KARTE1-1 どこかの砂の上
俺がツリーと初めて仕事をしたのは、数ヶ月前のことだった。
そこは砂漠だった。
周囲を見渡せば、青い空。赤い地面。赤い岩肌。
遠くを見ても、赤い砂丘がそびえるだけ。
文明的なものはなにもない。
高い気温と低い湿度は日本の夏よりも涼しいものの、気温は明らかに高い。
以前俺は留学中に観光旅行のつもりでアメリカ中部を車で走ったことがある。あの時の光景によく似ている。
しかしなぜ俺がこの場にいるのか、とんと思い出せない。
歩いてきたのか、車で来たのか、飛行機できたのかすらわからない。
ツリーがあそこは日差しが強いですからこの眼鏡をかけてくださいと言って、出された細長いサングラスをかけてみたら、ここにいた。
つまり俺は今わけのわからない世界にいる。
現実なのか、夢なのか、幻聴なのか。
頭が混乱してきた。皮膚をつねってみても痛いだけ。
いぜん俺はここにいる。
昔抗精神病薬と酒を一緒にあおるという自殺まがいを行ったとき、緑あふれる山奥で意識を取り戻したことがある。自分がなぜここにいるのか。ここはどこかのか。どうやってきたのか。考えても考えてもわからなかった。
あの時に似ている。
ここは夢なのか、現実なのか。
いくら考えてもわからない。
しかしなぜか、やることはわかっていた。
なぜわかっていたのかについては、この時点ではまだわかっていなかったが。
『ドクターは現在若い夫婦が二人きりという状況をどう捉えますか? 愛を営むシチュエーション? いいえ、残念ですが、これから始まるのは診療という仕事なのです』
かたわらにいるツリーはこんなこと言っていた。
どうも俺に診療させたいやつがいるらしい。
俺は汗だくだった。俺が倒れそうである。
しかしツリーは汗一つ滲ませない。涼しげな顔で歩いている。
まぁ、こいつの顔が涼しげじゃなかったことなんてないのだが。
「その診療をすると、俺になんの得がある」
『もちろん。このテスト(試練)を乗り越えることは全てドクターのため、ひいてはご褒美となります』
「……家に帰れるご褒美はないのか」
『あぁ。終わった後に』
「もうすでに辛いんだ。テストってやらを乗り越えられる気がしない」
『確かに困難なテストは、危険や激しい痛みを、死ぬか死なないかのギリギリの範囲で繰り返し提供してくれます。問題解決のため、時には自らの身を引き裂き、命を落としかける時もあるでしょう。しかしそんな時こそ、愛する私を思い出してください。共になら乗り越えられます』
ツリースマイル。
目元を動かさず、口元だけにんまりする不気味な笑顔。
『さぁ、まもなく来ます。最初のテストが』
ツリーが遠くを指さす。
指の向こうには、砂漠の熱で揺れる人影があった。
人影は徐々にこちらに近づいてくる。
そうして俺の目の前に来るやいなや、跪いて大きく叫んだ。
「あぁ神よ!」
詰めた声が飛んできた。
「お願いします。私の村を、私の村をっ! 呪いから救ってください!」
可愛らしい女性の声。
しかし彼女は人間ではなかった。
後ろ一本に縛られた長い髪は、鮮やかな緑色をしていた。
青々とした笹の葉というか、むしろ葉そのものというか。
肌は容赦なく真っ白い。
先天性白皮症なんてもんじゃない。白カブか大根みたいに真っ白だった。
長い前髪に片方隠れた瞳。大きな赤い眼。人間とは違う、昆虫的な瞳だ。
アメリカ人が好みそうな、人とエイリアンが交じった風貌である。
俺が学生時代によくやっていた洋ゲーに出てきそうである。
この世界はゲームなのか?
「なんだ。俺は……、俺は、ここじゃ神って設定なのか?」
『この個体がそう思いこんでいるだけです』
ツリーが簡素に答える。
この個体である彼女は、トシュナと名のった。
俺に向かって、大泣きする勢いで話しかけている。そう、俺だけに。
どうもツリーが見えるのは俺だけのようだ。
ツリーが俺だけにしか見えない嘘の存在であるのは間違いない。
トシュナは自分の村の状況を、深刻な面持ちで訴え続けた。
村の抱える問題を解決することが、テストの目的なのだろうか。
「一つ二つ質問して良いか。呪いとはどんな呪いだ」
「子供だけがかかる呪いです。血の涙を流しながら、呪われた半分ほどが死んでしまう恐ろしい呪いです」
「血の涙ね。で、あんたどうして俺が神だと思うんだ?」
「そうお告げがありました。今日この時、ここに神が参られると。もし我々の命を救ってていただけるのであれば、私はなんでもいたします。この身と血だけでなく、村の家畜の首を十ほど捧げまましょう」
「いや家畜の首は貰ってもぜんぜん嬉しくないんだけど……」
俺は跪く彼女を見下ろした。
顔は人間に近いものの、人間ではない。
しかし体つきはとても人間である。しっかりとした肉付きの良い体。
豊満な胸は、たった一つで俺の顔の体積さえ超している。
その体を、スカスカな銅鉄の装飾品が微妙な面積を隠している。
布や絹ではない。磨かれた銅鉄が、ビキニのような形でじゃらじゃらと肌にくっついている。
その姿を見るや、実に鑑賞深いものがあった。
「命を救うためならなんでもすると言ったな」
「はい、もちろん」
「じゃあおっぱいさわらせてください」
トシュナは「はぁ」と頷いた。
体を触られるのに抵抗はないと思えるほど、あっさりしていた。
さっそく手を伸ばしてみる。
白い腹に触れ、もぞもぞと皮膚を撫でる。
表面は冷たく、汗が滲んでいる。
金属の装飾品の下から手を忍ばせ、二つに実った肉塊を揉んでみる。
片方でキログラム単位の重量測定ができる。
そして人間のものよりいくらか張りがあって、ゴム鞠のような硬い感触だった。
う~ん。これは凄い。素晴らしい。
この重さ、例えどれほど重くとも、一切苦にならない重さだ。
「よし。わかった。ただ言っておくが、俺は神様じゃない。ドクターだ」
「はい、ドクター」
「天変地異なんかの相談は受け付けないが、病気なら任せなさい」
どうせ呪いって言っても、実は病気かなにかだ。
俺は村に向かって歩き出した。
風と、臭いと、暑さを感じながら。
だるけからか、まるで夢の中にいるような感覚だった。
もしかして寝ているのではないかと思ってしまうぐらいに。
不眠症による幻覚に慣れていると、現実と嘘の境目がわからなくなるから困る。