KARTE5-4 自分説教
日が暮れだした。
夜は働かない。体を休める時間だ。
昔は患者がいればいつまでも働く、なんてポリシーを持っていたが、その誓いを守り通りしておとずれたのは、自律神経の限界だけだった。神経の狂った医者は誰も助けられない。狂う手前でやめなければいけない。
患者をより多く助けるためにも、決めた時に決めた量を休む。
ここに俺の代わりはいない。
「トシュナ、いままでどこにいってたんだ」
そして、彼女の代わりも。
日が暮れると、俺の目はとことん弱くなる。街灯なんてものはない。彼女が通信機器を持っているわけでもない。
そんななか、唯一の身内が見つからない。
俺は心底心配した。デパートで親を見失った子供のように泣いた。そしたらトシュナは満足そうな表情でやってきた。
「ネズミ、捕まえてきました!」
はぁはぁと息を整えながら、得物を自慢げに見せる。
人の足ほどある茶色い野ネズミ。知的な罠によって捕獲されたというよりは、鈍器のようなもので頭をたたきつぶされている。
検査するならばネズミである。
現地産のネズミならば、いろんな菌を持っているだろう。
だからネズミを捕まえようとは漏らしていたのだが。
俺は頭を掻いてため息を吐いた。
「いいか。はぁ。もういい、わかった、一度話をしよう」
捕まえたネズミをスーパーの袋に突っ込む。
俺はトシュナを一旦自宅に連れ込み、説教をすることにした。
眼鏡を外して、風呂場に戻る。
家に帰ったら必ず汚れを落とす。爪の間はブラシで洗うし、イソジンも使って菌を徹底的に落とす。ちょっとずつ説教をこぼしながら。
「熱心なのはわかる。だけどなあ、やりすぎだ。病気を持ったネズミに噛まれたらどうする。自分までおだぶつだ」
仏教用語をさらっと言ってしまったが、トシュナは水を浴びながら黙って話を聞いていた。
後ろ姿は西洋彫刻の女性である。肌も白いし。
ぼんやりとした暖色の電球に照らされた、肌を滴る水は、どこか神秘的に見える。
顔を見なければ、思わず手が出てしまうような光景であるが、出したところで繁殖方法が違うのでどうしようもない。歯がゆいものである。
「はい……。わかりました……」
俺の愚痴めいた説教に、弱々しく反応するトシュナ。
しゅんとする……、というよりは、なにか言いたげであった。
「あぶなっかしいんだ。今は良くても、そのうちどこかで悪い結果を起こす。死にたいのか君は。せっかく学んだ知識を無駄にするつもりか。君は大切な存在だ。いずれもっと、もっと、沢山の人を救う……、はずだから……」
俺は唇をひん曲げて押し黙った。
誰に言っている言葉なのかわかりゃしない。
トシュナに向けた言葉のはずなのに、一瞬で自分に戻ってくる。
この前まで死にたいと思っていたのは俺のほうだ。せっかく学んだ知識を無駄にしていたのは俺だ。まるで自分を叱っているようで気持ち悪い。
「すまない……」
俺は顔を逸らして謝っていた。
説教する威厳もなにもなかった。
落ち込んだ顔のまま、俺は衣服を丸めてゴミ袋の中に入れようとした。
別に捨てるわけじゃない。洗濯機に投げ込むまでの防衛策だ。
清潔さを保つというのは、簡単な作業のようで、実際はいろいろ難しい。汚れた手で少しでもどこかを触れば、それは不潔と見なされる。まるで「そこバイキン田中が触ったとこだぜ、えんがちょー」というぐらい、一度触った所は触わってはいけないのである。なんの菌を持ち込んでいるのかわからない以上、清潔さを保つのは最大の課題だ。
そしてこの作業は、そもそも手がなければできない話でもある。
「な、なんだ……? またか?」
俺は自分の右前腕を凝視した。
手がまた消えていた。
今度は前腕で、手首から先がなくなっている。
あの幻覚だ。
一度目はびびったが、そう何度も起きられちゃ、俺だって慣れる。
しかし痛みで目を覚まさせる手段は取りたくない。
風呂に入ってさっぱりすれば、そのうち腕も戻ってくるだろうか。
という上手い話は存在せず――。
「ドクター、その手どうしたんですか」
「なにが」
「右手、なくなってますよ」
彼女の一言は、俺を整理不能な混沌世界にたたき落とした。
なんだって。
これは幻覚じゃないのか?
第三者の目から見ても手が見えないということは、俺の手は確実になくなっているということである。
まさか。俺の頭が正常であると認めたくない。
右前腕がないのが正しいと決定したくない。
「あ、あぁ、これか……、これはあの、気にするな。事故だ。そ、そんなことより君だ」
俺は咄嗟に話題をすり替えた。
「しばらく家に帰ったらいい」
右腕を隠しながら、本題に入る。
トシュナは後ろを向きながら、ぴたりと動きを止めた。
「危険すぎる。あの場で積極的なのは評価されない」
「……ドクターは私がおじゃまなのですか?」
いつもとは違う、あまりに冷たい声だ。
怒りと悲しみの境目に乗った声だ。
「じゃまなんかじゃない。むしろ必要だ。大切なんだよ」
便器の上に乗ったまま、俺はマジメに答えた。
「わかって欲しい。心配だから言ってるってことを」
「や、やめてくださいっ」
突然トシュナが声をあげた。
なるべく言葉を柔らかく言っていたつもりだっただけに、反論されて俺は驚いた。
「全部、ドクターのせいですから」
「は? なんだって?」
「全部ドクターのせいですよ」
俺はトシュナを見下ろした。
トシュナは鋭い視線を俺にぶつけていた。
なにかを掴んだ揺るぎない瞳だった。俺にはない、熱い感情がそこにはあった。
「ただ生きて、ただ暮らす。家族がいて、ほんの少しの充実と幸せをもらう。その……、そのなんの意味もない生活をしていた私の前に、ドクターが現われて。そうしたら、今までの私の満足が、とてもちっぽけなものだったと知らされて」
トシュナの目尻に涙が溜まっていく。
「私は、私はヤリガイを見つけてしまったんです」
「やりがい……?」
「ドクターは言いました、私にヤリガイを見つけろと。だから私は見つけんです、誰からも感謝されることのなかった人生ではなく、人の命を救い、感謝される人生を。ヤリガイを見つけたんです。全部、全部ドクターのせいですよ」
トシュナは自分の腕で乱暴に涙を拭った。
そうして、俯いたままぼそぼそと喋った。
「ヤリガイなど、見つけなければよかった。ドクターが私に生きる意味を教えてしまったんです……、医療を施し、人を助ける意味と使命感、その価値を……、私に……。私は、とても楽しかった……。だからやめられないんです……。大切だなんて、言われたことないんですから……」
全ては俺のせい。
批難されつつも、罵倒されているわけではない。
俺は押し黙った。何かを言い返せる頭を持っていなかった。