取材開始
エレベーターで一階フロアまで降りた優香は一目散にエントランスを突き抜けて駐車エリアまで戻り軽自動車に乗り込んだ。『頼むから早くかかって』と願いながらエンジンキーを回した。その祈りが通じたのか、なんとその一回でエンジンがかかり優香は思わずガッツポーズを取った。幸先、良いんじゃないかしら。そう思いつつアクセルペダルを踏み制限速度ギリギリのスピードで車を走らせた。
優香はどんなに時間に追われていても、制限速度は守ることにしている。知人からはよく、真面目過ぎると言われるが優香は全くそんな風に思わなかった。むしろみんなが少しせっかち過ぎるのではないかと感じるほどだった。そういうわけで他の車などに追い抜かれながら火原町五丁目にたどり着いた。
目当ての公園は、すぐに優香の眼前に見えてきた。周りはほとんど柵に覆われていて、入るには東西南北、四つの出入り口からしか進入出来ない。だから、初めてこの公園に来た人は中々その入り口を見つけられず、困り果てるといった珍事件がたまに起きているらしい。
優香は古びた雑居ビルの向かいに位置する倉間中央公園の南側にある駐車場に車両を停めた。公休日ならここは満車近くまで埋まっているのだが、やはり平日のためか四、五両ほどしか駐車されていなかった。
優香は車外に降り立つとデジタル腕時計に目をやった。時刻は十二時半を示している。「うーん……」そううなると優香は遊歩道に向かいながら頭の中でタイムスケジュールを立てた。
雑誌に載せるのは四ページ分なので話を聞く人数は八、九人で充分だ。仮に一人あたりにつき十五分程度の取材だとして考えると、かかる時間は二時間ちょいと言ったところ。
そこから記事作成に取りかかるとなると遅筆のわたしのことだからたっぷり三時間は使ってしまうだろう。それに加え、駐車場からホームレスの巣窟までの往復時間も計算に入れる。その結果、ゆっくり昼食を摂っている暇もないほどの、タイトなスケジュールが出来上がってしまった。
幸いなことは完成した記事はメールで里子のパソコンに直接送ればいいので、出版社にまで、おもむく必要はないということぐらいだろうか。
久し振りの仕事がこんなに忙しくなるなんて嬉しい悲鳴ってやつかな。心の中でそう一人ごちると優香は石畳の路面を力強くけった。今は一分一秒でも惜しい。そう思って優香は全速力で走りだしたのだ。
しかし二分ほどして優香はその行為を悔やみだした。
全身から大量の汗をかき出してきたのだ。身体中が焼けついてしまいそうなくらい熱く感じられる。まさしくサウナ状態だった。黒髪のロングヘアーもぬれそぼってしまっている。
今朝の気温は非常に暑苦しくなると昨晩の天気予報で告げていたのを優香は今、思い出した。そんな日にランニング紛いのことをすれば当然、こういった結果になるわけだ。
辺りを見回す。細長い樹木や植え込みが見えるだけで人がいる気配は感じられなかった。優香はそれを認識するとホッとため息をついた。今のわたしはかなりみっともない容貌になっているだろう。鏡を見るまでもない。それほど優香の身体は発汗していた。
おまけにこの遊歩道には全く風が吹いておらず、服などを乾かそうと思ってもかなりの時間がかかってしまう。渋々、汗まみれになったカーディガンを脱ぐとそれを右腕に巻いた。
応急処置としてハンカチで顔の汗を拭いながら早歩きで歩いているとほどなく野球場ほどの敷居を誇る芝生広場に出た。
子連れやカップルが和気藹々と遊んでいる休日にしかこの広場に来たことがない優香にとっては定年過ぎと思われる老人達がぶらぶらと徘徊している姿が異様に映って見えた。
多分、暇つぶしでこの公園に来たんだろうなぁ。わたしも仕事がないときは近所を散策してるし人間、することがないと外に出歩く習性でもあるのかな。
そんなたわいもないことを考えながら歩を進めせていると滑り台の付近に据えてある長大な時計塔に到着した。
瀟酒な造りで出来ているその時計塔はここ、風浜公園のちょうど中央地点に設置されており迷子になったときの道標的な役割を持っているのでガイドブックには『案内時計』と書かれたりしている。
優香はその案内時計の位置から北東に移動すると木々が密集している森林地域に入った。この辺りが俗に言うホームレスの住処である長大な木立たちのお陰で直射日光は遮られさっきまでとは違う涼しい空気がこのエリア一帯に漂っている。優香は砂漠の中にポツリと存在するオアシスに到達したかのような感覚にとらわれた。
--助かった--そんな思いが真っ先に浮かんだ。
しかし数分ほど歩いてすぐにまた新たな厄介ごとが発生したことに優香は気づいた。地面は落ち葉に覆われており倒木などが所々に点在してあるのだがワンピース姿の優香にとってはそれがかなり歩きにくい地形になってしまっているのだ。
とはいえ文句などは言ってられない。ときどき、つんのめりそうになりながらも先に進んでいくと甲高い野鳥のさえずり声が聞こえてきた。予想以上にその鳴き声が大きかったので思わず一驚してしまい反射的に声のあった方に顔を向けると傾斜のきつそうな下り坂の奥に一人の人影がいるのが視認出来た。
目を凝らして見つめてみるとその人影はレジャーシートのようなものの上にあぐらをかいていた。後ろには四角柱を横に倒したような形のした、ダンボールハウスらしきものがでかでかと置かれてあった。
……。ホームレスの方だろうか。そんな淡い期待をもって優香はさらに足場が悪い地帯に足を踏み込んだ。周りの木々を手すり代わりにしていき、なんとか、顔立ちがはっきりと見える距離まで近づくことが出来た。年齢は四十代前半と言ったところ。髪はショートヘアーでやたらと濃い顔の男性だった。なんだか刑事ドラマの犯人役が務まりそうに見えた。目つきは鋭く里子とにらみ合い対決をすれば良い勝負になりそうだ。ガタイはそこそこ良く、服装はポロシャツにジーパンといった出立ちだった。
男はいかつい顔をしながらただ黙々とおにぎりを食べていた。形状からいって、恐らく店で購入したものだろう。優香はなるべく緩慢な動きで接近し、やがて「あのすいません……」
自分でもわかるくらいおずおずとした口調で話をかけると男は気だるそうな動きでこちらに顔を向けてきた。
「なんだ。俺に用でもあるのか」
「はい。わたしフリーライターの一条優香というものです」
優香はそう言いながら素早く名刺を差し出した。それを受け取ると男は怪訝そうな表情を浮かべた。
「記者?俺に取材でもするってのかい」
「ええそうです。路上生活者の方に色々と……」
優香がそこまで言うと男は急に顔を強張らせてきた。
「俺はそんな者じゃない。ちゃんと家もある」
男は後ろにあるダンボールハウスを指さした。これが俺の我が家だ。そう言いたいらしい。しかし、木箱を組み合わせただけの造型物を家屋と呼ぶには無理があるだろう。そもそも公園を住まいにしている地点で路上生活者ではないのだろうか。
よく見てみるとダンボール表面の右隅に何かが彫り込まれている長方形の木札
がガムテープで張ってあった。目の神経を集中させて注視すると『三好』と、きめ細かに浮き彫られてあった。
それを目視出来た瞬間、優香はふと一つのTVニュースの内容を思い出した。
そうだ。確かこの公園には一風変わった風習みたいなのがあると報道されていたんだ。ええと……確か……表札ーーそうそう、全員自分の寝床に表札を張っているとかいう、なんともおかしな話だったはずだ。表札と言っても無論、本名なのではなく偽名とのことらしいが。なぜ、そんな、変なものを張っているのかとマスコミが尋ねると全員ノーコメントを貫いているというのもおかしな点の一つだった。
そもそも、素人がこんなに綺麗に彫れるわけないではないか、と言った根本的な疑問にたいしても彼らは同様に黙秘を続けているので優香も薄々気にはなっていった。とは言え、里子は別に表札の謎に関しての記事を作れ、とは一言も告げていないので、わざわざその件にたいしての言及はしなくても良いように思えた。
と、言うより、ここで優香がその質問をしたとしても絶対に答えてくれるはずがない。むしろ、相手の機嫌を損なってしまう可能性があるため今回の取材ではそのことには触れないでおこう。そう決意した。
「ええと、三好さん」
優香はおそるおそる、男の名前を呼んだ。今、想起したニュース情報が確かならこの人の苗字(偽名だけど)は三好で正しいはずだ。
「なんだ。とにかく路上生活者に取材ってんなら他を当たってくれ」
「いや、でもですね。あなた、この公園に住まわれてらっしゃるんですよね?それって……」
「だから俺は公園じゃなくてこの家に住んでるの。家があるんだから路上生活なんかしてないんだよ」
三好は早口でまくしたてながらまた後方のダンボールハウスに指をさした。
どう考えてもへ理屈であろう。優香はそう思った。それと同時に優香の中で一つの疑問が浮かび上がった。なぜこうも自分が路上生活者であることを否認するのだろうか。優香はますます三好の事が気になり始めた。
が、そんな優香の気持ちとは裏腹に三好の機嫌はすこ振る悪くなってしまったらしく大口を開けておにぎりを食べ終わるとスッと立ち上がり足早にどこかへ向かおうとしていた。
「ま、待って下さい!」
慌てて追いかけて左腕をつかむと三好は素早く優香の手を払った。大きく振り離されたせいか優香の左手首に痛みが走った。
「痛……」
小声でそうつぶやくと意外にも三好はすまなそうな顔を浮かべてきた。
「ん?お、おい、大丈夫か?そんな力強くやったつもりはないんだが……」
「いえ、平気です。三好さんのせいじゃありませんから」
「そうか?それならいいが……まあとにかく他を当たってくれよ。頼むからさ」
三好はよほど、この場を早く立ち去りたかったらしく猛ダッシュで坂道を駆け上がっていた。優香は今度は追いかけようとはしなかった。本人があそこまで嫌がっている以上、どうしようもないではないか。自分の取材願望にそう説得させると同時に優香の中で一抹の不安がよぎった。
まさか、三好さん以外にも『俺はホームレスじゃない』とか変なこと言い出したりする人はいないわよね……。
そんな懸念を抱きつつ優香はより鬱蒼とした樹海の奥に足を踏み入れていった。