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KARTE7-1 純粋な愛

「うわぁああああっ! ぐああああ!」

 ツリーと別れ、家に着いて早々、俺は悲鳴を上げた。

 突然の腹痛だった。

 腹が裂ける痛みと言えばいいのか。

 経験のないギリギリとした痛み。

 ドリルで腹をぐじゃああっとえぐられているようである。

 俺は蓑虫のようにのたうち回り、思わず腹を手で押さえた。

 が、やはり体がなければ押さえる事ができない。

 今回なかったのは手ではない。

 腹の右半分だった。

 大慌てでシャツを捲ると、自分の腸が見えた。

 赤くぐちゅぐちゅと動いている小腸。

 激痛は臓器が外気に晒され、衣服と擦れているからであった。

 頭がギンギンと痛む。

 口から出たヨダレを拭き取る余裕もない。

 冷や汗が拭き出る。翼突筋と蝶下顎靱帯が悲鳴を上げる。腕は痙攣したかのようにがくがくと奮え、手の甲から骨がくっきりと浮き出るほど突っ張っていた。

 それが十分近く間続いたのである。

 正確に言うならば、十分後に俺は意識を失った。

 目が覚めた時、俺の腹は戻っていた。

 酷い悪夢を見ていた気分である。

 これが転送の弊害なのか。

 こんなバカらしい物、そう何度も使ってられるか。



 やがて俺は普段の生活に戻っていった。

 日の光を浴びず、ただじっと布団にくるまって過ごす。

 死んだように寝る。無意味に、ただひたすら眠るだけ。

 眼鏡をかけるのが怖かった。

 プログラムにはもう参加したくない。合格した所で意味がない。

 それにまたあんな苦痛を味わうと思うと足が震える。

 なら眼鏡なんて捨てればいいじゃないか。

 頭では理解している。

 でもどうしても眼鏡をかけたくなる。

 覚醒剤や煙草と同じように、理屈で悪いとわかっていなから手を出したくなる。

 なにせこの世界の俺はクズだ。

 誰とも触れ合わず、誰からも関心を得ず。

 生きるためにただ食い、ただ寝るだけ。

 いや、ここしらばく、何を食べたのかもさえ覚えていない。

 そこに意味や自尊心はない。あるのは惨めな姿だけ。

 しかしどうだ。あの砂漠の土地じゃ、俺は先生だ。俺は神様だ。

 ずっと諦めていた医者になれる。あの充実感だけは忘れられない。

 悔しいが、ツリーの言うとおりだった。

 俺はあそこにいたい。

 少なくとも、こんな場所よりはまだ人間らしく生きていられる。

 しかしそこに安全はない。安定もない。

 いつでも死ねるつもりでいたが、腹をえぐられる痛みを味わってまで行きたいものか。

 俺は見つからない答えを掴もうとしていた。

 なにをしていても気分が悪い。この暗くじめじめした空間から抜け出したい。

 外に出よう。そう思い立ち、玄関に向かった時だった。

『待ってください』

 眼鏡をかけなくとも、ヤツが現れた。

 暗い空間の中に、目映いほど清楚で美しい金髪をなびかせながら、美しく輝く青い瞳のツリーが。

 俺は始め言葉が出なかった。ここ何日か、喋るという動作をしていなかったから、感情を表すには喉を動かすという約束事を忘れていたのだ。

 そして気分の悪さによる意識の遠のきから、なぜツリーが見えるのか、自分に話しかけてくるのか、という単純な疑問を抱く事を忘れていた。俺はまるで普段のやりとりのように、彼女を向かえていた。

『プログラムはまだ終わっていません。さぁ戻って。眼鏡をかけて』

「……ちょっと散歩に行くだけだ。気分をすっきりさせようと思って」

『ドクターは私以外の存在に助けられるべきではありません。プログラムは私の管理範囲のみで遂行されます。しかしこの扉の先は管理範囲の外。自らの足で生きていくというのであればかまいませんが、でしたらプログラム辞退のサインをいただけませんか』

 ツリーが後から小さな羽ペンを取り出した。

 ずいぶんしゃれたペンだなと思いつつ手を伸ばした俺の手は、とてもペンを掴めるような姿をしていなかった。がたがたと振るえ、泣いているようだった。

 この扉の先になにがあるのだろう。

 いいや、なにもない。

 交通事故になって死ねるかどうかが、俺の唯一の救いだ。

 俺はペンを受け取らなかった。いいや、受け取るのが怖かった。

「俺は……、俺はどうしたらいい……」

 俺は肩を振るわせ、その場にしゃがみ込んだ。

『ドクターには私がいればいいのです。体の悩みも、心の悩みも。食事も、娯楽も。そして愛も。全て私が提供いたしましょう。間違いの無いように』

 情けない姿の俺に、ツリーは座って目線を合わせ、微笑みながら俺の手に触れた。

 その笑顔たるや、まさに完璧といえるほど心安らぐ表情だった。

 ツリーの大人びた甘く静かな声が、ぐらつく俺の心を包み込んでくる。

『さぁ今は思い悩まず……、私の元へ……』

 ツリーの声は、なぜか涙が出るほど心地良かった。

 究極に安堵してしまう声だった。耳に入ったとたん、耳石が崩れ、三半規管を狂わせて強烈なめまいを起こしてしまいそうな声だった。

 俺は結局ペンを取らずに、そのままずるずると布団に戻っていった。

 不思議と腹が減らない。ただただ眠かった。

「俺は……、俺はどうしたらいい……」

 布団の中で、何時間も自問自答を繰り替えず。

 チャンスなのか。

 それとも修羅場なのか。

 明確な線引きが出来ない。

 しかしこのままふさぎ込んで死ぬ気はない。

 十年前の俺になんて言う。医者を目指して踏ん張った俺になんて言えばいい。

 お前の努力は全て無駄だったと言うべきか。

 しかしいずれ完治すれば、俺は人生やりなおせる。

 あんな世界に行って、わざわざ危険な目を味わう必要はない。

 例え医者じゃなくても、職業選択肢はいっぱいあるはずだ。

 保守的になるもの正しい。ヘタな挑戦はできない。

 俺は間違った選択はしていないはずだ。

 少なくとも俺に残された範囲の選択では。

 これは正しい選択だ。間違った選択じゃない。

 誰だって批難はできないさ。

 そうさ。俺は、俺は……。

 俺は医者をやめて……。

 医者をやめて……。

 俺は……、それでなんのために生きているんだ?

 俺が……、本当にしたかったことは……。

 俺は……。

 俺はどうしたらいい……。

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