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暗号

 優香は三好と別れると二岡と肩を並べて場所的に近いほうの、菱川のダンホールハウスを目指した。さすがに今日、一周した地帯なのでこの辺りの道の記憶も鮮明で、行き先を見失うということにはならないが例えばこれが一ヶ月振りに訪れていたとしたら少し迷子になっていたかもしれない。


 二岡との会話内容は菱川が書いたと思われるあの暗号めいた文に関することだった。二岡曰(いわ)く、自分の憶測が外れていたという可能性が一番ありえるらしい。優香はその予想にたいしてなにも言えなかった。何だかその話をしていてときの二岡が悲しげな眼差しをしていて、どんな励ましの言葉を投げかけても無意味なように思えたからだ。


「そう考えるとこれを持ってきちゃったのはやばかったんですよねぇ」


 ポケットから紙片を取り出しながら二岡は後悔のセリフを口にした。『これ』と言うには菱川の似顔絵のことだ。その紙を目にした瞬間、優香は二岡の言葉の意味を理解した。もしあの暗号が縦読みじゃなかったとするなら必然的に菱川はいつ帰ってくるか分からないということになる。二岡がこの似顔絵を持ってきたのは六時までに菱川が帰らないからそれまで戻れば大丈夫だと踏んでの行動だった。


 しかしそれはその推理が正解していればのことである。外れているとするならばその前提は崩れ去り菱川に大迷惑をかけることになるかもしれないのだ。へたをすれば盗人扱いされる可能性だってある。泥棒の行方を追っていたのに自分たちが泥棒になってしまっては何だか落語の演目みたいな話になってしまう。


 優香は少々焦り気味に言った。


「あーわたし今になってまずいって気づきました。でもそれならどうして菱川さんにデパートにいないってわかった地点で公園に帰りましょうっておっしゃって下さらなかったんですか?」


「いや……腹が減っては戦は出来ぬって言いますし……」


 二岡が申しわけなさそうにつぶやいた。確かにあのときはちょうど昼食の時間帯だった。でもだからといって……。優香が自分の意見を声に出そうとした瞬間にちょうど目的地が目に入ってきた。話に夢中になっていて菱川のダンボールハウスまで間近に迫っていることに、この距離になるまで気づけなかったのだ。


 菱川が出戻っているかどうか不安に思いながら一歩、一歩踏みしめて前進していく。そして直前まで近づくと中に誰かがいる気配を感じた。ああ……。ため息をつきたくなる気持ちを抑えながら優香は出入り口をチラリと覗いた。デパートのときに、散々探していた顔がそこにあった。


「どうかされましたかな?お嬢さん」


 似顔絵で感じた通り、紳士風な顔立ちだった。そして外見で受ける印象と同じくらい、口調も丁重なものだった。今までのホームレスの方々はわりとフランクな話し方をする人がほとんどだったので正直、こんな礼節な対応を受けてちょっと動揺してしまっている自分がいる。


「あの……菱川さんですか?」


 優香はおずおずと尋ねた。


「ええ、おっしゃる通り、わたしが菱川ですが。なにか用でもございますかな」


「ごめんなさい。ちょっと僕たち、わけがあってこれを盗っていってしまいまして……これあなたのですよね?」


 二岡が先手必勝と言わんばかりに似顔絵を差し出しながら謝罪してきた。菱川は少しばかりあ然とした面持ちをしていたがすぐにそれは微笑に変化し、優し気に告げてきた。


「ええ、いかにもこれは自分の所持品ですが……。それにしてもどういうことかな?わざわざ、盗んだのを告白してくるところを考えるになにかそれなりの理由があるみたいだね。それにそんなに悪人ってわけでもなさそうだ」


 多少は怒気が飛んで来るかと思ったが、まったく憤然とすることなく、まずはこちらの事情を尋ねてきた。この男性が精神的に熟していることが窺える。菱川を一言で言い表すとしたら冷静沈着という四字熟語がピッタリであろう。優香はそう感じた。


「ええと、ですね……」


 何ともたどたどしい幕開けで優香はこれまでのことの成り行きを語り始めた。話を聞いているとき、菱川は一切の表情筋を変えることはなかった。常に優香の目を見ながら耳を澄ましている様子だった。可及的、速やかに優香は説明を終了させた。


「なるほど。それは悪いことをしてしまったみたいですね」


 菱川はそう言いながら例の暗号文の紙を二岡と優香に対して差し出してきた。





 7月16日


 今日はBADDEYです。なぜなら今日は運動会の

 日だからです。僕は運動オンチなので運動会が嫌いです

 はやく走れる人は英雄扱いで、遅く走っている人はノロマ扱い

 六年間ずっと僕は後者の方でした。そしてこれからも永遠にノロマ扱いでしょう

 自分はそう言う人間なんです。これっばかりはどうしようもない運命なんです

 まあ、それでも練習はしてみたけど才能がないのをすぐに自覚しました

 できる子とできない子の差が一番、顕著に現れる日。それが運動会

 でもそんな行事でもマシなところも少しはあります。数ある地獄の競技の中に

 パン食い競争と言う運動と関係ないのがあるのです。それでも運動会は嫌です

 あめが降ってくれれば雨天中止もあり得ただろうに、あいにく今朝は晴天です

 とり合えず登校する準備は出来ました。でもなんだか足が重い感じがします

 にくむべき運動会。イライラがとまらない。

 いつもはこんな症状は起きないのに……くそ……どうして……。

 ママに頼んで休ませてもらうか、いやママはそんなに甘い人じゃないいっそ

 すぐにでも自殺しようか……。





「これは火村さんという方のために書いたんです。その人は、時々ここに遊びに来るからもし今日来ても良いように伝言板変わりに残していったんですよ」


 水野のダンボールハウスを捜索しているときに火村と彫られた表札を見た記憶は鮮明に脳裏に焼きついている。一瞬、『火』の文字だけが目に映り火野さんじゃないかと思ってしまいその後、すぐにガッカリしたので強く印象に残っている。だから彼の言っていることは真実であろう。つまり本日の行くところをわざわざ紙で記した理由は優香の憶測がズバリ的中していたということが判明した。優香は少し嬉しくなったが、あえて顔には出さなかった。


「そこの二岡さんって人の予想通り、暗号の解き方が間違っていたんですよ。何だかわかるかな?」


 菱川がニヤリとしながら問うてきた。二岡は苦々しい顔をしながらも即答した。


「ずいぶんと前から熟考してるんですけど……うーん……わかりません」


「まあ、それも無理ないですよ。提示された場所はそんなに有名ではところですから」


「と、言うと?」


「正解だけ先に告げるとこの近辺にある運動屋ってスポーツジム何ですけどね」


 運動屋……。確かに聞き覚えの無い店名だ。記者として様々な情報を得るために色んなところにアンテナを伸ばしているつもりでいたのだが、まだまだ伸ばし足りないということだろうか。優香が答えを耳にしてもイマイチ、ピンとこないのに反して二岡のリアクションは大きかった。


「運……働……屋……?」


 二岡は若干、声を震えさせながらそうつぶやいた。この反応は驚きというより動揺のそれに見えた。どうしてしまったのか彼は。


「二岡さん?」


「あ、言え、ごめんなさい……。菱川さん、暗号が書いてある紙片を拝見させてもらえないでしょうか?」


 二岡の頼みに菱川は快く了承し、菱川の似顔絵と交換する形で二岡は暗号の紙を受け取った。数分ほどそれを凝視していると二岡はゆっくりと口を開いた。


「ああ、そういうことですか……はぁ……」


 なにかを悟ったかのように、ゆっくりと息を吐いた二岡を見て優香は昨日の二岡のことを思い出した。そうだ。確か、わたしがグアムに行っていたと推察をして、それが間違いであると気づいたときとよく似た雰囲気が、二岡の周りに渦巻いていた。


 何なのだろうか、彼は。優香は不可思議に感じつつも二岡が普通にしゃべり出したので思考を中断させた。


「この文章の中で『運動』って文字が入ってる回数がヒントですよね」


 回数?優香は二岡が手にしている暗号の紙を横目で注視しながらその数をカウントした。イチ……ニ……サン……。八個だ、全部で八個。何だろう。八という数字になにか意味があるのだろうか?


「ええ、そこまで理解出来ればもう全てわかってらっしゃるんじゃありませんか?


 菱川は大仰にうなずいたあと、逆に二岡に質問してきた。二岡は淡々と解説を開始した。


「はい、運動という単語が(やっ)つあるから運動、屋(八)ってことですよね」


 ……ダジャレ?優香が真っ先に頭の中から出てきた言葉がそれだった。続いてあまりにも単純すぎて逆に難しいとも感じた。そもそも運動屋という店を知っているのを前提で作られている問題なのでわたしに答えを導き出せるわけがないのだが。


 しかし、同時に優香はさっきの二岡のセリフを思い出していた。あの狼狽(ろうばい)振りは尋常ではなかった。もしかして運動屋というのは二岡にとって既知の店名だったのだろうか。


 優香があれこれ考えてる内に菱川は返答をした。


「ええ、大正解です。実はこの店、今週一週間はお試し期間中だったので無料でランニングマシンなんかを使わせてもらえるんですよ。おかげで良い汗がかけましてね。知人も場所は存じているはずなので、この暗号文が()ければ僕がなにをしているか判明する……という寸法で用意したわけです」


 よく見ると菱川の座っている後ろの方にたたんである上下服が重ねて置かれてあった。帰ってきてからすぐ着替えたのだろう。


 なるほど、言っては何だがホームレスがわざわざお金を払って、スポーツジムに通うわけもないか。優香は菱川の話に得心がいくと、頭の中で一つの謎が発現し出した。暗号を用いた理由はおそらく、普通の文だと他の誰かに見られたときにその人たちが遊び半分でスポーツジムに襲撃に来ることを恐れてのことであろう。ここは最近ホームレス狩りが流行っているらしいからなおのこと警戒するであろう。


 一般の人が考えると、いくら暇な人たちでもわざわざジムに出向いてまでそんな蛮行なことはしないだろう、と想察するかもしれないが被害者側からすれば万に一つの可能性があり得るかもしれないと憂慮になってしまうだろう。しかもそのわずかな可能性が発生してしまえばジムで働いている方々に迷惑がかかるかもしれない。それを考慮に入れて暗号文を作成したと思われる。ここまでは良い。


 疑問なのはなぜ暗号の中にトラップまがいの縦読みを使用したのかという部分である。単に運動屋に居るということを伝えたいのならば文書の中に運動の文字を八つ入れておけば済む話だ。わざわざそんな罠を仕掛けてしまったらその知人とやらが勘違いして二岡のようにデパートに赴いてしまうかもしれない、とは考えなかったのだろうか。


「あの、でもどうしてそんな引っ掛けのある暗号を作ったしたんでしょうか。そのお知り合いのかたはこういう問題が得意なのでしょうか?」


 優香が伺うと菱川は相好を崩して答えた。


「いいえ、そこまで頭脳明晰という人でもないんですがね。でもどうせ暗号を製作するなら凝ったやつの方が面白いと思ってしまいまして。それで気がついたときにはこんなややこしい暗号が完成しまったということです」


 二岡は少々呆然とした顔つきになり感想らしきものを述べた。


「そんな単純な理由ですか?」


「ええ、我ながら子供じみたことをしたな、と今更ながら後悔の念に駆られてたところです」


 それを耳にした二岡はわたしにだけ聞こえるほどの声でささやいた。


「見かけによらず思考回路が幼い……」


 どうやら二岡は菱川の外見とのギャップに一驚しているようだが優香はさほど驚愕することはなかった。見た目との印象と中身が一致しないことなど、数少ないとは言えこれまでのインタビュー経験で充分わかっている。


 いかつそうな人相の人が話してみると大人しい性格の持ち主ということがわかったり、その逆に物静かなように見えてもいざ会話してみると饒舌な人物だと判明したこともあった。


 だから優香はなるべくファーストインプレッションだけでその人の人間性などを判断するのは控えるように心かけている……つもりだ。


 二岡の所感を知るよしもない菱川は話を続けた。


「暗号に関することはこのくらいにしてそろそろ本題に入られたほうが良いんじゃありませんか?あなたたちは水野さんがどちらに逃亡されたのか知りたくて、友人である僕のところにこられたのでしょう?」


 その言葉に二岡は期待を含んだような口調で反問した。


「そのような言い回しをされるということは水野さんの行方先をご存知何ですか?」


 二岡の期待に対して菱川はすまなそうに応じた。


「いえ、そこまでの情報は持ち合わせていないのですが、実は水野さんはなにかトラブルに巻き込まれた可能性があるんですよ」


 菱川の発言は優香にとってかなり興味をわかせた。無論、二岡も同様に強い関心を持ったらしく色めき立った。


「どういう意味でしょうか?」


 菱川は少しとまどいの顔を見せたがすぐになにかを決意した表情に変わった。


「わたしの信条としましては出会ったばかりの人達にあれこれと他人の情報をもらすのは主義に反するのですがーー良いでしょう。答えを聞いてからとはいえ、この暗号を解いた二岡さんに免じて教えてあげましょう」


 そう言って菱川は少し間を置いてから話を続けた。


「実は僕は水野さんとの繋がりだけでなく氷川さんとも面識がありましてね、名前も『し』がつくかつかないかだけの違いだけで妙に親近感がわいてたんですよ。まあそれはともかく、今朝早く公園の周りを散歩している道中にその氷川さんとバッタリ出会いまして。少しばかり雑談を興じていたらその流れで水野さんの話になったんですけど、彼は昨夜遅くに居酒屋の安酒を浴びるほど飲んで酔っ払いながら公園に帰ろうとしてたそうなんです。それで帰路、遠くの方から水野さんの叫び声らしきものを聞いたようなんです」


「叫び声?」


 二岡が問い返すと菱川は首をたてに振った。


「ええ、ものすごい声音だったらしくて思わずビクついてしまうほどの声量だったらしいのですが……。あいにく、かなりのアルコールが入ってたようでその声を聞いてちょっとした後、道端で眠ってしまったらしいんですよ」


「はぁ……。それではつまり、氷川さんが起きたときにはもう朝方になっていて、そこから自分のハウスに戻ろうと歩いてたところで菱川さん、あなたと出会ったというわけですね」


 二岡が自身の予想らしきものを口にすると菱川は再び首をたてに振った。


「そういうわけです。しかもそのときの氷川さんの状態はまだ完全に酒が抜けきっていなかったせいもあって、記憶が曖昧だったのです。ですので、残念ながらその場での会話では詳細な情報が聞けなかったんですよ」


 菱川の言い回しはなにか意味深長な感じで優香の耳に届いた。二岡は言った。


「つまり現在の氷川さんはおそらくシラフだから詳しいことを知りたければ今がチャンスだとおっしゃりたいのですか?」


 菱川はその言葉に満足気に口元を緩ませながらうなずいた。さっきからこの人はうなずいてばかりである。


「そうです。ですのであなた方が氷川さんと邂逅を果たせれば突破口が開けるかもしれませんよ」


 その言葉に優香の心境は大きく揺さぶられた。ここにきて重要な情報をゲット出来るかもしれない。そう思うと否が応にも気分が昂揚してしまう。二岡も同様の心理状態になったらしく目を輝かせながら言った。


「ではすぐにでも氷川さんのダンボハウスに赴いたほうが良いというわけですね」


「そうですねぇ。それが賢明かと。詳しい場所は申し上げなくても問題ないですよね?先ほどの話によると氷川さんの寝所は探し当てたみたいですし」


 二岡は首肯すると優香の方に顔を向け話しかけた。


「急ぎましょう、記者さん。今なら菱川さんのように氷川さんも出戻ってるかもしれません」


「あ……はい。わかりました」


 優香と二岡は菱川に別れの言葉を告げてからこの場を去った。その後、優香は菱川の似顔絵を描いたのは誰なのか尋ねそこねたのを思い出し、後悔した。時間がない状況とはいえ一番気になっていたことを聞くのを失念していたのは記者としてショックだ。まあ明日改めて疑問をぶつけてみれば良いか。優香はそう思い立ち二岡と一緒に氷川のダンボールハウスを目指した。


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