどこかの娯楽施設で就寝しようとしているのならばおそらく明日にでも帰宅していると思いますよ。さすがに一日中ネットカフェやカラオケに篭ってはいないでしょうし」
「どうしてそう断言出来るんですか?夏ですから涼しむ目的でそのような施設を利用することだってあると思いますけど」
優香も頭を二岡のことからから氷川の行方について切り替えると二岡に疑問もぶつけた。先ほどから何度わたしは彼に質問をしているのだろう。まるで取材しているみたいだ。
「涼しむだけなら大型スーパーやゲーセンなんかに赴けば良いだけです。わざわざ貴重なお金を消費する理由が見当たりません」
「はぁ、なるほど。それじゃあもう今日は会えませんね……どうしましょう?」
「とりあえず三好さんにこれまでの経緯を報告しに行ったほうがよろしいかと」
二岡の提案に優香はすぐさま賛同する気持ちで一杯になり同意の言葉を口にした。
「そうですね。わたし、三好さんのダン……ご自宅の場所は知っていますし、一走りしてきますよ」
「僕も同行しますよ。記者さん一人だけ行かせて自分だけなにもせず休んでいたら三好さんに怒られそうですし」
二岡は微笑しながら応じた。優香も別段断る理由もなかったので大きくうなずいて承諾の気持ちを表す。
「それでは案内よろしくお願いしますね。記者さん」
二岡は優香に目をやりながらそう頼んできた。優香はお客を先導するガイドさんのような気分で「こちらです」と言いながら足を踏み出した。
後ろからついてくる二岡を気配で感じながら優香は三好のことを考えていた。彼に水野がトラブルに巻き込まれた可能性があるという新情報を報告したらどんな反応を示すだろう。心配する素振りを見せるだろうか。それとも自分の物を盗んだ悪人なので嬉しがるだろうか。なぜそのようなことが気になるのか優香はよくわからなかった。
夏の太陽がようやく沈みこの公園に夜が訪れた。当然、電灯がないので辺りはかなりの暗闇でおおわれている。二人の影も綺麗に消滅してしまってる。現在は二岡がいるので平常心を保てるが一人でこのような場所を歩いていたら今ごろビクビクしていたことだろう。
そのようなまったく自慢の出来ない確信を持ちながら足を前に動かしていると三好の家、すなわちダンボールハウスが優香の眼前に現れた。先の通り、宵闇の時刻なので携帯電話をライト代わりにしながらここまで進んできた。一応念のため表札の文字が三好であることを確認した。
「三好さん」と声をかけると室内(?)から「記者さんかい?」と返事がし、黒いシルエットがのっそりと立ち上がり三好が外に出てきた。顔にライトを当てると三好はあくびをして軽い涙を流しながら言った。
「それで、どうだった、なにか有力な情報でも手に入れられたかい?」
優香はこれまでのあらましをつまびらかに解説した。何だかこの二日間、色々なことを説明している気がする……。
話を終えると三好の目に輝きが出現したように見えた。
「じゃあその氷川って人を見つけ出せれば良いわけか……」
そのようなセリフを吐くと三好の目は決意の眼差しに変貌し、言った。
「二人ともなにからなにまでありがとう。本来ならこういうとき、相応のお礼をしないといけないのかもしれないが、あいにく俺には貢献出来ることはなにもないんでね。すまない」
優香は「いえいえ、そんな」と返答すると、暗くて少しわかり辛かったが二岡がなにかひらめいたような表情をした。もしかして、今すぐ氷川の泊まっている場所が特定出来る方法でも浮かんだのだろうか。
尋ねようか考えあぐねていると三好が優香のを顔を見据えながら口を開いた。
「ここまで協力してもらって何だがもう夜遅いから一条さんは帰宅したほうが良いんじゃないか?」
言われて携帯に腕時計を当てて時間を確認すると、八時半を指していた。つまり現在の時刻は七時半だ。右肩から覗き込んだきた二岡が呆れ気味な声を出した。
「まだ時計の時刻直してないんですか?機械オンチたって適当にボタンをいじってれば仕組みがわかると思うんですけど」
「ええ、まあそうなんですけど……」
優香は自分でもわかるほどのばつの悪い顔をすると三好が思わぬ一言を告げてきた。
「良かったら俺が正確な時間帯に直してやろうか」
「え」
反射的に口から出た言葉は字数にしてわずか一文字だった。
「なんだ、そのリアクションは。もしかして年寄りは機械に弱いなんて思っているのかい?言っておくがこう見えても俺は昔、時計……」
そこまでしゃべりかけて三好は慌てて口を閉じた。そして迅速なスピードでこちらに手を差し伸ばしてきた。
「とにかく、正しい時刻にするだけなら俺でも出来るってわけだ」
携帯の明かりに照らされた、誇らし気な顔つきをする三好を見て、優香は腕時計を外して眼前の男性に手渡した。
三好は手元にある乾電池式の小型ランプの電源をONにすると腕時計を注視し始めた。そして真横についてる複数のボタンをいじりだした。優香と二岡はその様子をただただ傍観しているだけだった。変に声をかけて時計の時間を戻すのに支障にきたすとまずい。優香はそう考えて黙っていた。おそらく二岡も同様の理由で沈黙を貫いてると思われる。
三好はこれまた手元にある自分の置き時計をのぞき込んだ。おそらくそれに表示されている時刻を腕時計に合わせようとしているのだろう。しばらくして、腕時計を直している間、ずっと無言だった三好が声を出した。
「はいよ、これで正確な時間になったはずだ」
「ありがとうございます、三好さんーーごめんなさい」
優香は礼を言うと同時に謝罪の言葉を述べた。三好はわけがわからないという様子で質問してきた。
「なぜ謝る。詫びるなら先に理由を告げてからにしてほしいな」
「えっと、わたしは三好さんのためになにもしてあげられてないのにこんなことしてもらって……」
「時計ぐらいで大げさすぎじゃないか?それに、なにもしてあげられてないはおかしいだろう。氷川という人物が水野の居場所を知ってる可能性があるということを突き止めただけでも大したもんだよ」
「はぁ……。でもそれも菱川さんが教えてくださったことですし」
優香のつぶやきを否定するように三好はかぶりを振った。
「その情報を聞き出せたのはあんたのお陰だろ?」
「いえ、教えてくれた理由は二岡さんが例の合言葉を……」
「いや、だからそれは」
優香と三好の会話が長引きそうになりかけたそのとき二岡が両名のあいだにわって入った。
「ちょ、ちょっと待ってください、お二人とも。このさい、誰のお陰とかは問題ではないと思いますよ。氷川さんが重大な情報を持っているかもしれないってことがわかって状況は少し進展した。それで良いじゃありませんか」
二岡の説得に三好はすぐさま応じた。
「そうだな。きみの言う通りかもしれん。いや、危うく彼女と軽い口げんかにおちいりかけたよ。止めてくれてありがとう」
「ありがとうございます、二岡さん」
優香も続いて二岡に礼を申し上げると彼は少し気恥ずかしそうな声調で返答した。
「どういたしまして。それより、記者さん先ほど三好さんがおっしゃったように、夜も遅いですし帰宅されたほうが良いのでは?」
優香はその提言に対して少し勘案したがやがて肯定のセリフを口にした。
「そうですね。では今日はこの辺で帰らせてもらいます。でも明日は特に予定がないので朝一番にここに舞い戻ると思いますけど」
「……明日も来るのかい?」
三好が低い声音で聞いてきた。携帯を彼の方向に向けると口がへの字に曲がっていた。
「ええ、ここまで来たら乗りかかった船ですから」
優香の口答に三好は面食らった表情を浮かべた。
「あの……わたしが来ると問題でもあるんですか?」
三好の面持ちから優香はなにか余計な発言をしてしまったのではないかと心配になった。
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
三好が首を横に振りながら途中でセリフを止めた。静寂が訪れてから数秒、二岡が口を挟んできた。
「あの、よろしいですか。明日のことですけど」
心なしか二岡はすまなそうな顔立ちをしていた。
「実は翌朝は一日バイトの予定が入ってまして、だからその」
「ああ」
優香は二岡の言いたいことが理解出来た。
「気にしないでください。明日はわたし一人でやりますから」
優香の宣言に二岡はほっと胸をなで下ろした様子だった。
「そうおっしゃってもらえるとありがたいです、お願いします。三好さんもお力になれず、すみません」
「全然構わないよ。むしろ貴重な収入を得られるチャンスを捨ててまでネックレス探しに全力を尽くすなんて言われた日にゃあ俺はあんたを変人扱いするところだったぜ」
「ハハハ、僕は凡人ですよ。ごくごくありふれた……ね」
二岡は乾いた笑いをすると優香のいる方向に細い首を曲げた。
「そういえば記者さん、辺りはずいぶん暗いですけどちゃんと駐車場まで帰れますか?ここけっこう広いですし迷子になるかもしれませんよ」
二岡の発言に優香の頭の中は不安な気持ちでいっぱいになった。確かにこの暗黒とも言える場所で迷わずに目的地につけるかと問われれば自信がない。
「記者さんさえ良ければ僕が森林の外まで先導しますけどどうします?」
その提案は優香にとってはありがたい話だった。断る理由も見当たらないのですぐにその誘いを受けることにした。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
優香はそう言った後、三好に別れのセリフを告げ二岡に駐車場まで連れていってもらった。きしくも二岡を案内していた、さっきまでの状況とま逆になっている。だからどうしたと言われればそれまでだが、何だかその逆転現象が優香の中でツボに入ったので内心ほくそ笑みながら優香は帰宅した。