KARTE0
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甲状腺機能障害の患者を三連続で診断させられたような青ざめた朝。
一過性脳虚血発作を起こし、腸間膜動脈血栓症に痛めつけられ、肺血栓症で呼吸も重たく、体の節々からプロスタグランジンと、ロイコトリエンと、トロンボキサンが発生しているようなけだるさ。
人生で眠ることほど苦痛なものはない。
こんな寝起きを必ず迎えなければならないのだから。
眠りにつく恐怖は耐え難い苦痛だ。
始めに言っておく。これからする話は、結論だけ言えば大したものじゃない。
俺がいかにぐっすり眠れるかどうかの話だ。
不眠症の医者が現場復帰のリハビリを受ける話なんだ。
さぁ朝になった。
頭を殴りつけて目を覚まし、俺は病院へ行く。
行って、ばたんと倒れた。今日の俺は便器に顔を突っ込みながら倒れている所を発見され、気がついた時には夜勤用の仮眠ベッド(ソファー)に昼間から横たわっていた。
そんな俺に待っていたプレゼントがある。予想通りの首切り宣告だ。
「もうそんな体じゃ仕事できないでしょう」
医局が並ぶ廊下で、医局長が俺の肩を叩く。
俺の腕は忙しく揺れていた。ペンすら握れないほどだった。
始まりは突然の不眠症。眠りは浅く、寝起きは激痛。
時折めまいや頭痛がする。手に痺れが走る。いわゆる鬱病の典型例だった。
「仕事を頑張りすぎたんだ。もうやめたほうがいい。私の知り合いにいたんだ。そのまま続けて、結局自殺したやつが。リタリンがないと診察できないやつもいた」
リタリンは精神刺激剤と呼ばれ、日本においては薬品だが、世界的にいえば覚醒剤である。そんな薬を飲み続けたらどうなるか。想像は容易い。
「残念だけどしばらく休みなさい。元気になったら研修だけ終わらせればいい」
「はい……」
「そうだ。どうだい、医療関係者向けのカウンセリングがあるんだ。……なんだ、乗る気じゃないね。いいかい、忠告しておく、参加したまえ。病気を一人で悩んじゃいけないよ」
「……カウンセリングってなにをやらされるんですか」
「さぁ。でも結構人気で、話によるとカウンセリングプログラムを受けるまでかなり待たされるらしいよ。参ったね。そんなに支援が必要な医者がごろごろいるなんて」
振るえる手を抑えながら、俺は小さくはいと返事をした。
参加するとだけ伝え、俺はとりあえず世話になった建前上、一度だけそのカウンセリングとやらの説明と手続きを受けたが、だいぶ待つとか言われ、それっきり行かなくなった。
それが約二年前の話だ。
上司の忠告を守って、律儀にカウンセリングを受け続けておけばよかったと後悔しても遅すぎた。再び受けようにも、職場の人間はすでに俺のことなど忘れているだろう。
今の俺は……、なんだろうな。
就労不能の診断書により、生活保護を受けて生き延びている。
手指振戦は未だに治らない。(意図しない手の振るえ)
リタリン依存にはならなかったが、抗うつ剤のパキシルの離脱症状(薬が抜けた後の依存症)に悩まされ、結局酒に逃げた。酷い時は布団の中で大量の失禁をしたと自覚しながらも、一時間起き上がれなかった。典型的な鬱病患者の末路を辿っていた。
俺はこんな生活をくり返している。
寝起きは今でも最悪だ。
どうにか目を覚まそうと顔を洗っても、そこに写る顔は俺の顔ではなかった。
無意味で無価値なのっぺらぼうである。
俺ではない。誰でもない。なんの意味もない顔である。
突然顔がすり替わったとしても、誰ひとりとして困らない。
生きている意味など忘れてしまった。
ただ死ぬのもおっくうだから死んでいないだけである。
俺は暗い家の中で、ひたすら時間が流れるのを待っていた。
八畳の1DK。肌色のカーペットは、全ての毛が寝込み、立派な硬さを保っている。
万年床の寝床、テーブル、片付ける事を忘れられた山積みの本棚。
玄関から入れば、左に細長い台所と、右にトイレ共同のバスルーム。
黒カビが窓際にたまっている。
外へは一切出ない。
玄関を開け、外に出るのがおっくうだった。いや、怖かった。
そんなゴミ溜めみたいな空間で毎日を過ごしていた。
二年も経てば症状こそ軽くなったものの、医者には戻れない。
病気が再発するのが怖くて、歩き出すことができない。
常に一人。この暗い部屋で過ごす。
いいや、正確に言うと、ある時から、俺は一人ではなくなった。
この部屋には、もう一人の住民がいる。
『おはようございます、ドクター』
一人の少女が俺に話しかける。
背の低い綺麗な女の子。
身長が一一〇センチ前後。だらっと伸びた金髪が、ふくらはぎまで続いている。
白い素肌に、一枚の白いワンピース。
清楚感溢れる見た目でありながら、どこか不気味だった。
眠たそうな目蓋は、半分だけ開いて、半分だけ閉じている。
眉毛や口元が動くのに、目だけは微動だにしない。
「やぁおはよう」
俺は寝たまま少女に返事をした。もちろん英語で。
彼女は俺の嫁である。なお、現実には存在しない。
この少女の存在は嘘である。
薬に依存し、まともに動けなくなり始めたころ、いつしか現れるようになった。
人によっては、存在しないネズミがそこらじゅうを這いずり回ったり、人の目が壁から出てきて常に自分を監視しているとか、恐ろしい幻覚を見るようだが、俺が見ている幻は比較的優しいものだった。
『愛しのドクター。今日も診療に向かわれますか?』
あまりにも透き通った、感情のかけらもない女性の英語。
穏やかな囁き声は、睡魔を催すほど心地良かった。
飴でも一つほおばりながら喋っているまどろっこしさを持ちながら、とても美しくセクシーな声だ。ただし、イントネーションはどこか外れ、さながら文章自動読み取り音声である。
「今日は気分が良くないんだ……」
『外の新鮮で埃臭い空気を吸えば気分も変わります。こちらの埃臭くかび臭い空気よりは身体的負担も低いでしょう』
聞いているだけで、心拍が下がる声。
形も掴めず、水飴のように透き通りつつ、どろっとしている。
『これはテスト(試練)です。テストはドクターのためです。そして私はドクターのために存在しているのです。テストを乗り越えなければ優秀な医者になれません』
実に心地良い声だ。
人に安らぎを与える、色っぽい声。
彼女に急かれ、俺はしぶしぶ起き上がった。
服を着替え、充電していた電話を取る。
まだ働いていた時に買ったスマートフォン。
これが俺の仕事道具である。
感覚のない手で掴んで、懐にしまう。
『さぁ、始めましょう。人類のためにもね』
彼女の名前はツリー。
とても頭が切れ、俺を常に助けてくれる。
最高の嫁であると断言できる。
俺はツリーと一緒に、医者としてのリハビリプログラムを行っている。
本原稿は既に完結された原稿があり、それに少々の手を加えて投稿しております。ようは賞落ち物ってやつです。