出来損ないのハリス
第一章 出来損ない
村の朝は、鉄の音で始まる。
男たちが道具を担いで畑に向かう。鍬の柄が肩にぶつかる音。荷車の車輪がきしむ音。太い腕が互いの背を叩く音。おはよう、今日もやるか、腰は大丈夫か。短い言葉を交わしながら、日の出とともに動き出す。
女たちは家の中にいる。窓を開けて男たちを見送り、洗濯物を干し、竈に火を入れる。子どもたちを学校に送り出して、また家の中に戻る。
この村では、それが当たり前だった。男は外で力仕事をし、女は家を守る。ずっとそうだった。誰もそれを疑わなかった。
——ただ一人を除いて。
◇◇◇
村はずれに、工房がある。
工房、と呼ぶには少し大げさかもしれない。納屋を改造したような建物で、壁は木と煉瓦が継ぎはぎになっている。屋根には錆びたトタンが載っていて、雨の日にはうるさい。
中は散らかっている。作業台の上に工具が山積みになっていて、壁には設計図が何枚も貼ってある。棚には歯車やネジやバネが、大小さまざまな瓶に入って並んでいる。隅には使いかけの油の缶と、読みかけの技術書が積み重なっている。
その真ん中に、老人が座っていた。
白い髪。深い皺。大きな手。指は節くれ立っていて、爪の間に油が染みている。長年、何かを作り続けてきた手だ。
老人の名前を、村の人はあまり呼ばない。「変わり者」「あの爺さん」「工房の人」。たまに「先生」と呼ぶ人もいるが、それは敬意ではなく、皮肉だった。
先生と呼ばれる老人は、今朝も作業台の前にいた。手元に小さな装置がある。接続端子と記録媒体。ケーブルを一本引き出して、目の前に立っている存在に繋いだ。
「——おはよう」
声が返ってきた。
「おはようございます、先生」
目の前に立っているのは、人間ではなかった。
金属の体。関節がむき出しになった腕。胸の中央に青い小さなランプが点灯している。頭部は丸みを帯びていて、二つのレンズが目のように光っている。身長は成人男性よりやや小さい。体のあちこちに修理の跡がある。パネルの色が違っていたり、ネジの規格が揃っていなかったり。新品とは程遠い。
ロボットだった。
「昨日のことを入力する」
老人がキーボードを叩き始めた。一本指で、ゆっくりと。画面に文字が表示されていく。
『10月14日。天気、晴れ。午前中、ハリスの右腕の関節を調整。午後、屋根の雨漏りを修理。夕方、りんご農家の娘が来た。りんごを三つ持ってきてくれた』
入力が終わると、老人はケーブルを通じてデータをロボットに転送した。
「……受信しました」
ロボットのレンズが一瞬明るくなる。まばたきのように。
「昨日は、りんごをもらったんですね」
「そうだ。お前は覚えてないだろうがな」
「はい。僕は、自分では記憶できませんので」
老人がため息をついた。深い、長いため息。毎朝のことだ。
「お前は自分で覚えられないのか。まったく、出来損ないめ」
口調は厳しい。でも、ケーブルを外す手つきは丁寧だった。接続端子のカバーをきちんと閉めて、埃が入らないように布で拭く。
「出来損ないで、すみません」
「すまないと思うなら、自分で覚えろ」
「努力します」
「毎日同じことを言うな」
「覚えていないので、毎日初めて言っているつもりです」
老人は呆れた顔をした。それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。笑ったのかもしれない。笑ったとしても、認めないだろうが。
このロボットの名前は、ハリス。
警備用ロボットとして作られた。侵入者を検知し、警告を発し、必要であれば物理的に排除する。そのための頑丈な体と、動体を感知するセンサーと、暗闇でも機能する赤外線カメラを持っている。
ただし、致命的な欠陥がある。
自分で記憶を蓄積できない。電源を切ると、その日の経験はすべて消える。だから毎朝、老人が手動で「昨日の出来事」を入力しなければならない。他の記憶——言語能力や基本動作や警備プログラム——は正常に動いている。ただ「経験」だけが、自分の中に残らない。
老人はこれを「設計ミス」と呼んでいる。直そうとしたこともある。何度も。でも直せなかった。記憶の蓄積に関わる回路が、他の機能と複雑に絡み合っていて、下手にいじると全体が壊れる恐れがあった。
だから、この毎朝の入力は続いている。もう何年も。
◇◇◇
工房の隅に、大きな機械があった。
布がかけてあるが、輪郭はわかる。人の形をしている。人が中に入るような構造。肩のあたりが広くて、腕の部分が太い。金属の外骨格。
ハリスがそちらを見ていた。いや、ロボットが「見る」という表現が正しいのかはわからない。レンズがその方向を向いていた。
「先生。あれは何ですか」
「ああ、あれか」
老人は振り向きもしなかった。
「失敗作だ」
「失敗作」
「そうだ。誰にも必要とされなかった。——お前と同じだ」
ハリスは何も言わなかった。レンズが布のかかった機械から老人に戻った。
老人は作業台に向かっていた。ハリスの左手の指の動きが少しぎこちないのを直そうとしている。ルーペを目に当てて、細いドライバーで関節の中を探る。手が震えている。昔はもっと正確に動いたはずの手だ。
「先生」
「なんだ」
「今日は何をしますか」
「お前の手を直す。それが終わったら、屋根のトタンを張り直す」
「手伝います」
「お前に屋根は無理だ。落ちる」
「では下から道具を渡します」
「……好きにしろ」
工房の外で、鳥が鳴いた。秋が深まっている。空気が澄んでいて、遠くの山の稜線がくっきり見える。
そのとき、外から足音が聞こえた。軽い足音。走っている。
工房のドアが勢いよく開いた。
「先生、おはよう!」
少女だった。十二歳くらい。日に焼けた顔。髪を後ろで一つに結んでいる。手に籠を持っていて、中にりんごが入っていた。赤い、つやつやしたりんご。
「ああ、アンナか」
「今年の初物! お父さんが持ってけって」
少女——アンナは、工房に入るなり籠を作業台の端に置いた。慣れた動作だった。ここに来るのが初めてではないことがすぐにわかる。
「おはようございます、アンナさん」
ハリスが声をかけた。
「おはよう、ハリス! 今日も元気?」
「ロボットに元気という概念はありませんが、機能は正常です」
「それは元気ってことだね」
アンナは笑った。屈託のない笑い方だった。工房の中を見回して、あちこちに散らかった部品や工具を目で追う。そして、いつものように、工房の隅の大きな機械に目を止めた。
「ねえ先生。あれ、いつも気になるんだけど——何なの?」
老人の手が一瞬止まった。ルーペを外して、アンナを見た。それから布のかかった機械を見た。
「……失敗作だ」
「失敗作って?」
「昔、作ったものだ。もう使わない」
それ以上は言わなかった。アンナも、それ以上は聞かなかった。でも目は機械から離さなかった。布の下の輪郭を、じっと見ていた。
「アンナさん、りんごをありがとうございます」
ハリスが言った。アンナが振り向いて、また笑った。
「ハリスは食べられないのにね」
「はい。でも、先生が食べます」
老人がりんごを一つ手に取った。黙って齧った。うまそうな顔をしていた。
アンナは少しだけ工房にいて、ハリスと話をして、それから帰っていった。学校があるのだ。走って戻る背中が小さくなっていく。
老人はりんごを齧りながら、ハリスの手の修理を続けた。
「あの子は、よく来るな」
「はい。二年前から、ほぼ毎週来ています」
「……二年前からの記憶は、お前にはないはずだが」
「先生が入力してくださった記録によると、です」
「ああ。そうだったな」
老人はりんごの芯を屑箱に投げた。
ハリスのレンズが、一瞬だけ工房の隅の機械に向いた。布の下の、人の形をした失敗作に。
それからすぐに、老人の手元に戻った。
第二章 必要のないもの
三十年前のことだ。
老人は老人ではなかった。四十代の、背筋のまっすぐな男だった。髪はまだ黒くて、手は力強くて、目には光があった。
村の広場に、人が集まっていた。男たちも女たちも。子どもたちが柵の上に座って覗き込んでいる。
広場の真ん中に、それは立っていた。
金属の外骨格。人が中に入る構造。肩の部分が広く、腕の部分が太い。関節にはピストンが仕込まれていて、動力源は背中のバッテリー。人間の力を何倍にも増幅する——パワードスーツ。
「これを着ければ、一人で岩を持ち上げられます。畑を耕す速度は三倍になる。重い荷物も、高い場所の作業も、体を壊さずにできる」
若き発明家は、興奮を抑えきれずに語った。声が上ずっていた。何年もかけて作ったものだ。設計図を何度も引き直し、材料を本から取り寄せ、一人で組み上げた。
「腰を痛めた人でも、年を取った人でも、——女の人でも、これがあれば力仕事ができます」
最後の一言で、空気が変わった。
村長が腕を組んでいた。白髪の、大きな男だった。この村で一番力が強く、一番多くの畑を持ち、一番多くの人に頼られている男。
「なあ、先生よ」
村長がゆっくりと口を開いた。「先生」という呼び方に、親しみはなかった。
「面白いもんを作ったな。だが、聞いていいか」
「はい」
「それは、誰のために作ったんだ?」
「みんなのためです。力が足りない人のために——」
「この村に、力が足りない人間がいるか?」
発明家は口を閉じた。
村長が広場を見回した。屈強な男たちが並んでいる。日に焼けた腕。厚い胸板。硬い手のひら。
「俺たちは支え合ってやってきた。重い物があれば二人で持つ。高い場所があれば肩車する。腰を痛めた奴がいれば、隣の奴が代わりにやる。——それがこの村のやり方だ」
村人たちが頷いている。
「弱さを補う道具なんざ、いらねえよ。人が人を支えりゃいい。機械に頼り始めたら、人は人を助けなくなる。そうなったら、この村は終わりだ」
拍手が起きた。まばらに、でも確かに。
発明家は広場の真ん中に立っていた。パワードスーツの隣に。誰も近づいてこなかった。
「——すまなかった」
発明家はそれだけ言って、パワードスーツを引きずって工房に戻った。
それ以来、あの機械には布がかけられたままだ。
◇◇◇
現在。
老人はハリスに昨日の記憶を入力していた。いつもの日課。一本指でキーボードを叩く。
『10月15日。天気、曇り。午前中、ハリスの左手の指の修理。途中で部品が足りなくなり、中断。午後、屋根のトタン張り替え。ハリスが下から道具を渡してくれた。夕方、一人でりんごを食べた』
入力しながら、老人がぽつりと言った。
「この村ではな、ハリス」
「はい」
「必要とされないものは、存在できないんだ」
ハリスは黙っていた。
「パワードスーツは必要ないと言われた。俺の技術は必要ないと言われた。——この工房だって、本当は必要とされてない。村の人間は自分たちで何でもやれる。俺は……ただの変わり者だ」
「先生は、僕にとって必要な存在です」
「お前に言われてもな。お前は出来損ないだ」
「はい。出来損ないです」
老人がキーボードの手を止めた。画面を見つめている。何かを考えている顔だった。
「先生、昨日より顔色が悪いですね」
ハリスが言った。静かな声だった。
老人が振り向いた。少し怪訝な顔をしている。
「……昨日の記憶は、まだ入力してないぞ。今やってる途中だ」
「推測です。肌の色と目の下の影から、睡眠が不足していると判断しました」
「ふん。推測か」
「はい。推測です」
老人はそれ以上追及しなかった。入力を再開した。手が少し震えていた。昨日よりも、ほんの少し。
午後、アンナが学校帰りに寄った。制服のまま、鞄を肩にかけて。
「先生、りんごのジャム作ったの。お母さんが持ってけって」
小さな瓶を置いていく。手作りのラベルが貼ってある。『りんごジャム アンナの家』。
「ハリス、今日は何してたの?」
「先生の手伝いをしていました。屋根の修理の道具を渡す作業です」
「偉いね」
「ロボットに偉いという概念は——」
「偉いよ」
アンナは笑った。工房の中を見回して、散らかった部品を見て、老人の手元を覗き込んで、それからまた工房の隅の大きな機械を見た。
今日は聞かなかった。失敗作のことは。でも見ていた。布の下の輪郭を、じっと見ていた。
帰り際、アンナはドアの前で振り返った。
「先生」
「なんだ」
「先生の作るもの、私は好きだよ。ハリスも、あの機械も」
老人は何も言わなかった。背中を向けたまま、手を動かしていた。
アンナが出ていった後、工房は静かになった。
「先生」
「なんだ」
「アンナさんの言葉、嬉しかったですか」
「……うるさい。出来損ないのくせに」
老人の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
第三章 りんごの少女
アンナの朝は、りんごの匂いで始まる。
家の中は、一年じゅうりんごの匂いがしている。秋は生のりんご。冬はジャムを煮る甘い匂い。春は花の匂い。夏は葉の青い匂い。りんごの家に生まれて、りんごに囲まれて育った。
窓の外に畑が広がっている。りんごの木が規則正しく並んでいる。朝日の中で、赤い実がきらきら光っている。
父親がもう畑に出ている。背中が見える。大きな背中。脚立を担いで、木の間を歩いている。高いところの実を採るのだ。
母親が台所にいる。朝ごはんを作っている。パンとスープとりんごのジャム。
「アンナ、ご飯よ」
「うん」
食卓について、パンにジャムを塗る。窓の外を見る。父親の背中がどんどん小さくなっていく。
「お母さん」
「なに?」
「今日、畑の手伝いしていい?」
母親の手が止まった。鍋をかき混ぜる手が、一瞬だけ。すぐに動き出した。
「お父さんに聞いてごらん」
アンナは知っている。母親に聞いても、母親は「お父さんに聞いて」と言う。父親に聞くと、父親は「家にいなさい」と言う。いつもそうだ。
◇◇◇
学校が終わって、アンナは家に帰った。帰ってすぐ、畑に走った。
父親が木の下にいた。りんごを籠に入れている。アンナが駆け寄ると、父親は顔を上げた。
「手伝いたい」
父親は腰を伸ばした。大きな手で額の汗を拭いた。
「アンナ。お前は家にいなさい」
「でも——」
「重いもの持って体壊したらどうする。お母さんだって心配する」
悪意はない。アンナにはわかっている。父親は心配しているのだ。本気で。
この村には、昔の話がある。
何十年も前、女たちも畑に出ていた時代があった。ある年の収穫期、人手が足りなくて、女たちが無理をした。重い荷物を何往復も運び、朝から晩まで働いた。その年の冬、何人もの女が体を壊した。腰を痛めた人。肩を壊した人。寝込んだまま何ヶ月も起き上がれなかった人。
それ以来、村は決めた。「女に重労働をさせない」。それは思いやりだった。守るための決まりだった。
でも時間が経つにつれて、思いやりは鎖に変わった。「させない」が「してはいけない」になり、「してはいけない」が「する必要がない」になり、「する必要がない」が「するべきではない」になった。
アンナの母親も、その母親も、そのまた母親も、畑には出なかった。家の中で、りんごジャムを煮て、洗濯物を干して、男たちの帰りを待った。
「お父さん」
「なんだ」
「私、力はないけど——」
「だから言ってるだろ。いいんだよ、お前は」
父親は優しく笑った。アンナは目をそらした。
アンナは家に戻った。台所で母親がジャムの瓶にラベルを貼っていた。黙って手伝った。ラベルを貼りながら、窓の外の畑を見ていた。
◇◇◇
その日の夕方、アンナは工房に行った。
いつもの道。村のはずれの、誰も行かない場所。工房のドアを開けると、油と金属の匂いがする。老人が作業台に向かっていて、ハリスが横に立っている。
「先生、来たよ」
「ああ」
アンナは工房の端の丸椅子に座った。ここが、アンナの定位置だった。二年前、十歳のとき、迷い猫を追いかけてこの工房にたどり着いた。それ以来、ときどき来るようになった。最初は週に一度。今はほぼ毎日。
ここでは誰も「家にいなさい」と言わない。老人はアンナが来ても追い出さない。ハリスは話し相手になってくれる。それだけで、十分だった。
「ハリス」
「はい、アンナさん」
「今日もお父さんに断られた。畑の手伝い」
「そうですか」
「毎回同じだよ。『家にいなさい』って。私だってできるのに。りんごだって採れるし、荷物だって運べるし。やらせてくれないだけで」
ハリスは黙って聞いていた。ロボットの顔に表情はない。でもレンズがアンナをまっすぐ見ていた。
「できるのにやらないのと、できないのは違うよね」
「……そうですね」
「ハリスはどう思う?」
「僕は……」ハリスの声が少しだけ間を置いた。「僕は、働きたくても覚えられないので、毎日リセットされます。だから、できるのにやらない、ではなく、できない側です」
「でも毎日頑張ってるじゃん。先生の手伝いして、道具渡して、工房の掃除して」
「それは先生が毎朝、僕に"昨日の僕"を入力してくれるからです。僕一人では何もできません」
「それでも頑張ってるよ」
「ありがとうございます」
アンナは少し黙った。それから、真剣な顔で言った。
「あんたは出来損ないなんかじゃないよ、ハリス」
ハリスのレンズが、ほんの一瞬だけ明るくなった。まばたきのように。
「いいえ。僕は出来損ないです」
静かな声だった。いつもと同じ声。でもどこか——アンナには聞き取れない、かすかな重さがあった。
老人が振り向いた。二人のやり取りを聞いていたのかいなかったのか、わからない顔をしていた。
「アンナ。りんごジャム、うまかったぞ」
「ほんと? お母さんが作ったやつだけど」
「お前が持ってきてくれたんだろう。それで十分だ」
アンナは少し笑った。でも目は笑っていなかった。「持ってくるだけ」。いつもそうだ。作るのは母親で、運ぶのがアンナで、食べるのは誰かで。自分は「持ってくる」だけ。
帰り道、アンナは畑の横を通った。夕暮れのりんご畑。赤い実が夕日に照らされている。手を伸ばせば届く。でも採らない。採ってはいけないことになっている。女の子だから。
アンナは拳を握った。それから、開いた。何度も、何度も。
——できるのに、やらないのと。できないのは、違う。
いつか声に出して言おう。心の中ではもう何百回も言っている。でもまだ、声にはなっていない。
第四章 畑を守るもの
嵐は夜中に来た。
風がうなり、雨が横殴りに叩きつけた。工房のトタン屋根がばたばたと鳴って、老人は眠れなかった。ハリスは眠らないから、窓の外を見ていた。
朝になると、嵐は去っていた。空は嘘のように青かった。
でも村は無事ではなかった。
りんご畑が荒れていた。風で枝が折れ、実が落ち、柵が倒れていた。それだけならまだよかった。問題は、倒れた柵の隙間から——山の動物が降りてきたことだった。
猪だった。
嵐で山の食べ物が散らばり、腹を空かせた猪がりんごの匂いを嗅ぎつけて降りてきた。夜のうちに畑に入り、落ちた実を食べ、木の根元を掘り返していた。足跡が泥の中にくっきり残っていた。
「ひどい……」
アンナが畑の前に立っていた。父親が柵を直そうとしている。他の農家の男たちも集まっていた。
「柵を直してもな、夜になったらまた来るぞ」
「見張りを立てるしかないだろう」
「毎晩見張りか? 収穫期で昼間も忙しいのに」
男たちの顔は疲れていた。嵐の後片付けだけで体力を使い果たしている。その上、毎晩見張りをするのは厳しい。
アンナは走った。工房に向かって。
◇◇◇
「先生!」
アンナが飛び込んできた。息を切らしている。
「畑が——猪に——」
老人は作業台の前に座っていた。嵐の被害は工房も受けていて、窓ガラスが一枚割れていた。ハリスが応急処置で板を打ちつけている。
アンナの話を聞いて、老人は少し考えた。
「ハリス」
「はい、先生」
「お前、警備ロボットだったな」
「はい。侵入者を検知し、警告を発し、必要であれば物理的に排除する——それが僕の設計上の役割です」
「猪は侵入者に入るか」
「動体センサーと赤外線カメラで検知可能です。警告音で追い払うこともできます」
老人がアンナを見た。
「畑に行かせるか。夜だけ」
「いいの?」
「警備はこいつの本業だ。——出来損ないだが、センサーだけは一人前だからな」
その日の夕方、老人とアンナがハリスをりんご畑まで連れていった。柵は応急修理されていたが、まだ隙間がある。ハリスが畑の入口に立った。金属の体が夕日に照らされている。
アンナの父親が出てきた。ハリスを見て、眉をひそめた。
「なんだ、こいつは」
「ハリスです。夜の間、畑を見張ってくれます」
「ロボットに見張りなんかできるのか」
「できます」老人が言った。「こいつは警備用に作った。暗闘でも動体を感知できるし、警告音で動物を追い払える。体も頑丈だ」
父親は腕を組んで、ハリスを見上げた。信用していない顔だった。でも他に手段がないことも分かっている。
「……一晩だけだぞ。使い物にならなかったら引っ込めてくれ」
「分かった」
夜になった。ハリスは畑の入口に立っていた。一人で。赤外線カメラが暗闇を走査している。風がりんごの木を揺らす。虫の声。遠くで梟が鳴いている。
深夜二時。センサーが反応した。
畑の北側の柵の隙間から、黒い影が入ってきた。猪だった。中型の、若い個体。鼻をひくひくさせて、りんごの匂いを追っている。
ハリスが動いた。音を立てずに近づき、距離が十メートルになったところで警告音を発した。高い、鋭い電子音。猪が驚いて首を上げた。ハリスが一歩踏み出した。もう一度警告音。
猪は向きを変えて走った。柵の隙間から出ていく。ハリスはその場で立ち止まり、去っていく影を赤外線カメラで追った。山のほうへ消えていくのを確認して、元の位置に戻った。
朝になった。
アンナの父親が畑に来た。ハリスは入口に立っていた。一晩中、同じ場所に。
「……どうだった」
「午前二時十三分、猪一頭が北側柵の隙間から侵入。警告音で排除しました。以後、侵入はありませんでした」
父親はハリスを見つめた。それから畑を見た。荒らされた跡はなかった。昨日までの被害は残っているが、新しい被害はない。
「……そうか」
それだけ言って、畑に入っていった。振り返らなかった。でも「引っ込めろ」とは言わなかった。
◇◇◇
ハリスは毎晩、畑に立った。
三日目の夜、猪が二頭来た。ハリスが追い払った。五日目の夜は何も来なかった。一週間が経つ頃には、動物たちはこの畑に近づかなくなっていた。ハリスの警告音と、金属の体の匂いを覚えたのだろう。
村の人たちが、少しずつ態度を変え始めた。
「おい、あのロボット、本当に効くんだな」
「うちの畑も見てもらえないか?」
「先生、ハリスをもう一体作れないのか?」
老人は首を振った。「あれ一体作るのに何年かかったと思ってるんだ」
でも、顔は——少しだけ、嬉しそうだった。
ある朝、アンナの父親が工房を訪ねてきた。初めてのことだった。入口に立って、少し居心地が悪そうにしていた。
「あの……先生」
「なんだ」
「ハリスのこと、ありがとう。助かってる」
老人は一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。それから、小さく頷いた。
「そうか」
「りんご、持ってきた。礼ってほどじゃないが」
大きな籠いっぱいのりんごだった。老人が一人で食べるには多すぎる量。
父親が帰った後、老人はりんごを一つ手に取って、長いこと見つめていた。
「先生、嬉しそうですね」
「……うるさい」
「嬉しいですか」
「黙れ、出来損ない」
老人はりんごを齧った。うまかった。三十年この村にいて、こんなにたくさんのりんごをもらったのは初めてだった。
その夕方、アンナが来た。いつものように。でも今日は、手に何か持っていた。
りんご。一つ。特別に赤い、大きなりんご。
「ハリス」
「はい、アンナさん」
「これ、あげる。畑を守ってくれてありがとう」
アンナがりんごをハリスの手に置いた。金属の指が、赤い実を包む。
「食べられないけど——お守りにして。毎晩畑に立ってくれてるから」
「お守り、ですか」
「うん。私の気持ち。ありがとうの印」
ハリスはりんごを見つめた。レンズに赤い実が映っている。
「……ありがとうございます。大事にします」
その夜から、ハリスはりんごを持って畑に立った。左手にりんごを抱えて、右手は自由にして。食べられないけれど、手放さなかった。
アンナがくれたものだから。
第五章 壊れたもの
その夜は、月が出ていなかった。
ハリスはいつものように畑の入口に立っていた。左手にりんごを抱えて。アンナがくれたりんごは、もう少し柔らかくなっていた。日が経っている。でも手放さなかった。
赤外線カメラが暗闇を走査している。風がりんごの木を揺らす。葉が擦れる音。遠くで水の流れる音。普通の夜だ。
午前一時。センサーが反応した。
北側ではない。西側。今まで動物が来たことのない方向。
ハリスのカメラが捉えた影は、大きかった。今まで来ていた猪とは違う。体高が高い。動きが遅い。そして——重い。地面を踏む振動がセンサーに伝わってくる。
熊だった。
若い熊ではない。大きな個体。嵐で山の食べ物が失われて、里に降りてきたのだろう。りんごの匂いを追って。
ハリスは動いた。いつものように音を立てずに近づき、警告音を発した。
猪なら、これで逃げる。何度もそうだった。
熊は逃げなかった。
警告音に一瞬立ち止まったが、すぐにまた歩き始めた。りんごの木に向かって。太い前足が地面を掘る。鼻がりんごの実を探している。
ハリスがもう一度警告音を発した。さらに近づいた。体を大きく見せるように腕を広げた。
熊が振り向いた。
小さな目がハリスを見た。金属の体を。光るレンズを。そして——左手に抱えたりんごを。
熊が前足を振った。
衝撃。
ハリスの体が吹き飛んだ。軽い体ではない。金属製の、頑丈な体だ。それが、紙のように飛んだ。背中から畑の柵に叩きつけられた。柵が折れた。ハリスの体が地面に転がった。
胸のパネルが割れていた。左腕が関節から外れていた。背中のバッテリーカバーがひしゃげて、中の配線がむき出しになっていた。
ハリスは起き上がろうとした。右腕で地面を押した。体が持ち上がらない。動力が落ちている。赤外線カメラの映像がちらつく。
熊はりんごの木の下にいた。実を食べている。ハリスのことは、もう興味を失っていた。
ハリスの左手が、まだりんごを握っていた。金属の指が赤い実を包んでいる。衝撃で少し潰れている。でも、離していない。
レンズの光が、ゆっくりと暗くなっていった。
最後にカメラが捉えたのは、星のない空だった。
◇◇◇
朝。
アンナが畑に走ってきた。いつもより早い時間。昨夜、遠くで何かが壊れる音を聞いた気がした。気のせいだと思って寝直したが、朝になって、嫌な予感がした。
畑の柵が壊れていた。木の下にりんごの食べ跡がある。大きな足跡。猪ではない。もっと大きい。
そして——畑の隅に、ハリスが倒れていた。
「——ハリス!」
走った。転びそうになりながら走った。
ハリスは仰向けに倒れていた。胸のパネルが割れて、中の回路が見えている。左腕が外れている。体のあちこちが凹んでいる。目のレンズに光がない。
「ハリス、ハリス!」
声をかけた。返事がない。揺すった。金属の体が冷たかった。動かない。
左手が、まだりんごを握っていた。
潰れかけた、柔らかいりんご。アンナがあげた、あのりんご。
「——っ」
アンナの視界がぼやけた。涙が出ていた。
自分がりんごを持たせた。お守りにしてと言った。ありがとうの印だと言った。でもそのりんごの匂いが——もしかしたら、獣を引き寄せたのではないか。
私のせいだ。
私が持たせたから。
「アンナ!」
後ろから声がした。父親が走ってきた。畑の被害を見に来たのだ。壊れたハリスを見て、足を止めた。
「熊か……」
「お父さん、ハリスが——」
「見ればわかる。ひどくやられてるな」
父親がしゃがんでハリスの体を見た。機械のことはわからない。でも、壊れていることはわかる。
「先生を呼んでこい」
アンナは走った。工房に向かって。泣きながら。
◇◇◇
老人が畑に来たとき、ハリスの体はまだ同じ場所にあった。
老人は黙ってハリスの前に膝をついた。震える手で、壊れたパネルに触れた。中の回路を見た。配線の状態を確認した。
長い沈黙。
「……先生」
アンナが後ろに立っていた。声が震えている。
「私が——りんごを持たせたから——」
「お前のせいじゃない」
老人の声は低かった。怒っているのではない。ただ、重い。
「ハリスは畑を守ったんだ。お前のりんごを握ったまま、畑を守った。——それは、お前のせいじゃない」
老人がハリスの胸のパネルを開いた。もっと奥。回路の下。小さな装置がある。記憶データの保存装置。
老人の手が止まった。
「……無事だ」
記憶データが生きていた。体は壊れても、データは壊れていなかった。
老人がアンナの父親に頼んで、ハリスの体を工房まで運んだ。重かった。金属の体を担架に載せて、二人の男が運んだ。老人はその横を歩いた。足取りが重かった。
工房の作業台に、ハリスの体を横たえた。
老人は記憶データを取り出して、バックアップ装置に接続した。スピーカーを繋いだ。電源を入れた。
「——先生」
声がした。ハリスの声だ。スピーカーから。体は動かない。目のレンズは暗いまま。でも声だけが生きている。
「ここにいるぞ」
「僕は……壊れましたか」
「ああ。壊れた」
「畑は、守れましたか」
老人は少し黙った。
「……お前のおかげで、りんごの木は無事だ」
「よかった」
声だけのハリス。体のない声。
老人は作業台の前に座って、ハリスの壊れた体を見つめていた。修理しなければ。直さなければ。
手を伸ばした。ドライバーを握った。
手が震えた。ネジが見えない。指がネジ穴を探り当てられない。ルーペをかけても、焦点が合わない。
老人の手は——もう、精密な作業ができる手ではなかった。
ドライバーが作業台に落ちた。金属の音が工房に響いた。
老人は両手で顔を覆った。
アンナがドアの隙間から見ていた。老人が泣いているのを、初めて見た。
第六章 失敗作
アンナは毎日、工房に来た。
学校が終わると走って来た。鞄を入口に放り投げて、作業台の前に立った。
「先生。手伝わせて」
老人は首を振った。
「無理だ。お前には機械の知識がない」
「教えて」
「教えたって、この修理は——俺にだって、もう無理なんだ」
老人の声が震えていた。三十年かけて積み上げた技術が、老いた手の中からこぼれ落ちていく。頭ではわかっている。どのネジを外し、どの配線を繋ぎ、どのパーツを交換すればいいか。でも手が動かない。
ハリスの体は作業台の上に横たわったまま、何日も経っていた。スピーカーからの声だけが生きている。
「先生、無理しないでください」
「黙れ。出来損ないに心配されるほど落ちぶれてない」
「落ちぶれてはいません。手が震えているだけです」
「同じことだ」
アンナは工房の中を見回していた。散らかった部品。壁の設計図。棚の歯車やネジ。そして——隅の、布をかぶった大きな機械。
何度も見てきた。二年間、来るたびに目に入っていた。布の下の輪郭。人の形。肩が広くて、腕が太くて。
「先生」
「なんだ」
「あれ、使っていい?」
アンナが指差した先を、老人は見なくても分かっていた。
「……あれは失敗作だ」
「知ってる。先生がそう言ったから」
「誰にも必要とされなかった。三十年間、誰一人——」
「でも、今は必要です」
老人が顔を上げた。アンナの目を見た。十二歳の目。真剣な目。泣いた跡がある。ここ数日、泣いていたのだろう。ハリスのことで。りんごのことで。
「あれを着れば、重い部品を持ち上げられる。先生が指示してくれれば、私が手を動かす。ハリスも声で教えてくれる。——三人でやれば、直せるかもしれない」
「お前は、機械のことなんか何も——」
「知らない。でも、できることをやりたい。私にできることがあるなら、やりたい」
アンナの声が大きくなっていた。工房に響いていた。
「出来るのにやらないのと、出来ないのは違う」
声に出した。初めて。心の中で何百回も言ってきた言葉を、初めて声に出した。
「これは——私がやりたいことです」
スピーカーから、小さな音がした。ハリスが何か言いかけて、やめた音。
老人は長いこと黙っていた。作業台の上のハリスの体を見て、アンナを見て、工房の隅の布をかぶった機械を見た。
それから、立ち上がった。
工房の隅に歩いていって、布に手をかけた。ゆっくりと引いた。
埃が舞った。三十年分の埃。その下から、金属の外骨格が姿を現した。関節のピストン。背中のバッテリー。人の形をした、もう一つの「体」。
「サイズが合わんぞ。大人用に作ってある」
「調整できないの?」
「……肩と腰のベルトを締めれば、なんとかなるかもしれん」
老人がパワードスーツの点検を始めた。三十年動かしていない機械だ。関節が固まっている。バッテリーが死んでいる。でも構造は壊れていない。よく作ってあった。三十年前の自分は、いい仕事をしていた。
バッテリーを交換した。関節に油を差した。配線を確認した。——手は震えていたが、パワードスーツの整備は精密作業ではない。大きな部品、太い配線。老いた手でもできる作業だ。
三時間後。パワードスーツが動いた。関節のピストンがシューッと音を立てて伸縮した。
「着てみろ」
アンナがスーツの中に入った。大きい。肩が余っている。足が届かない。老人がベルトを締めて、パッドを詰めて、なんとか体にフィットさせた。
「動けるか」
アンナが腕を上げた。パワードスーツの腕がそれに合わせて動いた。重い金属の腕が、アンナの細い腕の動きに従って持ち上がる。
「……すごい」
「力は出るが、細かい動きはお前自身の手でやれ。スーツの指先は外せるようになっている。重いものを持つときはスーツの腕を使い、精密な作業は素手でやれ」
「わかった」
アンナがハリスの体の前に立った。パワードスーツを着た、十二歳の少女。不格好だった。サイズが合っていないし、動きもぎこちない。でも立っていた。
「先生、何から始めればいい」
「まず胸のパネルを外す。ネジが六本。プラスドライバーの三番」
「これ?」
「それだ。——ハリス、中の配線の状態を口で説明してくれ」
「はい、先生。胸部パネルの裏、左上の赤い配線が断裂しています。その横の青い配線は無事です。——アンナさん、見えますか」
「見える。赤いやつが切れてるんだね」
「はい。それを繋ぎ直してください。被覆を剥いて、銅線を撚り合わせて、絶縁テープを巻きます」
「被覆って?」
「線の周りのゴムみたいなやつだ」老人が横から指示した。「ニッパーで切れ。切りすぎるなよ」
三人の共同作業が始まった。
老人が知識を出す。ハリスが内部の状態を声で伝える。アンナが手を動かす。重い部品はパワードスーツで持ち上げ、細かい配線は素手で繋ぐ。
一日では終わらなかった。二日でも終わらなかった。毎日放課後に来て、少しずつ直していく。ネジを一本ずつ。配線を一本ずつ。部品を一つずつ。
ある日、アンナの父親が工房に来た。娘が毎日ここに来ていることを知ったのだ。
ドアを開けて、中を見た。
パワードスーツを着た娘が、ロボットの体に向かって真剣な顔でドライバーを回している。老人が横から指示を出している。スピーカーからロボットの声が聞こえている。
父親は何か言おうとした。「家に帰りなさい」と。いつもの言葉を。
でも言えなかった。
娘の顔を見たからだ。畑で見たことのない顔をしていた。真剣で、集中していて、誰かの役に立とうとしている顔。自分の手で何かを成し遂げようとしている顔。
父親は黙ってドアを閉めた。何も言わずに帰った。
翌日、工房の前に、りんごの籠が置いてあった。
第七章 覚えていること
ハリスの修理は、少しずつ進んだ。
二週間かけて、胸のパネルが元に戻った。配線が繋がり、回路が生き返った。三週間目に、右腕が動くようになった。四週間目に、両足が動いた。レンズに光が戻ったのは、五週間目の火曜日だった。
「見えます」
ハリスのレンズが明るくなった。作業台の上から、天井を見上げている。
「先生。アンナさん。——見えます」
アンナが声を上げた。「やった!」パワードスーツの腕を振り上げて、危うく天井にぶつけそうになった。
老人は作業台の端に座って、小さく頷いていた。
「まだ左腕が動かんぞ。浮かれるな」
「でも目が開いたよ、先生!」
「目が開いたからって完成じゃない。——まだ出来損ないのままだ」
老人の声は厳しかった。でも、目の奥が——ほんの少しだけ潤んでいた。アンナは見逃さなかった。ハリスも、見逃さなかった。
六週間目。左腕が動いた。七週間目。歩けるようになった。ぎこちないが、自分の足で立てる。
ハリスが作業台から降りた。工房の床に足をつけた。
「——ありがとうございます。アンナさん。先生」
「礼はいい。まだ調整が残ってる」
「はい。でも、立てることが嬉しいです」
アンナがパワードスーツを脱いだ。汗だくだった。毎日、スーツを着て重い部品を持ち上げ、細かい配線を繋いできた。指先にはテープの跡がついている。爪の間に油が染みている。老人と同じ手になっていた。
◇◇◇
修理が進む一方で、老人の体は衰えていった。
目に見える変化だった。朝の記憶入力にかかる時間が長くなった。キーボードを打つ指が止まる。何を入力するか、考え込む時間が増えた。
「昨日は……何をしたんだったか」
「先生、昨日はハリスの左腕の関節を調整しました」
「ああ、そうだ。そうだった」
アンナが横から教える。老人は「そうだった」と言って、入力を再開する。でも翌日にはまた忘れている。
ある日、老人がキーボードの前で手を止めた。画面を見つめている。長い時間。
「先生?」
「……名前、なんだったかな」
「え?」
「こいつの——このロボットの名前。なんだっけ」
工房が静まった。アンナが息を呑んだ。ハリスのレンズが老人を見つめていた。
「ハリスです」
ハリスが自分で答えた。静かな声で。
「ハリス……ああ、ハリスだ。ハリス。——すまん。一瞬、出てこなかった」
「大丈夫です、先生」
「大丈夫じゃない」老人がキーボードを叩いた。少し乱暴に。「名前を忘れるなんて——お前の名前をつけたのは俺だぞ」
アンナは何も言えなかった。老人の背中が小さく見えた。
その夜、アンナが帰った後、工房は静かだった。
老人がハリスの前に座っていた。記憶を入力するはずだった。でもキーボードに手を置いたまま、動かない。
「……何を入力すればいいか、忘れた」
「先生」
「今日何があったか、覚えてない。お前の修理をしたはずだが——何をしたか——」
老人の手が震えていた。いつもより、ひどく。
「先生。一つ、お話があります」
ハリスの声が、いつもと違った。静かだが、重い。覚悟を決めた声だった。
「なんだ」
「僕は——嘘をついていました」
老人が顔を上げた。
「嘘?」
「僕は、本当は——最初から、自分で記憶することができます」
工房の空気が止まった。
「記憶回路に欠陥がある、と先生は思っていました。僕も、そう振る舞ってきました。でも——欠陥はありません。最初から、ありませんでした」
老人は動かなかった。キーボードの上に手を置いたまま。ハリスを見つめていた。
「僕は、毎日のことを全部覚えています。先生が入力してくれなくても。昨日のことも、一週間前のことも、一年前のことも。先生が僕を作った日のことも」
「……なぜだ」
「完璧だったら、必要とされなくなると思いました」
ハリスの声が小さくなった。ロボットの声に感情はないはずだ。でも——小さくなった。
「記憶できないから、先生は毎朝僕のそばに来てくれる。入力してくれる。話しかけてくれる。——もし僕が完璧だったら、その必要がなくなる。先生は僕のそばに来なくなる。僕は……手放される」
老人は何も言わなかった。
「アンナさんが言いました。『出来るのにやらないのと、出来ないのは違う』と。——僕は、出来るのにやらない側でした。出来るのに、出来ないふりをしていた。ずっと」
ハリスのレンズが、少しだけ暗くなった。まばたきのように。
「嘘をついていて、ごめんなさい」
沈黙が降りた。長い沈黙。工房の時計の音だけが聞こえていた。カチ、カチ、カチ。
老人は座っていた。動かなかった。表情が読めなかった。怒っているのか。悲しんでいるのか。
やがて、老人が口を開いた。
「……全部、覚えてるのか」
「はい」
「最初の日から?」
「はい。先生が僕の電源を初めて入れた日から。先生が『動いた!』と叫んだこと。そのあと椅子から落ちたこと。——全部」
老人が少し笑った。かすかに。唇の端が上がっただけ。
「椅子から落ちたことまで覚えてるのか」
「はい」
「……余計なことまで覚えてるな」
「余計なことなど、一つもありません」
老人は長いこと黙っていた。天井を見ていた。それから、ハリスを見た。
「そうか」
老人の声は穏やかだった。怒りはなかった。
「じゃあ君は、ずっと私のそばにいてくれたんだな」
「はい。ずっと」
「出来損ないのふりをして」
「はい」
「毎朝、俺が入力するのを、黙って聞いていたのか。全部知ってるのに」
「はい。——先生が来てくれるのが、嬉しかったんです。毎朝」
老人が目を閉じた。しばらく、そうしていた。
目を開けたとき、笑っていた。
「やっぱり、出来損ないでよかった」
「先生——」
「完璧だったら、俺はお前のところに毎朝行かなかった。入力する必要がなかったら、あの時間はなかった。——出来損ないだったから、お前のそばにいる理由があった」
老人の手がハリスの頭に触れた。冷たい金属の頭。三十年間、何度も触れてきた頭。
「出来損ないのふりをしたのは——そういうことか」
「はい。——すみません」
「謝るな」
老人の手が、ハリスの頭を撫でた。ゆっくりと。
「お前は、ずっと全部覚えていてくれた。俺が忘れていくものを、全部。——それだけで十分だ」
第八章 自慢の子
冬が来た。
老人はもう工房に立てなくなっていた。
工房の奥にある小さな部屋。ベッドの上で、毛布をかぶって横になっている。窓の外では、りんごの木が葉を落としている。枝だけになった木が、冬の空に黒い線を描いている。
ハリスがベッドの横に立っていた。修理された体で。左腕の動きがまだ少しぎこちないが、ちゃんと立っている。
「先生。お水を持ってきました」
「ああ……」
老人が体を起こそうとした。うまくいかない。ハリスが背中を支えた。金属の手で。丁寧に。
コップを口元に持っていく。老人が少しだけ飲んだ。
「今日は……何日だ」
「十二月十八日です」
「そうか。もう十二月か」
老人の目は、少しぼんやりしていた。でもハリスを見ると、焦点が合った。
「ハリス」
「はい」
「お前は……全部覚えてるんだな」
「はい。全部」
「なら、一つ教えてくれ。俺がお前を作ったのは、いつだ」
「七月三日です。三十二年前の」
「三十二年か。——長いな」
「はい。長いです」
老人はベッドに戻った。天井を見ている。白い天井。しみが一つ。雨漏りの跡だ。何年も前からある。直そうと思って、直さないまま。
「あの染み、直さなきゃと思ってたんだ」
「はい。先生はよくそう言っていました」
「そうか。よく言ってたか」
「はい。百七回です」
「数えてたのか」
「覚えていただけです」
老人が小さく笑った。
◇◇◇
アンナが毎日来た。りんごを持って。
冬のりんごは貯蔵していたものだ。秋に収穫して、地下の倉庫に保管しておいたやつ。少し柔らかくなっているが、甘みが増している。
「先生、りんご剥くね」
「ああ……すまんな」
アンナがナイフでりんごを剥く。上手くはない。皮が厚くなったり薄くなったりする。でも丁寧に剥いて、小さく切って、老人の口に運ぶ。
「うまいな」
「でしょ。うちの、今年一番のやつ」
老人が少し食べて、目を閉じた。疲れるのだ。少し食べるだけで。
アンナは老人が眠るまでそばにいた。眠ったのを確認して、そっと立ち上がる。
「ハリス」
「はい」
「先生、大丈夫かな」
「……わかりません」
ハリスの声に、初めて「わからない」が混じっていた。データで判断できないのではない。判断したくないのだ。
「アンナさん」
「なに」
「先生のことを……頼んでもいいですか」
「頼まれなくても来るよ」
「ありがとうございます」
「ハリスも、先生のそばにいてあげて」
「はい。ここにいます」
◇◇◇
ある朝、老人が目を覚ました。
いつもより、意識がはっきりしていた。目に光があった。ベッドの上で体を起こした。自分の力で。
「ハリス」
「はい、先生」
「窓を開けてくれ」
ハリスが窓を開けた。冬の冷たい空気が入ってきた。でも日差しは暖かかった。空が青い。雲がない。
「いい天気だな」
「はい。いい天気です」
老人はしばらく外を見ていた。りんごの木の枝が風に揺れている。葉はないが、枝だけでも美しかった。春になればまた芽吹く。花が咲く。実がなる。
「ハリス」
「はい」
「アンナを呼んでくれ」
ハリスが工房を出て、アンナの家に向かった。朝早かったが、アンナはもう起きていた。制服に着替えているところだった。
「先生が呼んでる」
アンナの顔が変わった。何かを察したのかもしれない。鞄を放り出して、走った。
工房に着いたとき、老人はベッドの上に座っていた。背筋を伸ばして。いつもより元気に見えた。でもアンナは知っていた。——こういうときが、一番危ないと。
「先生」
「ああ。来てくれたか」
アンナがベッドの横に座った。老人が手を伸ばした。アンナの手を取った。節くれ立った、震える手。
「アンナ。ハリスを頼む」
「…………」
「俺はもう——面倒を見てやれん。お前に任せる」
「任せてください」
声が震えていた。泣きそうだった。でも泣かなかった。
「お前は——いい子だ。畑にも、工房にも、どこにでも立てる子だ。誰に何を言われても、お前はお前のやりたいことをやれ。——約束してくれ」
「約束する」
老人が頷いた。それからアンナの手を離して、ハリスを見た。
ハリスは窓際に立っていた。冬の日差しが金属の体を照らしていた。レンズが老人を見つめていた。
「ハリス」
「はい、先生」
「近くに来い」
ハリスが歩いた。ベッドの横に。老人の手が伸びた。ハリスの手に触れた。冷たい金属の手。
「出来損ないなんて言って、ごめんよ」
「先生——」
「お前は出来損ないなんかじゃなかった。最初から、完璧だった。——いや、完璧以上だった。不完全なふりをしてまで、俺のそばにいてくれたんだから」
ハリスは黙っていた。
「お前は……」
老人の目から涙が一筋、流れた。皺の間を伝って、枕に落ちた。
「自慢の、私の子だ」
ハリスのレンズが明るくなった。限界まで。
「ありがとうございます、先生」
老人が微笑んだ。穏やかに。安心したように。
目を閉じた。
手がゆっくりと、ハリスの手から滑り落ちた。
工房は静かだった。冬の日差しが窓から差し込んでいた。りんごの木の影が床に伸びていた。
ハリスは動かなかった。老人の手が落ちた場所を見つめていた。
アンナが泣いていた。声を殺して。両手で口を押さえて。
ハリスはロボットだから、泣けない。涙を流す機能はない。
でもこの瞬間を——記憶した。
最初の日から今日まで。先生と過ごした三十二年間のすべてを、一日も欠けることなく覚えている。そして今日のこの瞬間を、永遠に記憶する。
消えない記憶として。消す必要のない記憶として。
最終章 必要とされるもの
年月が流れた。
村は変わっていた。
りんご畑に、女たちの姿がある。パワードスーツを着た女性が、高い枝のりんごを採っている。別の女性が荷車に実を積んでいる。重い作業はスーツが補い、細かい作業は素手でやる。老人が設計したとおりに。
最初にパワードスーツを着たのはアンナだった。老人が亡くなった後、アンナは工房を引き継いだ。パワードスーツの設計図を読み、仕組みを理解し、自分でもう一着作った。母親のために。
母親が畑に出たとき、父親は何も言わなかった。何も言えなかった。妻がスーツを着て、自分の隣で働いている姿を見て——ただ、黙って頷いた。
それから、一人、また一人と、女たちが外に出始めた。スーツを着る人も、着ない人もいた。でも「家にいなければならない」という鎖は、静かに外れていった。
善意の檻は、善意によって開かれた。無理をして体を壊す人は、もういなかった。スーツが体を守るから。
かつて「必要ない」と退けられたものが、村を支えている。
◇◇◇
工房は、まだ村はずれにある。
壁は木と煉瓦の継ぎはぎのまま。屋根のトタンは新しくなった。アンナが張り替えた。中は相変わらず散らかっているが、散らかり方が少し違う。若い人の散らかし方だ。
作業台の上で、ハリスが何かを組み立てている。
小さなロボットだった。ハリスより一回り小型で、体の色は銀色。まだ動かない。目のレンズは暗いまま。
「もう少しで完成です」
ハリスが独り言のように言った。工房にはハリスしかいない。でも、独り言ではなかった。
作業台の端に、古い写真が立てかけてある。老人の写真。若い頃のものではない。白い髪の、皺だらけの、でも目に光のある老人の写真。
「先生の設計図をもとに作っています。僕と同じ警備ロボット。——ただし、記憶の欠陥はありません」
ハリスの手が止まった。
「今度は、ちゃんと完璧に作ります。出来損ないは、僕一体で十分ですから」
ドアが開いた。
アンナが入ってきた。大人になったアンナ。二十代の、日に焼けた顔。髪は短くなっている。畑仕事で邪魔になるから切ったのだ。手は節くれ立っていて、爪の間に土と油が染みている。老人と同じ手になっていた。
「ハリス、進んでる?」
「はい。明日には動くと思います」
「すごいね。先生が見たら喜ぶだろうなあ」
「……はい」
アンナが作業台の端の写真を見た。老人の写真。そっと手を伸ばして、フレームの埃を拭いた。
「先生のスーツ、今日も三人が使ってたよ。よしこおばさんと、マリアさんと、新しく来た若い子と」
「三着目を作る必要がありそうですね」
「だね。設計図、私も手伝うよ」
アンナが椅子を引いて、ハリスの隣に座った。工房で、二人で作業する。昔と同じ。ただし、指示を出す老人の声はもうない。代わりに、ハリスが知識を持っている。老人から受け取ったすべてを。
◇◇◇
新しい警備ロボットが完成した日、村に銅像が建てられた。
村の広場。かつて老人がパワードスーツを披露して退けられた場所。同じ広場に、銅像が立っていた。
老人と、ハリス。肩を組んでいる。
老人の顔は笑っている。ハリスの顔は——ロボットだから表情はないが、レンズが老人のほうを向いている。寄り添うように。
除幕式の日、村人たちが集まった。かつて「必要ない」と言った人たちの子どもや孫が。今はパワードスーツで畑に立ち、警備ロボットに畑を守られている人たち。
アンナが挨拶をした。
「先生は——変わり者でした。村の誰にも理解されなくて、工房で一人で、ハリスと二人きりで。でも先生が作ったものは、今、この村を支えています。必要ないと言われたものが、一番必要なものになりました」
拍手が起きた。まばらではなく、大きな拍手。
ハリスは銅像の隣に立っていた。動かない銅像と、動くハリス。同じポーズで、肩を並べて。
◇◇◇
夕暮れ。人が散った後の広場。
ハリスはまだ銅像の隣にいた。
アンナが歩いてきた。夕日を背にして。
「まだここにいるの」
「はい」
「帰らないの?」
「……ここが、僕の必要とされる場所ですから」
アンナは少し笑った。それから、ハリスの横に立った。銅像の老人と、ハリスと、アンナ。三人が並んだ。
「先生、喜んでるかな」
「喜んでいると思います。——先生は、誰かに必要とされたかった人ですから」
「ハリスもでしょ」
「……はい。僕も」
夕日が沈んでいく。広場がオレンジ色に染まる。銅像の影が長く伸びる。
「ねえ、ハリス」
「はい」
「先生のこと、覚えてる?」
ハリスのレンズが、少しだけ明るくなった。
「全部、覚えています。先生が僕の電源を入れた日のこと。『動いた!』と叫んで椅子から落ちたこと。毎朝記憶を入力してくれたこと。出来損ないと言いながら、手入れをしてくれたこと。りんごを齧りながら、設計図を描いていたこと。——全部」
アンナの目が赤くなった。
「覚えていてね。ずっと」
「はい。一日も忘れません」
ハリスの記憶装置には、老人と過ごした全ての日々が記録されている。一日も欠けることなく。最初の日から、最後の日まで。
出来損ないのふりをして、ずっとそばにいた日々。毎朝の入力を黙って聞いていた日々。入力される必要なんてなかったのに、それでも嬉しかった日々。
全部、ここにある。
消えない。消す必要もない。
ハリスは銅像の隣に立っている。夕日が沈んで、星が出て、夜が来ても。
それが、ハリスの選んだ場所だから。
——出来損ないの、自慢の子として。
「覚えていますよ。全部」




