櫻井
結局車を走らせる速度は優香のペースに合わせることになったので目的地まで十分ぐらいかかった。大通りを横道にそれて、森閑な場末の路地裏に佇んでいるそのラーメン屋は木造造りで構成され、古めかしい印象がある。
しかし、良く言えばそれは同時に古風な雰囲気も醸し出されており、いかにも『昔ながらの』という感じがして、二岡は一目でこの店の外観を気に入った。車を停められる場所あるのかなぁと瞬間不安になったが、狭いながらもちゃんと駐車場は存在していたので杞憂に終わった。まぁ優香は一度ここに訪れているらしいからパーキングの有無は知っていた上で自動車で来たのだろうが。
優香が器用に駐車させると二人一緒に降車した。ある意味ラーメン屋では定番化している、赤いのれんを軽くめくりつつ、手動のドアを開けると香ばしい香りが強襲してきた。それだけで二岡のお腹が食を欲してくる。内装もコの字のカウンター席になっており、外の佇まいと照らし合わせてステレオタイプなお店だなと思った。そして、二岡はそういう風情が好きであった。
「あらまぁ、いつぞやのライターさんじゃないですか。あのとき以来ですかね。掲載された雑誌を読んだら私の話した内容を上手く要約してて、すごいなぁと思いましたよ。連絡とかもらってないけど今日はまた、インタビュアーとして?」
声をかけてきたのは五十過ぎと思われる婦人店員だった。口振りから察するに前に優香の取材を受けたのはこの人らしい。
優香は照れ笑いらしきものを浮かべながら「どうもお久しぶりです」と返事をした後、二岡に説明した。
「この人が店の店主、櫻井夕子さんです。櫻井さん、本日は来店、つまり客としてです」
「そうですか。お友達も一緒に連れて来てくれてありがたいねぇ。じゃあお好きな席にどうぞ」
そう言われ優香は、二岡に対してあなたが決めて下さいと横目で告げてきた。その言葉に従うことにした二岡は一番近くにあった椅子に腰かけた。
優香もその動きに合わせて隣席に座ってくる。お互いにお品書きを取って目を走らせていると、暫時して優香が声を出した。
「私はもう決めましたけど二岡さんどれにするか決めました?」
「そうですね。じゃあ、きつねうどんにしときます」
「わかりました。櫻井さん、ラーメンセットAときつねうどんをそれぞれ一つづつでお願い出来ますか」
「はいはい、少々お待ちになってね」
二岡は自然の内にお品書きに視界を戻した。手首をひねらせ裏面を覗いたら優香の頼んだメニューが視野に入った。その途端に違和感を覚える。
ラーメンセットA。簡易的に言えば炒飯と天津飯とラーメンの三セットメニューだった。先ほどの優香の自己申告通り、油物が好きというのは本当らしい。まあ、それよりも少しおかしいなと思ったのは写真が載っている横に中華料理の三種の神器!と大層な謳い文句が記されている点に関してだった。天津飯は厳密には中華風日本料理のはずだ。このキャッチコピーを考えた人はそれを知らないで書いたんだろうなぁ。と、どうでもいいことをぼんやりと思いながら待機しているとうどんが出来上がったらしく妙齢の女性店員にカウンター越しにどんぶりを手渡された。薄茶色の油揚げが想像していたのよりも大きかったので驚いた。
軽く会釈をしながらそれをテーブルに置き、次いで割り箸を把持すると一応礼儀として小声で「いただきます」とつぶやいた。
もくもくと立ち昇る湯気を何回か息で吹くと太麺を口に運んだ。またたくまに濃厚な味わいが口内に広がった。ホームレス生活であまりまともな食事を摂ってなかったせいもあるかもしれないがかなり美味しく感じられた。それは麺の熱さなど全く気にならないほどであった。
そうした感じできつねうどんの三分の一を食べ終わり、そろそろ油揚げに手を出そうとしたのと同じタイミングで例の三種の神器がやはりカウンター越しに優香の両手に渡された。
優香も二岡同様「いただきます」と食前に言うべき言葉を述べるとスプーンで天津飯を掬い上げた。かなり美味しそうに、微笑を浮かべながら優香はそれを食べている。グルメレポーターとかに向いてそう。箸で油揚げをつまみながら思った。
優香の様子がおかしいなと感じ始めたのはそれからしばらくたったときのことだ。何だか苦しそうな顔をしている。ついさっきまでの笑みも薄れつつある。その理由を解明するために優香に質問をぶつけた。
「大丈夫ですか?気分が優れないんでしたら……」
最後まで言い切る前に優香が二岡のセリフに被せてきた。
「あ……大丈夫です。その……体調が悪いってわけじゃなくてですね……」
どうにも答えづらそうにしている優香を見て店員の櫻井が調理中の手を止めた。
「あら、ライターさん、もしかして早食いしているのかい?」
「え?」
櫻井の問いに二岡はついすっ頓狂な声を上げた。優香の食事進度は、少なくとも二岡の見る限り極一般的な速度に思えたからだ。
「よ、よくわかりましたね、櫻井さん。その通りです。これが私にとっての精一杯のスピードなんですよ。いつもはこれの何倍もの遅さで食を楽しんでいます」
優香がそう返答すると二岡は衝撃を受けながら櫻井に尋ねた。
「確かによく記者さんが早食いしてるって理解出来ましたね。僕には全然そんな風に……」
今度は櫻井が二岡のセリフを遮ってきた。
「ん?ああ、こういう商売長いことやってるとなんとなくわかるよ。この前も団体で来たお客さんの中に顔には出してないけど少し苦しそうに食べてる人がいてね。話を聞いてみたら、みんなを待たせるわけにはいかないから急いで食べていたんですってさ」
「それでそのお方はどうされたんですか?」
優香が小首をかしげると櫻井はそちらに目をやって回答した。
「幸い連れの方々が善良でね、別にゆっくり食べても大丈夫だよって口々に言ってくれてたよ。どうやら大学のサークル仲間の会合だったみたいで食事をするのはこれが初めてだったらしいのよ」
なるほど。ということは優香もその大学生と同じく僕を待たせないようにしていたというわけか。そこまでの考えに至ると二岡は口を開いた。
「記者さん、あなたもそんなに急いで食べなくても良いですよ。僕はいくらでも待ちますから」
「いえ、でも本当に牛歩並ですしお店にも迷惑がかかるのでは……」
櫻井がかぶりを振って否定の意を示した。
「わたしは全然気にしないわよ。人にはそれぞれ自分のペースってものがあるんだからそれに合わせて食べて頂いたほうが絶対良いだろうし」
二岡も援護射撃として壁際に据え置いてあるマガジンラックにあごをしゃくった。
「僕はあそこに置いてある雑誌なんかを読んでおきますから平気ですよ」
この発言が決定打になったかは不明だが優香はコクリとうなずいてから口を開いた。
「それじゃあ……お言葉に甘えさせてもらいます」
それからの優香の食事のテンポを、二岡はうどんをすすりながらチラチラと見ていた。先ほどとの相違点は一回のうちに口に入れる量が少なくなっている。そして咀嚼する度数が多い。あごの部分を注視しながら正確な回数をカウントしげみると約三十回ほどであった。幼少期のころに、学校で一口に三十回を目安に噛むことが大事と教えられたことが、記憶の深淵から浮かび上がってきた。
それと同時になぜ優香がカロリーの高いものが好きにも関わらず細いウエストを保てているのかが理解出来た。よくものを噛むと代謝と脂肪燃焼と促進されてダイエット効果があるというのを聞いたことがある。優香の場合それを地で行っているために絶大の効力を発揮しているというわけだ。そう結論を出し昼食を再開した。
そしてうどんを食べ終わると前言通り店内にある週刊誌を黙読していた。正確な発売日までは分からないが、ページのところどころが折れ曲がっていたり、しわが出来ていたりしているのでかなりの古本だろうと考察していた。
いわゆる芸能ゴシップ専門の本らしく載っている情報があの芸人は実は態度がデカいだの、あの俳優とこの女優は仲が悪いだのといった物ばかりだった。しかもこれといって確たる証拠もなしに、憶測のみで掲載されているようだ。
こういう種類の記事はあんまり好みではない。そう思い適当にページをまさぐっていき本の最後の方にまでさしかかるとなにやら多種多様な飲食店や娯楽施設の紹介をしている文書に目を引かれた。理由はその書面の片隅に既視感を抱いたからだ。
ラーメン屋櫻井。表の看板にその文字が記されていたのを想起した。つまりこの店名はこの店のことだ。どうやら出版社に宣伝費を払っているみたいだった。この事柄は優香にとっては既知なのであろうか。ちらりと優香の方に目を向けた。いつのまにか彼女の隣には高齢の男性客が居座っていて、とんこつラーメンをすすっていた。優香は相も変わらず、まるでリモコンのスローモーションを押されたかのごとくゆったりとした食べ方をしていた。
まあ別にわざわざ知らせなくてもいいかな。そう決断し、二岡は再び雑誌に視線を直した。こうして様々な店名の一覧を見てみるのも結構面白いものだ。その証左、と言ってはなんだが個人的にツッコミを入れたくなる店名が散見してある。
例えば、とある駅前でやってるボウリング場の名称がテンピン。十本のピンで行われる、つまり日本でポピュラーなボウリングのことをテンピン・ボウリングと呼ぶらしいがテンピンって耳で聞いただけだと雀荘と勘違いする人が出てきそう。
街中で花屋はフラワーパラダイス楽園。パラダイスと楽園って意味が被ってるよ……。あ、でもこれは注意を引きつけるために故意で重言句にした可能性もあるかもしれない。
スポーツジムの名前は運動屋。わかりやすいけどネーミングが安直すぎじゃないか……?といった感じで中華料理の三種の神器!のときと同じく心中で色々とひとりごちていた。意外と自分って心の中だと口数多いな。
そう思いながら雑誌を読みふけっているとまた馴染み深い名前が二岡の目に飛び込んできた。『亀山屋』まさかさっきまで居た場所までこんなところで宣伝しているとは。しかも大手のデパートだけあって結構大きめに掲載されていた。
正直さっきの推理ミスが頭の中で思想されてしまい陰鬱な気分に陥ってしまった。そしてこれはまずいなと感じ早々に本を閉じ本棚に戻した。
優香の食事もだいぶ進んでいてもう完食間近というときに、例の高齢の男がとんこつラーメンを食べ終えて席を立ち、代金を店員に渡すとつぶやいてきた。
「まるで亀だな」
誰のことを言っているのかは明白だった。思わず二度見してしまいそうな暴言に二岡は不安を胸にしたまま優香の顔を窺った。彼女が傷ついてなければいいが。
優香はポカンとした表情をしながら一言、言った。
「まるで神棚ってどういう意味何でしょうか?」
……。彼女が天然で助かった。