小説の定義とそのあるべき姿。(極私的小説論)
小説、、、ということでいうならば、
結局
結論は
「ウイルヘルムマイステルの修行時代・遍歴時代」(ゲーテ)が
最高で完璧な
小説
だというしかないだろう。(と私は思う)
だからこれだけ読めば小説はOK?という結論なのだが、、
そういっては身もふたもないので、、
いくらか付け加えるならば、、
そもそも、、
小説の定義とは
と大仰に振りかぶって考えるとすれば
それは私としての、定義は
事実、、あるいは事実的な?物語性と
思想、、あるいは作者の思いの表白性、
その二つの兼ね合いだと思う。
つまりもっと噛み砕いて言うならば
ただ事実を記述しただけ風ならばそれは小説でもなんでもないだろう。
ルポルタージュ、、でしかない。
或いはいわゆる、、客観小説(写実主義ですね)なるものも
それは同様だろう。(と思う)
たとえば、、
これこれこういう貧しい庶民の女がいまして、、
その女が、、下働きで苦労してやっと小金をため込んで、、
ひょんなことから結婚させられた男というのがぐうたら亭主で
酒は飲むは、下女に手は出すは、、、、、果ては喧嘩して殴り殺されて、、
、、、、、、、、、、、
というような事実めかした?
庶民女性の一代記を延々と写実的に
書いてみても、
これは私の定義では、、小説とは言わない。
なぜなら、、
作者はどう思うのか?が見事に抜け落ちているからだ、
というか作者はあえて、、私はただ事実を客観的に
ありのままに、、書き綴ってるだけですよ、、という
ある種の、、「逃げ」、、というか
私はあくまでも公平かつ客観的に描いてるんですよ、という第三者的な
透明性?を決め込んでる風がある。
そして
私はこういう悲惨な庶民の物語をただ提示してるだけで
その評価、、というか、、どう思うのかは
読者のあなたがご判断くださいね。と、丸投げ?にしてしまうのだ。
つまり読者は延々と、ただ、、ただ、、
悲惨な読むに堪えないような、庶民のおんながたどる無残な一生を
これでもか、、、これでもか、、、、と
500ページも読まされるだけ、、
まあこれが「写実小説」ですよね?
で、どうでしょう?
じゃあ読者である私にこんな悲惨な事実?を読んでどうしろと
作者はおっしゃりたいのでしょうか?
それが、、作者からは、、提示されませんね?
まあ中には
社会運動しろとか
これこれいう、、組織に加わりましょう
そういうプロパガンタ小説、、もありますが、
まあとにかく
小説とは
こんなものであっていいはずがありませんよね?
人はなぜ小説を読むか?
それは、、読んで憂さ晴らししたいから、、というのがおそらくは
100パーセントでしょうね。
小説で社会問題を追及したいから、、なんてありえませんね。
あくまでも読書は
エンターテインメントです。
もっといえば単なる娯楽です。
楽しくなけりゃ小説じゃない?
でしょ?
楽しいといっても
それは、、面白おかしいというだけでなくて
ミステリーとか
空想とかホラーとか
サスペンスも
大きな意味では「楽しみ」でしょう。
そういう意味では
深刻なだけの社会派小説なんて、自己撞着なんですよ。
そんなのはあえて小説にしないで
ルポ、、ドキュメントでいいじゃないですか?
はき違えてるとしか思えないですよ。
さて、、本題に戻ります。
小説とは
私が思うのには
まず何を描くかという作者の思いが先です。
その小説で何をどういう世界を
ホログラムのように
創出するのか、、
そこから始まるべきでしょうね。
その過程で
事実としての物語があるならそれを援用したって構いませんがね。
或いはまったくのフィクションとして
空中楼閣を創出したっていいですし、
ただ事実としての物語を援用するなら
その事実に支配されてはいけません。
事実はあくまでもあなたの創出したい世界の
道具にすぎないからです。
主体はあなたの思いです。
それをタダ事実的なお話で
事実めかして、、仮装して?表白してるにすぎません。
それが本来の小説でしょうね。
事実が主ではない。
あなたの小説世界のイメージが主だ。
まあ
完全なファンタジーなら
そりゃあ最初から架空物語ですから
問題はないですが。
仮りにも事実めかして?
あなたの小説世界を構築するつもりなら
事実に支配されたらダメでしょうね。
そこが言わゆる写実小説と決定的に違うところでしょう。
ただ
あまりにも
作者の思想というか
思いの表白が勝りすぎると、
これは、、言わゆる哲学小説になってしまって
小説の面白みが、そがれてしまいますね。
この辺の兼ね合いが
事実を援用した小説の難しさでしょうかね?
ただ事実を延々と書いてもそれでは小説ではない。
その事実を作者がいかに加工するか
咀嚼するか、、グリコーゲンに換えるか。
生の事実だけでは小説ではない。
そこに脚色が
翻案が
トリックが?必要だ。
事実とはひとえに作者が
自分の小説ワールドを構築するための
素材にすぎないのだから。
まあ小説は
所詮、お話であり
フィクションですよ。
なぜなら小説は作者の思いの表白物?だからです。
事実だけでいいなら新聞読んでりゃあ済むことですよ。
さてそんな
私にとっての小説の
定義の名作はといえば
最初に言ったように
「ウイルヘルムマイステルの修行時代・遍歴時代」ゲーテでしょうね。
ここに物語られているのは
事実っぽいお話ですが
実はフィクションです。
というかそんなような事実から
ゲーテが取捨選択して
いったん咀嚼して
彼の思想に基づいて
リライト、、された
似非事実です。
だから言ってみれば
そういう意味での完全なフィクションです。
生の事実ではありません。
まああたり前といえば、、当たり前のことですね。
空想が勝りすぎても
それはあまり良い小説にはならないでしょうし
事実が生だったら、、それも良い小説ではないですね。
この辺の兼ね合いが難しいところでしょう。
こういう
ウイルヘルムマイステルのような
自伝的な
一個人の発展小説は
ともすると
単なる「自分史」に堕してしまいますね。
それを超越するには
やはり作者の
思想性の軸による
魂の発展史として
起承転結が
あらかじめしっかりできていなくてダメでしょうね。
これが単なる自分史か
魂の発展小説かの
分かれ目でしょう。
さらに
このゲーテの小説には
さまざまな大勢の登場人物による
エピソードが効果的に
配置されて
人間精神の多重性とか
多層性とかが
あちこちにちりばめれていて
魂の種々相を垣間見させてくれるのですね。
こうして
読者は
この長大なこの物語を
飽きることもなく
読み進められて
気がつくと
精神発展航路の軌跡をたどらされてきたんだなあと
思い知らされるという仕掛け?なんですよね。
そいう深みを演出したことにより
この物語が
単なる「ピカレスク小説」や
「マリアンヌの生涯」的な
自分史のような
狭隘さや
浅薄さから
脱出しえているということなんでしょうね。
まあ
これが言わゆる
「ビルドウンクスロマン」ですね。
いわゆる『教養発展小説』です。
その最大にして
最高の傑作が
この
「ウイルヘルムマイステルの修行時代・遍歴時代」です。
筑摩世界文学大系の
三段組の小さい活字の567ページを
今から再読するのは
視力低下の私にはもうムリだが
ところどころ気に入ったところだけは今も
時々読み返してはいますけどね。
さらに付け足すならば、、
ダンテの「神曲」と
ゲーテの「ファウスト」も
読むとこれでもう完璧でしょうね。
正確にうならばこれらは戯曲や
叙事詩ですけど
まあ譚詩というか
ロマンツエンというか
大きなくくりでは
物語ですから
形式は
戯曲でも叙事詩でも
本質は物語ですよ。