KARTE2-3 彼らの奇妙な生態
俺の安定した生活は、目覚めの悪い朝から始まる。
持病もあって、俺の寝起きの悪さは人類のトップクラスを誇る。
通常は枕元に用意しておいたカフェイン飲料を無理矢理飲み、二度寝をする。三十分経つとカフェインが効いてくる。カフェインに即効性はない。それと同時に、腹も動いて、腹痛で起こされる。
当然ながら目覚めは最悪だ。
しかしだ、安定した生活になると、少し違う朝を迎えられる。
「ドクター、朝ですよ」
重たく開かない目蓋。俺は朝なのに暗闇の世界に沈んでいる。
そこに響く、優しげな声。
「起きてください。起きてください。起きてください」
と、乱暴さを伴う腕力。
俺は胸ぐらを掴まれて、一分ぐらい前後に揺さぶられた。
それでようやく吐き気と共に目を覚ます。
俺の胸ぐらを掴んでいたのはトシュナだった。
こうやって乱暴に起こせと頼んだのは俺である。
下痢の目覚めよりははるかにいい。
「あぁすまない……。ありがとう……」
喉が炎症で潰れたような声を、俺は体のどこから吐き出した。
俺は床を張って、小さなコタツテーブルに近寄った。
すでに並べられている朝飯。
俺は泣くほど感動した。
軽い漬け物に、味海苔、納豆パック、味噌汁、二日前に炊いた白飯。
「素晴らしい。朝ご飯が起きたときにできてるだなんて。ありがたい。こんな素晴らしいことはない。助かるよトシュナ。あぁ味噌汁がうまい。素晴らしい。素晴らしい」
「言われた通り粉をお湯で溶かしただけですが……」
「いいんだよインスタントかどうかなんて。用意してくれるだけで本当に助かるんだ」
俺は涙を流して健康的な朝飯を食べた。
トシュナがなんでもお手伝いしますとせがむもんだから、とりあえず朝食を頼んでみた。
俺は一人暮らしが長いものの、炊事家事の技術が小学生以下である。
「いいか、朝食は食わないとだめだ。食わないと血糖値が上がりすい体質になる。血糖値が高いと、やがて糖尿病や動脈血栓を起こす。脳卒中になれば、半身麻痺で生涯寝たきりだ。覚えとけよ。……あぁ、うまい。うまい」
朝食はこれとこれをこのように並べなさいと指導もした。
絵にも書いて説明した。
というかまず夜の内にうつわだけは並べておいた。
はっきり言って全部やらせである。
他人を一晩スタンバイさせるほど念入りに組んだやらせである。
やらせで、俺は泣くほど感動していたのだ。
しかし任せてみて間違いはなかった。
さすがは主婦だ。俺の不純不規則不摂生な朝飯を正しいものに変えてくれる。
ガスコンロの存在を教えてやると、わーきゃー言いながら大喜びしてくれた。
俺は手が震えている間ははまともに料理が作れないどころか、食うこともできない。
食事の手伝いをしてくれるのは願ってもないことだ。
「ドクター、もしかするとその豆は腐っているのでは?」
「え? あぁ、これか、納豆ね」
「もしかしてお出しするのを間違えてしまったのでしょうか。酷い臭いです」
「いや、これはそういう食べ物なんだ」
「なにも無理にお食べにならなくても」
「無理に食べてるわけじゃない。結構美味いし、体に良いし」
「なるほど。お薬なんですね」
「そういうわけじゃないが。トシュナも食べてみるか?」
俺はねっばねっばな糸を引く納豆を差し出した。
トシュナはくんくんと鼻を動かし、恐る恐る、そして最後は大胆に納豆を口に掻き込んだ。直後、うぇっと彼女の喉奥が拒絶反応を起こしたものの、トシュナは咄嗟に手で口を押さえ込んだ。
「お、おいしいです、あ、あ、あ、ありがとうございます」
ものすごいひん曲がった眉で、世界一ヘタクソな嘘を吐かれてしまった。
トシュナの口には悪臭が残り、俺の心には罪悪感が残った。
すまない。外人さんにいきなり納豆はないよな。
でも俺の生活費では貴重な栄養源なんだ。でなけりゃ木をほじくって樹液でもすするしかない生活を送ってるんだ。
食事が終われば、トシュナは手際よく全てを片付け、服まで用意してくれた。
大助かりだ。
それでいて彼女は診察の手伝いでもなんでもやる。
役立つかどうかは別として。
トシュナは友達連れてきたりもした。
もうなんだか簡易診療所というより簡易お茶会場である。
「こちらはマルーロです。マルは私の親友です」
紹介していただいたご友人・マルは印象の違う女性だった。
目つきが鋭く、表情が硬い。
トシュナの目が丸くて、表情ゆたかだから極端にそう見えるだけかもしれないが。
ともかく、マルの第一印象は冷たい顔だった。
瞳なんかトシュナの半分ぐらいしかない。目尻もつり上がって、普通にしているだけでも睨んでいるみたいだ。それでも俺に比べちゃ倍以上の大きさを持ってる瞳だが。
俺ははぁと頭を下げ、まず水を出してやった。
別に俺がケチなわけでもなく、彼らは日本の水道水でとことん喜ぶから、単純に水を出しているだけである。
「トシュナが働いてるのってこんな変な所なんだ。もっと凄い場所だと思ってたな。涼しくていいけどね。でもなんでこんなに明るいの。へぇ、電気? なにそれ?」
マルは淡々と、声には感情を乗せつつ、表情には感情を出さずという器用な喋り方で、出会い頭に失礼なことを述べてくれた。いつの間にトシュナが正式雇用になっていた事実を雇用者の俺に伝えながら。
「よろしくドクター。トシュナは結構まじめでいいやつだ、優しくしてやってよ」
俺はあぁとだけ生返事をした。
まだマルが言ったこの言葉の意味を、深くは理解していなかった。
マルもまた、俺にとっては興味深い生命体だった。
ぜひ解剖……、いやいや、調査して、体の構造を調べたい。
顔や体つき、髪型なんぞはいろいろ個性があるし、頭から生えている葉の形状も個々によっては独特だったりする。
そして男は男。女は女で特徴がある。
特に特徴的なのは、その胸だ。
どうもここの女性らはやたらめったに胸がでかいのである。
ふざけて言っているわけではない。統計的にマジな話だ。
しかもそれをしっかり隠すだなんだとはせず、じゃらじゃらの金属ビキニで隠すだけ。頑張っても包帯みたいなサラシを軽く巻いただけ。これで隠したつもりでいる。谷間に辞書が二冊は入ると思うサイズは、そんなものじゃ隠れやしない。
例え彼女らが人間的な見た目をしておらずとも、ボディラインは絶品である。
男としては言葉に詰まるだろう。
しかも村の連中は老いも若きも、全員胸が大きい。
巨乳しか生き残れない世界なのかと思うぐらいである。
「はいドクター。今度はドクターに」
マルが陶器のコップを返してくる。
しかし飲んだというわりには水量が増えているような。
俺はコップを手にしてふと迷った。
なんだかぬるい。鼻を近づけてみると水じゃない臭いがする。
レモンと蜂蜜を溶かしたような臭いだった。
これはマルが持ってきてくれた地酒か地ジュースか?
でも来たときは手ぶらだったような。飲んで平気だろうか。
トシュナやマルに平気で、俺の腹には全然ダメってこともあるしな。
しかし出されたものを目の前で捨てるのは、日本人としてためらう所がある。
俺は少し口に含んでみた。
わりと美味い。ちょっとした酸味に、やっぱり蜜のような甘味がある。ただしアルコールはない。果実でも搾ってきたのだろうか。
「わりといけるな。なんだいこりゃ」
「マルの乳水です」
トシュナのさらりと出た一言に、俺の動きが止まった。
なんだって、原産地がマルだって?
「あー。製造過程を知らないんだが、どうやって作られたんだこの水は」
「こう。胸をしぼってです」
なんてこった! 母乳かよ! そりゃ手ぶらでも作れるわ!
しかも白っぽいわけでもなく、ほんのり黄色な上、この量はないだろうよ。乳牛並だぞ。たしかに乳牛並の胸してるけど、みなさん。
「マルは子供がいるのか?」
マルが首を横に振る。
妊娠もありえない。
なのに母乳が出るってのか。
「マル、頼みがある」
「なんだいドクター」
「おっぱい触らせてください」
マルもまた一旦眉を潜めた後、「はぁ」と呟いた。
両手を伸ばし、ぐっと片方の肉玉を掴んでみる。
男の両手でも収まりきらない巨大さ。
色と良い張りと良い、まさにバレーボールである。
「ちょっと腕を上げて、脇の下を見せてくれるか」
マルは言われたとおり、両腕を上げた。
両手で右乳房を挟んでみると、C領域(乳首(E領域)の上外側)に小さなえくぼが生まれた。えくぼとは、へこむシワである。つまりなにかあるということである。
こんな所になにかあるといえば、しこりでしかない。
表面を押してみると、確かになにかがあって、ぐにゅぐにゅと動いた。
「痛いか?」
「ベツにそんなことないけど」
「C領域にDimplingの陽性。大きさはセンチ以下。圧痛なし。可動性の良好か。鎖骨上のリンパ節への転移とかはないな……。マル、君はしばらく俺の所に来なさい」
「……なにかあるのかい?」
「あるかどうか判断するために来るんだ」
「ドクターに胸を揉まれるために?」
「そうだ。来るたびに揉む」
「マル、ドクターの診断は確実です。特に胸を揉まれた時は、なにか正しい行いの前ぶれなんですよ?」
怪訝そうな顔をするマルに、トシュナが説得を始めた。
「それは……、なんとなく理解してるけど……。……んっ」
乳房の先端をぐっと摘んでみる。
重たい全域を下から支えながら、乳首の周囲をしぼるように。
しこり発見時に確認する基本要素は三つ。
可動性か。(くっついて動かないのは、筋肉に張り付いている悪性)
dimpling(えくぼ症状)が見られるか。
それからしぼった際、分泌液が出てくるか。
と基本的な検査をしたんだが……。
そういえばこいつら、なにもなくても出てくるんだっけ。
「や……、ド、ドクター。それは……。んんっ……、だ、だめ……っ!」
やりすぎたのかなんなのか。
さっき俺が飲んだ液体が、じょろじょろと流れてきた。
母乳という量ではない。
これは色と良い、量と良い、なんというか……。
「……君たちゃ、一体どういう体の構造なんだ?」
『疑問を持ちましたね、ドクター』
首をかしげた途端、突然やつが現われた。
ツリーがひょいっと俺の司会に入ってくる。
現われたり消えたりが激しい、まるで背後例みたいなやつだ。
『私は愛するドクターがこの世界に深くずるずると隙間なく馴染めるようサポートするのが役目です。なにに興味をお持ちですか? あぁ、なるほど。女性体の乳房に興味を持ちましたか。大変結構。なるほど、さすがはドクター。興味津々ですね、乳房に。私はあなたのモチベーションの高さを称えているのです。女性体の乳房に興味を持ったドクターは、まさに研究者としての鏡でしょう』
殴られたいのかこいつは。
「で、お前は俺の興味をどう解決する」
『メディカロペディアという辞典があります。この世の生命体全てを網羅した素晴らしい辞典であり、例えどのようなマヌケで落第点なゴクツブシの人間でも操作ができるという高度なインターフェイスを持ち合わせています』
自慢げな口調が実に腹立たしい。
しかして役立つ情報なのがさらに腹立たしい。
俺はあぐらを掻いた上にスマフォを置いた。
実を言うと、辞典の存在は知っていた。
しかし使い方がいまいちわからないのと、全てが英文である。
長文の英訳を嫌って放置していたが、辞典には彼らの生体についても詳しく記載されている。読むなら今しかない。
『カメラを調べたい対象に向けてください。オーノー。乳房ではありません。全体を移してください。興味が向けられているポイントが胸であるのは理解しますが』
俺はスマフォのカメラを向け、彼女らに関する辞典を検索した。
幸いにも検索は成功し、不幸にも彼女らに関する項目は百近くあった。
しょうがないのでおっぱいだけを検索することにしよう。
……俺はネットを覚えたばかりの中学生か。
『女性種は乳房に貯水が可能。腎臓から発生する尿は水分と固形にわかれ、保存すべき水分は胸へ。アンモニアは大腸で固形化し、排便される』
が、俺が軽く訳した内容である。
残りの数十ページ近い生体に関する英文は、とても訳す気にはなれなかった。
う~ん。
ということはあれか、今俺が飲んだのは甘いおしっこか。
尿なら糖分をほんのり感じるのも頷けるが。
しかしならば男はどうなるんだろう。
『男性種は排便時に植物の種を巻くことができる。尿と便同時に排出することで、種の肥料の役割を持つ。彼らの多く住む地域では、高い緑化効果が検証できている』
おぉ。男は常にゲリピーになる代わりに、周囲の環境を緑に変えていく力があるのか。だから周囲は砂漠なのに、集落は緑に囲まれているんだな。
便をただ流して捨てるだけの人間とは偉い違いだ。
地球に優しいウンコ。努力せずとも緑が栄える。
素晴らしくエコなウンコだ。
俺は腕を組んで呻り、想像を膨らませた。
外は砂漠地帯。雨はいつ降るかわかりゃしない。
水は貴重だ。尿分だって排出したくない。
だから女性は貯水できる機関が発達する。やがて貯水機関である胸が大きければ大きい種ほど、生き残る可能性が高くなっていった。まるでラクダのこぶのように。
つまり本当に巨乳こそが生き延びてこられる世界だったんだな。
男は男で、周囲を緑化し、自分達にとってよい環境を作り上げていくことができる。
う~ん。すげえ。
一見バカバカしいようで、非のない生命活動だというのがすげえ。
ここは砂漠地帯だ。
人間だっていざとなりゃ自分の尿を飲む。おかしい話じゃない。
客に尿を振る舞うのはおかしい話だが。美味いからいいけど。
「はぁ……。ア、アタシ……、来るたびにこんなことされるのかい……?」
マルがちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめる。
顔にもちゃんと血管があるんだな。
「しこりの変化、成長を見たいだけなんだが」
「しぼられて出すなんて、初めてだよ」
「……じゃあ普段はどうやって出すんだ?」
「なにもしやしない。ちょっと脇の下に力を入れれば出るよ。男にはわかんないだろうけどね」
それってまるっきり尿の出し方じゃないか。
排泄器官の一部機能が胸のほうへ行ったと思ってまず間違いないな。
「もしかして痛かったのか?」
「ううん。全然痛くない。ただ、なんていうか……、その、へ、へんな感じで……」
「ドクター、新患ですよ」
地面を睨みつけて考えを巡らしていた俺の頭に、トシュナの声が割り込んできた。
そこで俺はくだらない推理を一旦やめた。
この尿もどきは、とりあえず後で成分検査してみよう。
しかしなにで検査すればいい。尿検査マシンか?
ただ、尿検査マシンというものは例外なく調子悪い。医療関係者内では常識の事実だ。異物でトドメを刺さなきゃいいが。