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一条

 木造アパート三階に住んでいる一条優香はカシュクールタイプのワンピースに黒のカーディガンを羽織り、上機嫌で玄関のドアを開けた。ここしばらく、ずっとなかった仕事が久しぶりに出来るとあって気分が高揚していたのだ。


 少し大きめの白いハンドバックを片手に、廊下の左隅に備えてある外階段を駆け降りて外に出ると、夏の晴れ渡った日差しが優香の全身に降りそそいだ。こんな日に日向ぼっこなんかをしたら倒れちゃいそうね。そう思わせるほど今朝の天気は晴天だった。そのまばゆいばかりの陽光が、今の自分の気持ちとリンクしているように思えて優香の心はますます明るくなった。


 アパートの向かいには去年、創立三十周年を迎えたという私立小学校が建っている。緑色のフェンス越しに運動場でサッカーやドッジボールなどで精力的に遊んでいる生徒達が見て取れる。そういった和気あいあいとしているグラウンドの中で一人だけ端のほうで砂場遊びをしている男の子の姿が優香の視界に入った。


 遠くからなのであまりよく見えないが、背格好からいって一年生、つまり今年から入った子だろう。黙々と砂をかき集めて大きなピラミッドを作っているようだ。だが優香の目にはその男の子の表情がひどく悲し気に映って見えた。それはこの距離からでも十分、視認出来るほどの明瞭(めいりょう)さだった。


 今までと違う、まったく新しい環境にまだ慣れず、友達が出来ない。おおむねそう言った感じだろうか。


 あの子、大丈夫なのかな。さっきまでのテンションが急に()え始め、優香は不安な気持ちに駆られた。ふと、瞬間的に一人の女性の声が優香の脳裏をかすめた。


 --そんな見ず知らずの子供の心配している暇があったら自分の心配をしたらどうかしら--


 その高飛車な、もの言いが今、自分が勝手に想像したセリフだということがわかり、優香は思わず顔を緩ませた。いかにもあの里子が言いそうな言葉だったからだ。


 そしてその里子に先ほど電話で呼ばれたことを思い出し優香は慌てて、アパートの階下に設置されてある駐車場へ向かった。


 駐車場の地面はアスファルト舗装されているので日射を浴び、熱せられた路面から立ち昇る陽炎に、五台ほど、整列されている車体がゆらゆらと揺らいでいた。その中の一つ、塗装が少しはがれ気味になっている白の軽自動車に乗車して、シートベルトを締めた。


 この車は二年前に姉から貰い受けたものであり、購入してからもう十年は経つそろそろ寿命が近い車だった。その証拠にエンジンキーを回してもかかるまでにかなりの時間を有するという厄介な代物だった。オマケに冷房の効きも悪く、車内はあまり涼しくならない。とはいえ月々の家賃を払うのが精一杯のわたしには新車を購入するほどの経済的予算がないので文句は言えないのだが。


 三分ほど四苦八苦しながらキーを回しているとようやくエンジンがかかり優香は丁寧なハンドルさばきで車道に出た。この時間帯の生活道路はかなり、空いていた。一般の会社員の出勤時刻はとっくに過ぎているし、平日のため家族連れの車なんかもまったく見当たらない。そのお陰で、ごくスムーズにオフィス街まで出れた。


 両脇には、大小様々なビルが建ち並んでいる。上京した当初こそは、その壮大な光景に思わず目を輝かせていたが、三年にもなるともうすっかり見なれた景色になってくるのだから、慣れというものはおそろしい。流石にこの周辺は大都会という事もあり道路は結構、混み合っていた。田舎育ちの優香にとってはこの混み具合にたいしても最初は少し戸惑いを覚えてしまったが、今はもう、ここはこういう場所なんだ!と自分に強く言い聞かせることによって、困惑などといった感情は浮き上がってこなくなっていた。


 何度かステアリングを切りながら運転していると、大通りの交差点の左手に、目的地である青い外壁のオフィスビルが見えてきた。一部ガラス張りで出来ているその建築物は、これまた優香にとっては見なれた建物だった。なぜなら優香が東京に来てから一番多く訪れたと思われる会社が、ここ出版ヘブン社だからである。


 そんな馴染み深い十階建てビルの脇にある駐車スペースに優香は自動車を停めた。素早く車から降り、小走りで自動ドアをくぐると、ロビーの右奥に設置されているエレベーターに乗って、八階のボタンを押した。さて、里子はいったい、どんな依頼内容でわたしを呼び出したのであろうか。


 ふと、背後に存在する汚れ一つない綺麗な姿見に目を向けた。二十代前半の、二重まぶたに軽く化粧をしている自分の顔がそこにあった。髪型は黒髪のロングストレート。体型は、なで肩気味でやせ細っており、周りからは羨ましがられるが、優香本人としては何だか、もやしみたいな感じがしてあまり気にいっていない。もっとも、そのことを知人らに告げるとブーイングの嵐が飛んでくるのだが。


 チーンと目的階に着いた音がエレベーター内に低く響き渡った。ドアが開きフロアに出る。赤いカーペットの廊下をしばらく歩いてガラス扉を開けると想像していていた通り、締切直前の編集部フロアは喧騒に包まれていた。二十人ほどの編集者たちが忙しそうにデスクの間を行ったり来たりしている。優香が部屋内に入っても誰も気にも止めていないようだった。優香は「すいません、ちょっと通ります……」と小声でつぶやきながら人垣をかき分けていき室内の一番奥のデスクに座っている人物に近づいて行った。


「里子さん、お久しぶりです。元気にされてましたか?」


「ええ、そこそこね」


 黒髪に若干白髪が混じった、けれでも来月六十歳を迎えるとは思えないほどの若々しい顔立ちをしている週刊オーガスト編集部の主、千葉里子編集長は素っ気のない返事をしてきた。


「まあ、そんなたわいもない挨拶よりもーー今日はちょっと時間がないから、いきなり本題に移るわよ」


 里子が真剣な眼差しになって言った。優香は背筋を伸ばし「はい」となるべく語気を強めて返答した。里子は両手の指を組み合わせながらゆっくりと口を開く。


「今回はね、ホームレス特集の記事を作成してほしいのよ」


「ーーはぁ、ホームレス特集ですか……」


 ほとんどオウム返しに近い回答をしてしまい優香はやばいと感じた。このような受け答えをしてしまってはこの人は……。


「そう、何か不満でもあるの?」


 里子は黒革張りの椅子の背もたれに寄りかかりながら優香の目をジロッとにらみつけた。ただでさえ鋭い目がより一層、鋭くなる。しかもビシッと着こなした紺スーツがより里子の怖さをかもし出している、優香はそんな錯覚にとらわれていた。


「いえ……そういうわけではないのですが、なんでまたホームレスさんなんかを……?」


「今週分の週刊オーガスト。少しトラブルが発生して四ページほど記事に穴が空いてしまったのよ」


 里子は淡々とした口調で言ったがそれはかなりまずい状況だと優香は思った。週刊オーガストは毎週水曜発売の雑誌だ。そして雑誌の入稿の締切は火曜日の午後六時までのはず。つまり今日の夕方までに何とか四ページ分埋めてしまわないといけないわけだ。優香は軽く首をかしげながら聞いた。


「もしかして、その記事埋めをわたしがするわけですか」


「そう、うちの専属ライターはみんな次の取材で忙しいから仕方なくフリーのあなたに電話をしたの」

 

 仕方なくの部分に語気を強めたような感じがして優香は不思議に思ったが、とくに気にはせず、謝礼の言葉を述べながら深々と頭を下げた。


「里子さん、その、いつもありがとうございます。仕事のないわたしにこんな……」


「はぁ」全部、言い切る前に里子の深いため息が聞こえた。顔を下にやっているので表情はわからない。優香は腰をかがめたまま顔だけを正面に向けると里子が やれやれといった面持ちをしていた。


「相変わらず嫌味の通じない子ね」


「嫌味だったんですか今の?」


 身体を元に戻しそう尋ねると今度は頭をかかえだして首を軽く左右に振った。


「ああ……もういいわ。とにかく時間がないからすぐに取材出来るものとして選んだのがホームレス特集ってわけ」


「あ、わかりましたよ。倉間中央公園に行けばいいんですね」


 里子の思惑がようやく理解出来て優香は微笑みを浮かべてみせた。


 倉間中央公園とはここ赤川区に所在する倉間市営内の公園である。この周辺の公園の中では、かなりの広さを誇るとともに北西付近はホームレスの巣窟になっており、たびたびTVなどでも報道されている。


 里子は大きくうなずきながら言った。


「そう。あの公園なら取材対象者が山のようにいるから今日中に記事を埋めることも可能でしょう」


「なるほど……」


 優香は素直に関心するとさっきから気になっていたことを質問した。


「あの、具体的にどのようなことをホームレスさんたちに伺えばいいんでしょうか」


 里子は一瞬、難しい顔を浮かべたが、すぐにそれは無表情なものになった。


「まあ、なんでも良いわよ。しょせんは記事埋めに過ぎないんだからあなたの好きなようにやりなさい。あんまり期待してないけど」


「ありがとうございます。わたし、頑張りますね」


 優香が元気良く答えると、里子はまた、ため息をつき、左手で顔を覆った。しばらくその場景を眺めていたが、やがて里子は、先ほどのようなにらみをきかせてきた。


「ねぇ?いったい、いつになったら倉間中央公園に向かうつもりなのかしら?当たり前だけど午後六時までには記事を完成させてもらわないと困るんだけど」

 

「え、は、はい、そうですよね。すいません。今から行ってきます」


 優香は早口でそう言うと一目散に戸口に向かい一度も振り返ることなく編集部フロアを出た。


 相変わらず、にらんでるときの里子さんはおっかないな。優香は決して里子、本人の前では言わないと決めているセリフを吐きながら廊下の突き当たりにあるエレベーターに足を進めていった。



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